『私の少年』レビュー|テーマ:キャラクターデザイン=ストーリーテリング

 誰しもの心には推している漫画というのがある。

 漫画が好きだといいつつ最近は全然「読めている」なんて全然言えもしない近況であるので、推している漫画が完結をして綺麗に刊行を終えるということは自分にとっては稀だし、希少だということは書き残しておきたいという意志につながる。色違いのポケモンを逃がすやつはいない。

作品概要

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 俺は作品の要約が苦手で、どこまで書けばいいのか見当も付かなくなることが多い。なのでできるだけ雑に書こうと思う。

 主人公・多和田聡子は物語開始時点で30歳の大手スポーツ会社のバリキャリ。多忙な日々の中、12歳美少年・早見真修が夜中に公園で1人サッカーボールを蹴っているところに出会い、お互いに惹かれあっていく。

 この2人の関係を丁寧に描いていく漫画がこの作品だ。

 最終巻において聡子は35~6歳、真修は17~8歳となるので、男女としての関係(注1:恋愛よりも大きい概念での関係とする)を物語上で成立させるには十分常識的なラインだけれど、30歳と12歳との男女関係(注1)となると一気に作品としてはセンセーショナルな色を帯びてくるのは、なんだか創作倫理的にも不思議なものだなあ。

 人生においても、30歳と12歳では速さも鮮やかさも大きなギャップがある。聡子が同じ会社で5~6年勤めてもせいぜい異動があるくらいで、見た目だって、こと女性であるならメイクやスタイリングで30歳と35歳の差異をなくすことは技術的に十分可能だ。もちろん、女性に直接こんなこといったら怒られて当然だけれど、それほどまでに女性のメイクやスタイリング技術のカバー力は計り知れないものがあるということだ。

 しかし、12歳から17歳となると、小学校、中学校と卒業し高校生になってしまう。青春ということばの青。古くから日本で青とは色鮮やかな新緑を指すことばでもあり、その葉の色はたった一年間で目まぐるしく変わってゆく。まあそういうことだ。分かるでしょ。

 その人生に於いて彩度の違い。そしてその色が変わっていくスピードの違い。そんなギャップが聡子視点と真修視点で交互に描かれる。大人の固く確かな世界と、子どものやわらかく移ろいやすい世界。同じ世界にいるはずなのにこんなに差があるんだ、ということが上手く表現されている。

 そういうお話。

登場人物について

 聡子と真修の2人以外のキャラクター。

 彼/彼女たちは2人の関係を描く重要な装置として大いに働く。

 まず、聡子の元カレである椎川文貴。聡子の大学の先輩だが、同じ会社に勤める上司でもある椎川主任。大手だとこういうことも起こるんだろうけど、本当に最悪だと思う。高学歴者の人生唯一の欠点では?彼は完全にこの物語におけるヒールとして大いに働いてくれる。時に主人公に襲い掛かる現実感極まりない不快感を催す根源として、ときに読者をスカッとさせてくれる情けない男として。「いやいや椎川主任にも色々あってさ」なんてことが描かれてはいるが、安心して欲しい、彼に読者が同情することはまずないと思う。俺はこういう情けなく性格の悪い男が好きなのでヒールとしての完成度が高くて嬉しかった。

 この作品は先述したとおり、聡子と真修の視点が交互に描かれる。つまり、それぞれの視点は対となっている事柄も多い。

 椎川主任と対になる存在、それが真修視点における、真修の幼馴染の女の子、小片菜緒だ。椎川主任の対なので、めちゃくちゃに純真な少女だ。たとえばアイドルアニメがあれば、彼女は主人公になるだろう。そういう「どこにでもいる何の変哲もないかわいらしい女の子」それが小片菜緒だ。逆に言えば、椎川主任とちがって現実にはこんな女の子絶対居なさそうであるとも言える。きみの身近に「どこにでもいる(以下略)女の子」である島村卯月はいるか?彼女は真修に恋をしている。そう、負けヒロインである。なんかかわいそうだけど1巻から完全にそうだったのでこれはネタバレでさえないと思う。もし最後真修と菜緒が結ばれてこの漫画が終わってたら俺は発狂してたと思う。彼女の成長も真修とともに描かれていく。

 「12歳少年と30歳女性の恋愛漫画」という触れ込みでこの漫画は広まったが、少し漫画を読みすぎている人なら、どうしても物語展開上2人の進展と障壁となる事柄が多すぎて閉塞状態になることは読む前から予想が付くと思う。なんたって聡子はバリキャリ常識人なので、葛藤に葛藤を重ねていくことになるんだけども、現実なら「うおおなんで自分は動けないんだ!と考えているうちに完全に動けなくなることに成功!」となること請け合いだ。

 その閉塞状態を打ち破る装置として投入されるのが、自由人として描かれる聡子の妹、多和田真由子である。友達に実際居たらめっちゃ心強いやろうな~!となるタイプだが、俺の周りにもお前の周りのもそんなやつはいない。動けなくなったら動けないまま我々の人生は終了していく。

 他にも、当然青少年保護条例的な障壁として真修のリアル保護者である真修の父親・速見元樹も描かれる。弱い大人、というか弱いおっさんという感じだ。弱いと言うのは気が弱いのではなく、物語上での弱者を指す。物語上では物語を推し進める力がある者が強く、物語を推し進める力なんてなさそうな疲労した大人は必然的に弱くなる。現実感があればあるほど、その人物は弱くなる。なぜなら物語とは、現実ではないので。

