樋口楓の1stライブ『KANA-DERO』に行った後日談 -楓組じゃないでろーんファンの1月12日の感想/日記-

 でろライブに行った時のことを日記る。

起きた

 物販を買うためになるたけ早い時間の電車に乗ろうとしてなるたけ布団にIN DA 布団したんだけれども、いまいち寝れなくて22時に1回布団から出てPUBGモビールして0時くらいにもっかい布団に入ったものの4時に目が覚めたり5時に目が覚めたりしてを繰り返して結局5時だか6時だかに布団を出てライブ前日放送を見ながら卵焼きを作って食べたり(うまくできた)して身支度をした。

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あんまり早く行き過ぎて誰もいなかったら寂しいのでTwitterで現場の様子を探り探りしながら出発時間を探り探りしてこの動画を見終わったあたりが7:20でそのとき付いてきてもらった友達にそのあたりに出る旨を連絡して乗り換え案内で見たりすると上手いこと合流できそうということになった。

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物販に6時間ならぶ

 コミケだとかアイマスのライブだとかに行く時は電車の中が同じ目的地の人が何人かいるな~って思うけど今回はぜんぜんそんなことはなく周囲を見回してもユニバーサルスタジとかに向かう人ばかりで桜島駅を降りたらユバーサルスになぜか遠回りしていこうと言う人たちの流れになぜかついていって途中までZEPPOSAKABAYSIDEと逆方向に行ったりした。

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 8時、友人と合流して列に並んだ時点で前にいたオタクは1クラス分くらいで初めは寒くなかったけど11時12時、3時間4時間1月の寒空の下並んでいるとさすがに持ってきていた10個以上のカイロも次々と開封されて全身カイロまみれおたくとなっていった。

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 なんか半袖のオタクが縦横無尽に待機列を行き来している、なんだあれは、さっきまでおまえコート着てたやろ、なんであえて脱いだ?「やっぱこのかっこうじゃ寒いなあ!」などとでかい声でのたまっておるんやが、なんなんだあれは、いったい。

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 「フラスタ」それは俺がアイマスを追っているとき(いまもやめたわけではないが)に良く見た祝祭の象徴、それが『KANA-DERO』の会場前にも置かれていて、とても暖かな気持ちになったが、連れてきた友人はライブ自体初体験で、が自分の爺さんが死んだ時の葬式のフラスタ(?)の話をし始めて、最終的に爺さんの棺の上でデレステのAR機能で小梅を躍らせたらしく、もうその友人には「お前帰れもう」と言った。

買えた

 物販カウンターの人たちはみなにじさんじジャンパー着てて、「お、ウワサのインターンか!?」となってなぜかテンションが上がって無職だと言うのに物販アイテムを1万6000円ぶん全部買ったわけで、パーカーを買えた友人が小躍りしながら物販出口から出てくるもんだからまだ待機列に居る人の恨めしい視線が刺さって痛かった。

Kaede Higuchi 1st Live “KANA-DERO”

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会場~梅田~会場へとタイムアタック

 暖冬とはいえ真冬で6時間待機分の防寒具を身にまとった俺はK2もかくやというほどのゴアテックスとポーラテックフリースと軽量ダウンを装備したままでライブに臨むわけにもいかないので、装備と物販の荷物をどこかに預けなければならないが、会場のロッカーに100L超の容量を保ったロールパック型バックパックが入るわけも無く、どうしようもなく巨大なロッカーが必要ということで梅田にわざわざ戻らなければならないわけだが大阪は適度に交通がH.A.P.P.Yなので20分もあれば余裕で戻れるとはいっても、14時半に物販購入が完了し戻ってアレコレソレで16時開場には間に合わないけど、行くしかないんだよ。

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 タバコ吸うオタク、そんなにはちゃめちゃにうるさいやつって少なくね?とこの前友人に漏らしたことを後悔しているんだけれども、まあ実感としてそういうのがあるとして、とにかく時間がないっつってるのにタバコを吸ってるんじゃないよ、ここは大阪市内で一番サイコーな喫煙所で俺の中で勝手に天空闘技場と読んでいるLUCUA 1100の11階の外にある喫煙所でライブ前に一服している、赦して欲しい。

 6時間待機してライブに臨むとき、便所がスゲー邪魔になるんでケツの穴をダクトテープで塞ぐか飲み食いを最小限にするしかないわけだけども、俺は基本的にすぐお腹がピーピーになりよるんで、飲み食いを最小限にしているし、世界で一番愛している飲み物コーシーが飲めないのがほんとにつらく、タバコを吸う事で珈琲によっていつもごまかしている倦怠感・眠気・ダサさ・希死念慮・性欲をタバコを吸う事でタバコを吸うのだ。

開場に間に合い会場にTwitter

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 写真は会場の写真を撮ろうとしたら目の前を撮影禁止の札がよこぎっったのであわててiPhoneを仕舞おうとした時の写真。

