『ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち』を読んだ

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この記事を読んでいるあなたはどんな人だろう。

この本に興味があって記事を開いたのかもしれないし、

インターネットの炎上について調べていてこの記事に辿り着いたかもしれない。

または僕のことを知っていて、僕がこの本についての記事を上げたからリンクを開いたのかもしれない。そもそも僕の友達だったり、僕の書いた文章に興味あって記事を見つけたのかもしれない。

そんなあなただって、人を罰してやりたいという気持ちになったことはきっとあるだろう。

毎日、凄惨な事件が起こる。

記憶に新しいところでは、京アニ放火事件があり、東池袋自動車事故があり、

精神科で起きた放火事件も、カラオケパブ刺殺事件もある。

それらの報道を目にすれば、青葉被告や飯塚受刑者に対して、

「被害者と同じ目に遭えばいい」「遺族のためにも厳罰に処されればいい」

一瞬そんな思いがよぎった人もいれば、強く感情を掻き立てられた人もいる。

多くの人が、「罰せられてほしい」と、彼らにそういう感情を抱いた。

なにも人命がかかった事件だけじゃない。

児童に対して性的な被害を行った者たちも毎日のように報道される。

そんな事件の加害者に対しても、不快感とともに「どうにか重く罰せられてほしい」と感じただろう。

それは当たり前のことで、多くの人間が同じだ。

でもきっと、あなたのようにこのタイトルの本に関心が少しでもある時点で、

きっとあなたは事件の加害者に対しての怒りや処罰感情をSNSやブログで露わにしたりはしていない人が多いだろう。

それは、そこに対して自分を脅かすリスクがあると知っているからだ。

知っているから、この本のタイトルが気にかかって、このブログの記事をあなたは読んでいる。

いくら正しい処罰感情だとしても、感情のまま露わに表明すれば、

もはや現代のインターネットではいつ炎上の標的にされてもおかしくない。

はっきり言って、この本はそんなリスクを承知しているあなたには必要がないだろう。

僕がこの本を読んで、「読んで欲しい」と強く思ったのは、

インターネット上でさも当然のように人を批判している人たちだ。

あなたのように、「人を大ぴらに批判するなんて、そんな恐ろしいことがよくできるな。」

程度の差はあれど、少しでもそんな思いがあれば、この本はその恐怖を感じさせてくれ、恐怖が一体どこから来るものなのか、実体を明らかにしてくれる。

すでに知っている恐怖をより深く知ることになる。

人によってはより恐怖を深めることになるだろうし、恐怖の仕組みを知り、薄まることにもなるかも知れない。

しかし、「声を大にして人を批判している人」と、私たち、それに恐怖を感じている人。

どちらにも共通しているのが、「こんな人は酷い目に遭えばいい」という気持ちだ。

人は誰しもに嫌悪があり、嫌悪対象が弱まれば自分が助かる、と考えるのは当然のことだ。

 

だから、おそらくは人間は皆、「罰してやりたい」と思っている。

それは、実際に「人を罰すること」を仕事にしている人も同じなのだ。

警察官、弁護士、検察官、裁判官、看守……入国管理局や税務署員だって違反した人間を取り締まる。彼らの多くは「こんなことをする奴は酷い目に遭えばいい」と思って仕事をしている。むしろ、それが正義感でその仕事を志しているくらいだろう。

もちろん、彼らは法律に則った罰しか与えてはならない、という教育を長年にわたって受け、

試験に合格したり、ふるいにかけられて残った者だけがその仕事に就いている。それは間違いない。

でも、そこに「人間は皆、罰してやりたいという気持ちを持っている」という価値観は考慮されているだろうか? 果たして、難解な試験や検査にかけられたからといって、私的な処罰感情を完全に除外できるだろうか?