 描写が為される主な主人公たち以外のキャラクターはこんな感じだと思う。

 俺が、この作品の最も優れている点であると信じて止まない点が、この人物描写にある。

 人が物語を考える時、通常「起承転結」や「見せ場」や「オチ」を意識せざるを得ないと思う。当然この作品もそれらの要件を織り交ぜて制作されたんだとは思うけれども、俺には全くそれを感じさせなかった。そこに感動する。

 どういうことか。

キャラクターを形成する行為そのものが物語になる

 作者はたいていの場合自分の作ったキャラクターとひたすら向き合いながら作品を作っていく。されと同時並行して物語を展開させていかなければならないわけだが、「私の少年」において後者・物語の展開に作者の恣意を感じさせない。

 「作者が物語を展開させる意志がないわけないだろ!現にこの作品はきっちり物語は進むべきところまで進んだじゃないか!」と言い返すことはできるが、俺には本当にそういう意志が感じられなくて、そこがいたく感じ入るところだった。

 読書の感触として俺にあったのは、「ただキャラクターたちが発話し、葛藤し、コミュニケーションをしていく」という感触のみである。そこに物語的意志、作者の恣意が感じられない。本当にこの本の中に人物が息づいていて、本当に真に迫って悩んでいる。そんな感触があった。

 キャラクターたちの性格、思考パターン、コミュニケーションのみがそこにはある。それらが絡み合って、自然と物語が形成されていく。その自然さのあまり、作者の物語形成の恣意が感じられないと言う現象が起こってるように思えた。

 その要因として考えられるのが、作者とその作者が自ら生み出したキャラクターの距離だ。まつげが触れてしまいそうになるまで作者の眼前までギリギリまで迫って、自分のキャラクターと向き合う。「彼/彼女はいったいどう考えるだろう?」それをひたすら追い続けることへの執着。そんなものがあるような気がしてならない。

 「生まれ持った性質としてお互いに惹かれあう聡子と真修は、どのようにして関係を深めていくのだろう?」それを追っていくうちに現れる数々の障壁。30歳と12歳という倫理的な問題。2人の感じる時間のギャップ。2人がどんなに葛藤しても、コミュニケーションを重ねても、そのほか数々の障壁が2人の前に立ちはだかる。

 その障壁を越えるために作者は物語を展開させるのが普通だ。事件を立ち上げ、問題を展開させ、歴史を語り、オチをつける。しかし、「私の少年」において障壁を越えるために投入される装置は、作者の恣意ではなく、新たな登場人物だ。

 椎川主任が聡子を怒らせる、菜緒の思いがすれ違う、真由子が2人の背中をバン!と叩く、元樹が子の成長に気付く。キャラクターたちの自然な振る舞いが、聡子と真修の関係を進展させていく。そこに、作者の「2人の関係を進展させよう」という意志が、俺にはどうしても感じられない。なぜなら、2人の関係を進展させたのは、作者ではなくキャラクターたちだからだ。

 「頭の中で勝手にキャラクターたちが動くから、話を考える必要がない」

 これは、天才が言いそうな理想として挙げられる創作論のひとつだ。

 この「私の少年」は俺のなかでその理想に最も近い作品だった。

 しかし、決してそこに天才の飄々とした創作の姿は浮かばない。

 俺の眼に浮かぶのは、作者がひたすらに自分のキャラクターと向き合い、愛し、悲しみ、喜びを分かち合う行為に徹して筆を走らせる。そんな姿だ。

余談(ネタバレを含みます)

 恋愛作品は「誰が誰といったいどうなるのか」、最後までわからない。

 いちご100%しかり、俺妹しかり、俺ガイルしかり、だ。

 この作品は決してハーレム物ではないから、上記の作品のようなハラハラはないのに、「私の少年」において俺はハラハラしていた。

 それは「どこまで描くの!?」というハラハラだ。

 キスすんの!?付き合うの!?結婚すんの!?朝チュン的な……そういうことは起こるの!?というハラハラ。というか期待。願い。祈り。描いてくれ!という叫びでもある。

 そして俺の暗い祈りが神に届くことはなかったので、やはり神は居ない。

 最終巻まで読了し、パタと本を閉じ、しばらく目を瞑った後、俺はタバコに火を点けた。

 「描いてほしかった……」読了直後どうしてもそう思ってしまったが、この作品は最初「30歳と12歳の禁断の恋愛」という下世話な触れ込みのもと広まったが、途中から「2人がどうやって正常な手段でハードルを越えていくのか」という方向にシフトしていった。タバコの煙を肺に吸い込むと、気付いた。下世話だったのは俺だったんだな、と。

 冷静になると、当たり前の話なのだ。2人が完全に正常な手段を踏んで結ばれるには、物語時間においてあと数年は必要だ。その数年、2人はきっと物語終盤のような穏やかな日々を送り、毅然とした態度で障壁を越えていくのだろう。聡子が菜緒に意志をはっきり伝えた時点でそれは分かっていた。

 残念ながら、嵐のような日々を描いてしまったあと、後数巻にわたって穏やかな日々を物語として描くの難しい。物語における凹凸のリズムは一定の高低であることが望まれる。俺は吸い込んだ煙を吐き出した。この作品はしっかり描ききられていて、俺が望んでいるものは余分である、そう確信した。

 お願いします、恋愛群像物によくある各キャラクターの後日談をまとめた短編集を出してください。お願いします。