 ZEPPOSAKABAYSIDEに戻ると、丁度俺の整理番号が呼び出され、なんとなくスーッと待ち時間ZEROだったんでよかったね~だったんだが(オタク)とにかくこの会場のなかはメチャかっこよいのだ、こんなかっこよいところでオタクライブやるってのがホントマジ樋口楓性性性性って感じで樋口楓感~つってどうにか倦怠感や眠気をカマすため再度喫煙所にINDAHAOUSEした。連れてきたやつは整理番号が連番じゃないのでこのあと一生彼と会うことはなかったという。

 ライブを最前詰め詰めしたり落ち着いて座ってみたりなんだりできたためしがないのでもう最初っから最前狙っていこうもう知らん体裁とかダサいとかもうええわもうつって最前に近い扉から入ってスッスッスッする。

でろライブのオタク

 「意外と女の子多くてよかった~」ってツイ見たけど、ふつうに男ばっかだったけどまあアイマスよりはちょい多かったかな?ほんの若干だけれども、なんとか前に詰めていけそうな位置に身体をインサートしたらうしろのオタクがこういうはてッブとかツイッとかに書けないようなことばかり言っている、俺は知っている、それはとある場所でしか使われない負の符号、それをこのような公然の場で堂々とデカい声で友人と口にするなぞゆるさんぞ、殴るか、そしてお前ら完全にオフ会やなカスどもアカウント名で呼び合ってるのバレバレやぞ殺すぞ、絶対赦さん、アカウント名覚えといて晒せばよかった、絶対赦せない悪の権化のようなことばかり後ろでデカい声で話し続けている3人組、カスども、人の風上にもおけずインターネットの藻屑となってふつうに就職してデキ婚してインターネットを去っていくクソ雑魚ども、貴様らは

 

円陣の声が聞こえる

 憎悪は全て、その瞬間に吹き飛び、その瞬間から既に、「WISH」前のさざなみの音が聞こえていたような気さえする。

  それはきっと、樋口楓、その彼女の声だった。

 ライブ前に円陣を組んで団結する、その映像が脳裏にフラッシュバックする。それは、ライブDVDなどでしか見ることのできない、そのときの会場にいる客たちは知る由も無い、演者たちだけの秘密の団結の言葉。

 俺たちは、今までインターネットを経て、機械を経て、彼女たちのその声を聞いてきたし、それで十分過ぎるほどに充たされてきたはずだった。そのとき最前列付近に聞こえてきた声は、そういうたぐいのものではない。

 彼女のその腹から出でて、喉を通って、口から発せられたその空気の振動が共鳴し、俺の鼓膜を震わせる。

 頭の中に驚きが光り、いつかみた円陣の映像がフラッシュバックし、ようやくなにが起きたのか理解できた時、会場は歓声で充たされた。

 ライブのスタートなのだ。

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 彼女が「歌うもの」としての最初の一歩のその曲が会場にかかる。

 勇気ちひろさんが前説を担当した時、夜が更けるにつれて増えてゆく星のように青や水色のサイリウムの光が増えていった。

 その色彩がひっくり返ったかのような会場のオレンジ色は、樋口楓彼女の登場によって沸きあがったボルテージと同調しているかのようだ。

Brand-New LIVE~焼森のファンファーレ

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 事前にコールや色替えの周知があった2曲が先陣を切ったということが、OP曲で発生した勢いをさらに激しいものとした。当然だけれども声を出したりなんだりするライブというのは後半みんな疲れてきてる感と言うのは否めないし、実際最初に全力で声を出していた人たちは少なからず後半には声が嗄れているので、前半と後半では歓声の圧がちがう、というのはある。

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 だから、「焼森」までがサイリウムの振り、声の勢いともにライブ中のなかでも一番すごかった。とはいえ俺は焼森くらいまでには最後までいた位置にいて、そこは前から3列めだった。オタクライブなので毛皮のマリーズ最前に比べるとまだマシとはいえ、それでも後ろがどうなってんのかとか、逆サイドがどうなってんのかとかはもみくちゃで分からん。コミケ三日目オリジナルエロの島中にせみもぐらさんがいるときのようなかんじだ。

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現地でコールとサイリウムを行うということ

 とにかく最前左側付近の勢いがMAXの状態で、指示されたコールやサイリウム振りが2曲連続でカマされカマしをしたという快感は確実にこの世に存在している。こういうことを書いていると、どうしても「コール」や「サイリウムの光」が苦手な人の気持ちのことを考えてしまう。直前に公式から禁止事項を伝えられたのもまあ、なんとなく頭に残っていたのだろう。

 声を出せない人間が、サイリウムを振っていない人間がライブを楽しめないなんてあってはいけないし、声を出す人間が、サイリウムを振っている人間が、そうでない人間のライブを邪魔するなんてことがあってはならない。そんなことを考えながらでろライブに参戦しても、どうしても声を出したら楽しいという感覚、サイリウムを指示通りに振る感覚というものが楽しいのはどうしてもゆるがせないものだと思ってしまった。