できないと思う。

僕たちが「こんなやつ、酷い目に遭えばいい」と思って実際に取り締まられた人たちは、

おそらく全員、実際に僕たちの思う酷い目に遭わされている。

それは、「酷い目に遭わせる人間」も、僕たちと同じ気持ちだからだ。

青葉被告が実際に火炙りの刑に処されることはないだろう。

しかし、極刑になるにせよならないにせよ、これからの人生、会う人間全員にこれ以上ない嫌悪の感情を向けられ、死ぬまでその嫌悪通りの扱いしかされない。

そうなれば尊厳は完全に破壊されるだろう。それは、火炙りの刑とどちらが人間にとって辛いことだろうか?

勘違いしないで欲しいが、僕はこの記事で「極刑に反対している」とか「加害者にも人権がある」と言いたいわけではない。

遺族の感情、遺族のこれからの人生を思えば、重大な罪を犯した加害者の人権を守るべきだなんて僕には言えない。

しかし、事実として加害者たちは僕たちの思う通りの「酷い目」に遭っているという事実。

この本を読んで自分はそのことが実感できたように思う。知っていたようで、知らなかったのだ。

 

最近、毒マフィンだとか言ってイベントで腐ったマフィンを売って炎上した人がいる。

あの人は、罰せられた。多くの人間によって。

それは「腐ったマフィンを多くの人に売って、多くに人に健康リスクを与えたから」だ。

多くの人間が批判し、怒りを向け、一挙手一投足に関心を払った。

誰かの電話に答えるたびに、インタビューに答えるたび注目され、

その発言や考え方は否定され、怒りを向けられた。

僕は毒マフィンを売った人を擁護している人なんて見たことない。

「そういうこと、起こったっておかしくないよね」と言ってる人さえ見たことない。

僕だって「バカじゃないのか。なんて甘い考えなんだ」と唖然とした。

あの人は、日本中の人間に否定され、怒りを向けられ、呆れられた。そしてその記録が残った。本名だって顔写真だって残った。

すでにある人間関係、これから会う人たち、全員に「自分はあの時炎上して、日本中の人間に否定され怒りを向けられた」ということ込みで接していかなきゃならない。

これは、重大な法律違反を犯して罰せられている人間たちとあまりにも罰の重さが近しすぎやしないだろうか。

何度も書くようだが、僕は加害者への罰を軽くしろとも、毒マフィン屋はこんなに叩かれるようなことしてないだろ、とも言いたいわけじゃない。一歩間違えば集団食中毒事件で、重大な罪に問われかねないということは分かっているつもりだ。

伝えたいのは、事実として人なら誰もが「人を罰してやりたい」という気持ちがあり、

実際に「人が罰せられている」ということ。

そしてそれはどこででも起こっているということだ。

重大な法律違反だろうと、出来心で人のイラストを自分のイラストだと偽ろうと、

一度多くの人に「罰の対象だ」と思われてしまえば、等しい罰を受けるということだ。

それが「ネットリンチ」であり、この本のなかで「羞恥刑」つまりは「恥によって尊厳が失われる罰」だと書かれていることだ。

 

この本の良い点は、実際に書かれているインターネット内外の事件が10年ほど前であることだ。この本が書かれたのが10年ほど前なのだろう。

現代はSNSの発達や、フェミニズムLGBTへの考え方が発達し複雑化している。

10年前は現代に比べると、その点では理解がしやすく単純に感じることができる。

既知の考え方や情勢が多く、理解しやすい。

反面、現代においてはこうはならないだろうな、ということも多く書かれている。

 

人が「こんなやつ、酷い目に遭えばいい」思うことはこれからも絶対に無くならない。

常に僕たちは多くの人の目に晒されて、穏当に平和に過ごすことを強いられている。

そして多くの人間が「穏当に平和に過ごしていない奴には罰を与えろ」と思って生きている。

あなたもそうかも知れないし、または窮屈に感じているかも知れない。

この本はそんな思いに対して、理解を深めるのにぴったりの本だ。

ぜひみんなに読んで欲しいと思う。

 

この本を僕に薦めていただいた方に感謝を。ありがとうございます。