 それに加えて、今回はニコ生でライブの生配信があった。

live.nicovideo.jp コールとサイリウムの是非について考えていると、「現地に来れない人」のことも考えてしまう。それぞれの理由があって、ライブに来ることができなくても、直近の情況というのは、ライブがそれぞれの環境でも生配信というかたちで持っている端末で参加することができるようになった。

 現地でしか楽しめない感覚、それを端的に言いやすいのが今回で言う「サイリウム」と「コール」になる。でも、「現地でしか楽しめない」ものというのは無い方が良いに越したことがないと思ってしまう。

 思いつきで書いていってるから話があちらこちらに行くってのもカスだし、にじさんじのライブイベントをレポってんのにアイマスのライブの話ばっか出してうんこなんだが、「現地」と「それ以外の参加」の差というのは、「アイマスライブを現地で見る」良さと、「アイマスライブを映画館のライブビューイングで見る」それぞれの差を当て嵌めていくことで解決していけそうな気もする。

 「現地」と「ライブビューイング」を比較したとき、どちらも経験しないと分かりづらい感覚とは思われるが、「現地はライブを見るのには向いていなく、ライブを見ることに集中できるのはライブビューイング」という一見矛盾した事実が浮び上がる。ライブはたしかに、客の密集度でまったくリラックスできなかったり、サイリウムやコールに意識がいってしまうという事実がある。それに対してライブビューイングは座席間隔的にもコールやサイリウムの存在感や圧迫感も現地よりはかなり余裕がある。それに、当然ながらライブビューイングは演者とそれにまつわる演出が安定して中心に映されるので、超爆神見やすい。当たり前のことだけどこれがけっこう実感としてデカくて、現地行った次の日にライブビューイングとか見ると、演者と演出が見やすくてびっくりして感動したりする。

 このライブビューイングの見やすさというのは、現代のインターネットにおいて自宅でライブが生配信を視聴している時の良さにも適用できるんじゃないかと思う。ライブ自体を咀嚼して消化することに集中したい場合、はっきり言って現地に行くのは悪手かもしれない。記者が座っている関係者席は大体ライブの最後尾に設置されていることにもそんな意味付けがあるのかもしれない。

 では、現地に行く意味とは?

 今回、ぐちゃぐちゃと「現地のくそうるせえオタククソうぜえ問題」を考えながら行ったにも係わらず、それら全てが吹き飛ばされるように「現地でしか得られない歓び」を享受してしまった。

「生の声を聞いてしまった」

 正直まあ、「生の声を聞いた」なんていって感動するのはVの作法的に下品にあたるのかもしれない。でも、俺はあの声を「聞かせてもらった」「届けてもらった」という感覚が拭えない。なんらかの拍子に聞こえてしまったというようなたぐいのものかもしれないのだが、俺はあの声も含めて「ライブ」だったと思っている。下品なのかもしれない、という認識がたしかでも、「聞けてよかった」という感覚しか残っていない。あの喜びは、たしかに現地にしか存在しない喜びなんだろうと思う。

 我々がバカみたいにコールしてアホみたいにサイリウムを振っていると、どうしようもなく楽しいのはなんなんだろう。俺はそのどちらの行為も、演者が望んでいるなら全力で返すべきだ、そうでない範囲のことはしてはならないと前の記事で書いた。 

loveisalreadyyokujitsu.hatenablog.com

 単純な話なのかもしれない。カラオケに行く、ボーリングをする、そんな声を出したり身体を動かしたりして、どれだけカラオケでウェーイするのもヴォーリングでウェーイするのをバカにしていても楽しいもんは楽しい、そんな楽しさがあるってだけの話かもしれない。カラオケは大声を出すのを許される場所だし、ボーリングはプレイの結果に一喜一憂するのが許されている場所だから楽しいし、その範囲を超えて騒ぐのはクソということなのかもしれない。まあ我々オタクはなんとなく日々抑圧されているような気がして生きているので、そういうのが許されて実際行動に移すと解放されるという部分があるんだろうたぶん。

 ライブの話に戻ろうね。

ゲストのエルフのえる、けろっぐふろっぐ、いけないボーダーライン

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 正直、えるちゃん氏、めっちゃ緊張してて、パフォーマンスにもそれが出てて、若干しょんぼりして帰っていった感はある。でも、たしかにえるちゃんの気持ちを考えるととてもアレではあるんだけれども、俺はそれも含めてよかった気がするし、けろっぐふろっぐがうまくいかなくて、いけないボーダーラインで盛り返したこと、そこにえると樋口楓の関係性が出ていたような気がして、とてもよかったと思う。だから「良かったんだよ!」という想いの発露で正直「えるちゃーん!」とめっさ叫んでしまったんだよな。

 ZEPPOSAKABAYSIDEってのは、めちゃくちゃでかい箱で、いくらリハを入念にやっってたとしても、そのライブ本番に飛び込んでいって、いきなりもてうる限りの最高のパフォーマンスを発揮できなかったとしてもしょうがないし、むしろ完璧にやりきった樋口楓のダイヤモンドのメンタリティとか40個ぐらいある肺と喉が異様で、夢物語を目の当たりにしたかのようだった。そこで、えるちゃん氏がけろっぐふろっぐがうまくいかなくて、いけないボーダーラインで取り戻していくと言うのはある意味とてもリアリティがあってその展開に感動してしまっている感がある。

 リアリティ、それはVのプラットフォームとして市民権を得た配信サイトの名でもある。

REALITY|VTuberと未体験の交流ができるライブ配信アプリle.wrightflyer.net

 Vを見る時、大部分で俺は「リアリティー」を期待して見てるようなところがある。なんのリアリティーか、それは「キャラクターでありながら『人間』を感じさせるリアリティー」だ。えるちゃん氏のパフォーマンスでそれを十二分に得た俺は、「でろライブのゲストは、『樋口楓とそのゲスト』の関係性が次々に提示されいく演出」なのだとしか思えなくなっていく。

ゲストの静凛、God knows…、Dress Me Up

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 お次のゲストは静凛。「いつも見てるような静凛と樋口楓の関係性が生ライブで見られてありがてえ〜」って話をするためにさっきああいう締め方したけど、俺の信教の関係で、済まぬがGod knows…の話をするぞ。ドレスミアもさらっとこなしてさすがの安定感を出した静凛の緊張しても落ち着かせて自分を出すやつもかっこよかったぞ。

 日記なので俺の話をするぞ脈絡もなく。日記なので。俺はいつか、いつの日か、「オタクライブの生演奏でGod knows…が聴きてえなあ」つって生きてきたんだこのオタクになってからの十数年間。それが急に叶えられたんだ。好きな女の地元のライブで、突然にその時が訪れたんだ。奇跡だと思ったし、俺の人生のマジな値で言うと、7パーセントくらいの伏線が回収されていく感覚があった。全人生の7パーセントの欲求がわずか4分ちょっとの間に急速に満たされていく感覚がわかるか。そうとしか言えない感覚が4分ちょっとのあいだに俺を襲い続けた。

 それは、もしかしたらさっきの「いけないボーダーライン」で同じ感覚を味わったオタクもいたんだろう。なにが言いたいかと言うと、カバー曲をライブでやる意味ってのはそういうことだってことだ。

God knows... ''The Melancholy of Haruhi Suzumiya'' 【涼宮ハルヒの憂鬱】【ベース 演奏】 - YouTubeyoutu.be

 やっぱここで客席のキョンとステージのハルヒの視線が交差しないのやっぱ最高だな。

休憩時間にコメント欄大喜利が現出する

 みなさん、配信のコメント欄って、どう思ってますか。俺はVにハマり始めて最初のほうは、全然コメント欄を直視することができなかった。やっぱり、自分が同じ穴の狢だとわかっていても、気持ち悪いと感じるものは直視できない意識がどうしてもある。それもいずれは慣れて、俺ももうたまにコメント欄の発言にクスリとするようになっていく。

 ただ、10分間のこの休憩時間にオタクたちが今まで発してきたコメントがリアルの声として現出するとなると、本当にキツかった人も多かったと思うし、そう感じるのは当たり前だと思う。でも、ライバーたち側からするとみんな、コメント欄がないと本当につらいと思うし、コメントに生かされてみんなここまで来たというのは事実だろう。そういうふうなポジティブな捉え方をすれば、ライブの休憩時間にコメント欄さながらのしょうもないクソレベルの低い大喜利が発生して、今までの彼らの発言「いっぞ!」「ピース!」「やってんねェ!」「パチ屋の扉が開かれた」「樋口楓の顔がいい」というようなことを大声で叫ぶ流れができたのも、一概に最悪なことだとも言いづらい気がしてくる。

 休憩時間が始まった当初、この「KANA-DERO」のメインビジュアルがスクリーンに映し出されたところからその流れは始まっていった。

焦茶 / CGCh on Twitter: "改めて今週末の「KANA-DERO」よろしくお願いします。自分はビジュアルとロゴやってます。… "

 

 ただただ無音でこの絵がスクリーンに映し出されているのが、1分か、2分経ったあたりで誰かが「顔がいい!」と叫んで、それが、ウケた。よくよく考えたらこのライブって大阪のライブだし、まあウケを取りたい人間が多いのもさもありなんという感じがする。東京でライブ見たり同じ人らのライブを大阪で見たりしてると、大阪の客の方がうるさかったり、よく言えば盛り上がりが良かったりするのは事実だし。そこから、誰かが伏見ガクの決め台詞である「ピース!」を言い出したり、コウの「いっぞ!」を言い出したりして、コメ欄が徐々に会場に現出していった。

 決して一概におもしろくてよかった、とは言いづらい現象だったけれども、「いつものオタクたちのコメント欄がライブ会場というリアルな場所に立ち現れた」と考えれば、まあなんかカッコよかったような気もしてくる。

https://twitter.けけcom/udukikohh/status/1084027287299715073

 俺の中では結局のところ「まあ卯月コウが喜んでのでよしとしようや」というところで落ち着いている。オタクに嫌気が差した時、卯月コウのことを考えるとある程度癒される効果が知られている。

https://twitter.com/udukikohh/status/1084027287299715073

月ノ美兎登壇、dream triangle

 我らが委員長の登壇。正直この時から委員長は様子がおかしかったように今から思えば、感じる。いや、その時は「さすがの委員長も緊張してるんだな」ていどに考えていた。

 JK組のバランス感はすごい、樋口楓はなんどかそう言っていたし、俺も同じように感じる。だから、3人が揃ったときの安心感を、そのときも感じたのを覚えている。それはたぶん、ライブを楽しみに来ているんだからそれに没頭すればいいのに、「推しのライブ」とかいうオタク特有のエゴい考えで、多少「無事に完遂するだろうか」とハラハラしながら見ていたという甘っちょろい考えが当時の俺にはまだあったんだろう。そんな考えは、その後、すべて吹き飛ぶ。

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 dream triangleには3人の歩んできた「それまでの集大成」と「これからの希望」が詰まっている。えるちゃん氏が歌ったあとに感じた「今まで見てきた関係性がライブとして提示されていく」というものの極め付けとしてこの曲があったように感じる。

 そして、正直に言うと、俺はJK組の様子を見て安心したのと同時に、「ゲストの最後の組み合わせに『楓と美兎』が来るのか…」という緊張感に脳を支配されていた。たぶん、いちからやにじさんじのスタッフがライブ演出をしたならば、「ゲストの最後の組み合わせはJK組」ということにして大団円させたかもしれない。それの方が安定感があるだろう。でも我々はすでに知っていた。このライブの演出に樋口楓、彼女が深く関わっていること。そして、最後の組み合わせとして「楓と美兎」を持ってきたのは彼女なのかもしれないということ。いつも安定感のある委員長の様子、樋口楓による「樋口楓」。来るべき時がやってくる。

楓と美兎、そして……

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  静凛がsoキュートに去っていき、残されたのは平成最後の百合が二輪。「アオハル」をこのライブまで取っておいたこと、その感慨深さなどを2人で話しているのを、俺たちは見ていた。これからなにが起こるのか、それとも、起こらないのか。いや、なにも起こらないわけなんてないと、最初から、ずっと前からわかっていた。2人で仲睦まじげに話している様子も、アオハルを楽しそうに歌い上げているときも、委員長がなんとなく本調子でないことがなんとなく気にかかっていた。それは、次の曲の演出によるところが大きかったのだろう。

 ついにそのときはやってくる。

命に嫌われている

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 今回、樋口楓は自らで自らを演出した。今までの『楓と美兎』配信の断片がカッティングされて次々と流れていき、曲が始まる。俺はこの時まで、この曲のことを知らなかった。この曲を、初めて知ったのがこのライブで本当に良かった。この曲は、このライブの参加者の胸に深く、深く刻まれる。

 知らない曲だったけれども、すぐにこの曲が「ボーカロイド楽曲」だと察した。語数を詰め込んだような歌詞とメロディ、高音域のサビはその特徴が明らかだった。2人の歌唱はラスサビに近づくにつれて、叫びじみたものになっていく。2人の死生観に関しての実際の配信での発言を利用した演出は、2人の叫ぶような歌唱と共鳴していように感じた。

 月ノ美兎が、見たことのないような緊張をしていたのは、彼女が初めて、このような「演出」に巻き込まれることになったからではないか。

 月ノ美兎本人は、ほかのライバーが時折やっているような「シリアスな物語設定」を付与して自己を演出するようなことはなく、道化として、アイドルとして、トークを生業にする者としての自分を徹底していた。樋口楓は、あくまで今までずっと自然体だった。もしくは、自らをそう規定していた。自然体だからこそ、視聴者であるこちらが「それはシリアスなことだ」と捉えるか、「それは取るに足らない日常だ」と捉えるかは受け取る側にに任されているような印象がある。そんな2人が初めて、「2人の関係性を自らの手でシリアスに演出する」という違和感、それにともなう緊張感が、今から思うと登壇したその時から委員長にはあったように感じる。

 ただ、もしかしたらたった1つのアイデアが、樋口楓に降ったにすぎないというのも思った。いままでにじさんじライバーの一部がやってきたシリアス展開を、樋口楓は心の底から楽しんで見ていたとする。その身ははじめてのソロライブを自ら演出したいという意志に満ちている。そんなとき、だれかVが「命に嫌われている」を歌唱しているのを見たのに触発されて、「楓と美兎が、死生観について話している」ということに興味津津に考察している我々のような者たちが脳裏に浮かんだとする。それらの要素が繋がって、「やりたい!」というアイデアを思いついたにすぎないのかもしれない。

 だから、彼女がこのライブで「みんな考察するの好きやもんね」と言っていたように、俺たちが考察するのは意味がないことなのかもしれない。でも、今回樋口楓が俺たちに与えてくれたのは、俺たちが「考察」をすることに対しての赦しに近いものだったようにも思う。「こういうの好きやろ?」と無邪気に笑って「命に嫌われている」を、普段から「考察」している俺たちにぶつけてきたとき、俺たちはただただ享受し、喜ぶしかない。

 だから、とても、嬉しかった。それと同時に、俺がつまらないエゴを彼女に対して持っていたことを思い知らされた。俺は、「樋口楓の成長を見守っている」と勝手に思い込んでいた。後方彼氏ヅラみたいなもんだ。でも、今回完全に樋口楓は俺より圧倒的上位にいる存在だということを示し、それをただただ受け入れた。彼女に対し「すごい、すごい」とは思っていても、頭のどこかで「どこにでもいるような自然体な女子高生」であるとも軽んじていた。でも、今回のライブで具体的にそうではないと思い知らされた。意識的にも、無意識的にも、「樋口楓はとてつもなくすごい力を持っている」と脳に浸透し切ったタイミングが、俺にとってこのライブだった。今までの自分が本当に恥ずかしいとさえ思う。反省文が書ける、マジで。むしろこの記事がそうなのだ。

 でも、さびしいという気持ちを持つことを許してほしい。今まで「応援してきたアイドルが俺たちの及ばない大きな舞台に飛び立っていった」という演出を他の媒体に於いても今まで何度となく受け取ってきた。それと同じ感覚がどうしても、ある。樋口楓、彼女の才能を信じて今まで応援してきて、彼女がその才能を発揮してどんどん思い及ばないような大きな存在になっていくとき、「寂しい」というエゴがどうしても心に残る。

 いくら俺が寂しくっても、それを凌駕するくらいの凄味を今回味わって、最後に残った感情はとてもさわやかなものだった。今まで信じていた彼女の才能は、確かなものだった。そして、今後も俺のおよびつかないほどにでかい存在になっていく。そのうれしさとさびしさがあわさった気持ちというのは、涼やかで心地よいさわやかさがある。今までVに関してモヤモヤと感じていた不満やなんかもすべて浄化されたと思う。たぶん。

樋口楓のソロは最後にやってくる

 「命に嫌われている」が終わると、月ノ美兎は去っていった。「ありがとっ!」と最後に言い放った月ノ美兎は緊張が解けて、いつもの彼女であるように見えたことが、印象深かった。まあ、あれだけ凄まじい演出と歌唱をしたんだから、肩の荷が下りたんだろうな、ってことも思った。

 そして、樋口楓は自らの顔を腕で隠した。これもまた彼女による自らの演出であり、「涙かもしれない、ちがうかもしれない」という仕草に見えた。「ありがとっ」と月ノ美兎が言ったときに、「泣いたか、そうでないか」という仕草をして、樋口楓のソロ歌唱が始まっていく。

楓色の日々、染まる季節

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 バラード曲は、結局この一曲だけだった。「涙かもしれない」仕草のあとにこの曲をやるという自然さや、今までの「楓と美兎」の総集編のような演出をしたあとに「今までの日々」のバラード曲をやるということはとても良かったんだけれども、正直俺としては「命に嫌われている」で呆然となってしまったままこの曲を見ていたので、細部までの記憶がなく、ただ「最高だ……」という感触だけが残っている。

イカラ浪漫

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 この曲あたりで意識が戻りはじめる。ハイカラ浪漫は月ノ美兎の言う通り、「楓ちゃんにぴったりの曲」だし、楽曲のクォリティみたいなものって無知なんでよくわからないけど、この曲はとても仕上がっている感じがしていて好きだ。

 なにより「この曲はきっとライブで聴けたらきっとたの椎名〜!」と思っていたので楽しみだったのだ。まあ「命に嫌われている」で完全にカマされてめっちゃ覚醒しているのに寝起きにいきなりサイリウム振るみたいな感じになってはいた。

 それでも、この曲はめちゃくちゃ楽しい曲だ。「命に嫌われている」で頭ン中が「???」になってるオタクがワケもわからんまま和ロックな曲で踊り狂うみたいな雰囲気はちょっとした祝祭感があってとても印象深いものがあった。

響鳴

 上の小見出し打つときに「鳴り響く」って打ってからひらがなを消そうと「鳴響」と打ったものの、「鳴り響く」の感じ部分を反対にして「響鳴」じゃん!かっこいい~!って思いながら小見出しを打ち直した。

 命に嫌われてから楓色の日々に呆然としてライブの歓びを享受して、ハイカラ浪漫で無心で盛り上がったあとの曲なので、ひたすら最高にかっこよくて楽しかった。

 ライブ一番泣いた曲も、ライブで一番盛り上がった曲も、もちろん心に残っていく曲にはなるのだけれども、ライブ後にずっと繰り返し聞き続ける曲ってのは、ライブで惚れた曲だと思う。そういう求めていたかっこよさが響鳴にはあった。

 ふと思ったけど、音楽系のにじさんじライバーがでろライブを目の当たりして、完全完璧不動なる指標と完全完璧になったの、最高だな。そのライブに参加できてよかった。

Maple Dancer

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 俺は、樋口楓という存在に触れ始めて、好きになってからもしばらくは歌を聴く事ができなかった。彼女に絶対にハマりこんでしまうことを、十何年かのオタク生活によって培われた本能が察知していて、ハマり込むことがこわかったのだ。尊すぎて入る†┏┛墓┗┓†

 でも、当然ながらいつまでも聴かないままでいるわけにもいかない。そこで初めて聴いた曲がこの「Maple Dancer」で、そこからこのライブに至るまでのにじさんじに浸かりきった生活は本当に楽しかった。

 「Maple Dancer」のようなシンプルなロックナンバーが彼女の代表曲となっているというのもまた、彼女を形容しているかのようでとても嬉しくなる。嬉しくなる、っていうのもまた後方彼氏ヅラなのか?よくわかんねえな。

 ライブ会場にいる全員が、「最後はMaple Dancerなんだ!」という期待に充ち切って、その喜び、嬉しさがギラギラと煌いたかのような演奏・歌唱だった。当然ライブも終わり間際になってて樋口楓の声は嗄れが入っているんだけれども、彼女は俺の予想では肺と喉が80個あると思われるので、それさえも「良い声」に聞こえるというのもまた嬉しかった。

アンコール WISH!、奏でろ音楽!!

 アンコール曲演奏前にずっと流れていた、さざなみの音、あれが何をあらわしていたのか、俺が勉強不足なせいでよくわかっていない。でも、ライブの最後に残す印象としてぴったりで、WISHとさざなみの音はもはや俺にとって切っては切り離せないものになったような気がする。「さざなみの音が聞こえる」というのと、「WISH!」という曲の相性はとても良いと思う。

 

www.excite.co.jp 当時の俺は知能指数が0.00000013だったので、この記事で「WISH!」が歌いづらかった、と吐露していたことに対して「あ~わかるな~」と思ってしまっていたのだけれども、まあその愚かさはいっそ置いておくとして、俺がそのときに「わかるな~」なんて思ってしまったことがなぜか自分のことながらとても不思議で、この記事は妙な印象が残っている。

 それは俺が「WISH!」を初めて聴いたとき、「一筋縄ではいかない曲だな」と思ったことに起因するのだろう。爽やかで明るく、安心感さえ感じるようなメロディーは「奏でろ音楽!!」を思わせる。でも、歌詞とMVはとても示唆に充ち満ちたもので、それは俺たちがでろに対して「そこらへんにいる普通の活発な女子高生に見えて、実は…」といった感触を表現しているかのように感じた。

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 一見「奏でろ音楽」が順当に進化したものが「WISH!」であると見せて、実はそうではなく、むしろ対にさえなっているのではないかと思う。

 このライブに冠されたタイトルは「KANA-DERO」で、それはもちろん「奏でろ音楽!!」にまつわるタイトルだし、むしろ安直なようにも思えるが、内容は決してそうではなかった。

 「命に嫌われている」を筆頭として、このライブというのは「樋口楓による、『樋口楓』という作品」を我々に提示したという意味合いがとても強かったように思う。今まで当然だと自分たちのなかで思っていた、「樋口楓は『樋口楓』として日々を送っている」ということを、樋口楓も認識しているということが露になった。

 バーチャルYouTuberならではの入れ子状の「自覚」、それがをライブ演出として使ったのは他の誰でもない樋口楓だった。

 つまり、「パーソナリティとしての樋口楓」と、「キャラクターとしての樋口楓」が存在し、「パーソナリティとしての樋口楓」が解釈する「キャラクターとしての樋口楓」を見せてくれたのがこのライブだったとおもうのだ。

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 その最後の二曲こそ、「奏でろ」と「WISH!」だったのは、このライブの構造を体現していたようにも思える。

 「奏でろ!」はバーチャルYouTuberとして走り始めた原初の樋口楓で、「WISH!」はこの一年での経験を踏まえた現在の樋口楓あると、そう解釈はできないか。

 原初の樋口楓とは、なにもないまっさらなパーソナリティに「樋口楓」という名前を付けられた存在。現在の樋口楓とは、バーチャルYouTuberであるキャラクターがこれまでのストーリーによって変化がもたらされた樋口楓。

 パーソナリティとしての樋口楓、つまりそれは『樋口楓個人』ということ。今こうしている時も「『現実』というストーリーの中に生きている樋口楓」、つまりそれは『樋口楓というキャラクター』。

 『樋口楓個人』の曲が「奏でろ音楽!!!」で、『樋口楓というキャラクター』を表している曲が「WISH!」であるように俺は思っているし、『樋口楓個人』が『樋口楓というキャラクター』を解釈して成ったのが今回のライブでの「命が嫌われている」だったのではないだろうか。

 「KANA-DERO」、このライブがそう題されたのはそういう構造があったからこそだったようにも思えてくる。

ライブ会場を去り、トリキのマスコットが俺を出迎える

 

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 搾りカスのようになっていた連れを引きずって、梅田の鳥貴族へ。

 俺は当日レポエムをアイパアッドで抽出しながら、話す話題はもっぱら最後に樋口楓が俺たちに手渡してきた手紙についてだった。

 

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  最後にスクリーンに映し出された、樋口楓、その彼女直筆のメッセージ。「みと夏」で彼女の手紙の一通目を見たとするならば、彼女の手紙を見たのはこれで二通目となる。

 そこには、「樋口楓という存在の終わり」について触れられていて、連れてきた友人はそれが心に残ったらしい。

 俺は性質上、バーチャルYouTuberの終わりについてよく考えることがあるので、今回樋口楓がああいうふうに自身の終焉について触れたことに対して、ドキッとはしても自分で想定していたほどの驚きと言うのは無かった様に思う。

 でも、友人はけっしてそうではないだろう。押し付けるようにして見てもらったとはいえ、1人のキャラクターが、1人の人間が自身の「終わり」について言及するというのは、あるていどまじめにオタクをやっていたならばそれはショッキングなことにはちがいないのだ。

 ただ、俺はライブを経てトリキでメガハイボを飲んでいる俺の心境は、あまりにもさわやかで心地よい心象風景に充たされていた。

 そのせいで、あまりにも自然に「いつか終わる時がくる」言った樋口楓の言葉をすんなり受け入れることができてしまった。

 「そうだよな」「その通りだよな」と心の底から受け入れることができたのは、樋口楓が飛び立っていったというさびしさが、高揚とともに合わさって清涼感に変換されたことによるところが大きかった気がする。

 この清涼感というのが本当に無敵で、俺はそれまで「高揚感」「ワクワク・ドキドキ」がオタク体験の中で最強かと思っていたけれど、この清涼感はどの体験にも勝る強度を誇っていて、どちらかというと瞑想や禅に近い。知らんけど。

 前の記事でも書いたが、さよならというのはきっと、悲しいばかりのことではない。

 そして、俺はそのことを樋口楓は伝えたかったのだと信じている。

 Vに浸かることは、ライバーもリスナーも楽しいことばかりではない。

 やめていく人、戻ってくるということ、新しく入ってくるということ、留まっているということ、それぞれに嬉しいことと、つらいことがある。

 でも、一見ネガティヴに聞こえる「別れ」や「終わり」つらいことばかりではないはずなのだ。

 そのことを、このライブで俺は受け取ったし、樋口楓はそのことを伝えてくれたんだと思っているし、そう信じている。

帰宅

 家に帰って、お気持ちポエムを排出したあと、なんとなくライブ後の喫煙所で出会った長野から来たという2人組みのことを思い返していた。

 連れてきた友人に「あの楓と美兎の曲なんて曲やったんやろ」と俺が漏らしていると、「『命に嫌われている』って曲ですよ」と教えてくれた若い男子2人組みのことだ。

 彼らは『命に嫌われている』がそれほど古くも無く新しくも無い曲であることや、他のVが歌っていたのが評判だったこと(ユニちゃんのことだと思う)などを教えてくれたあと、彼らは自分たちが長野から遠征で来ていて、朝から物販に並びに来ていたことを話してくれた。

 そして彼らが別れ際に話していたことが印象的だった。

 ライブ自体がが本当に良くて心に残ったからこそ、深夜バスに乗ったり朝から長い列に並んだりしたのも含めて最高の思い出になった。

 彼らはそう言っていて、俺は今回遠征ではなかったけれど、とてもよく分かる気がした。

 飛行機に乗る、電車に乗る、友達と待ち合わせをする、メシを食う、宿に泊まる。そのすべての行程が「ライブだ」と思えるのが「良いライブだった」と記憶に残すために必要なのだ。

 それは無意識下でなんとなく思っていたことだったけど、今回喫煙所で見知らぬ2人組みと話し、言語化されたときに、かつて自分が体験した「旅を含めてのライブ」という感覚を、第三者が感じているのが無性になぜだか嬉しかった。

 彼らにとって、ライブに旅がそのものが含まれたのが、このライブが大成功だったという証明になった、そんな気がしたのだ。