『チョコレートドーナツ』を見た

恋愛映画見たいんだよね〜って話してるのにこの映画勧める人が友達でよかった。ただ俺以外にはしないほうがいいですね。

この映画はゲイの話だし、差別の話だし、障害者の話だし、教育の話だし、法の話として作られているんだけど、俺は全然そうじゃないと思った。

愛し合う2人が現実的に出会って、愛されるべき子と出会って、世界の予め持って生まれた歪みに抵抗していく話に観れた。

おかしいのは世界の方であって、主人公もその恋人も、その子も、何もおかしくない。

世界にその恋人たちはゲイと名付けられ、その子は障害者と名付けられただけ。そういう風にしか観れなかった。

それくらい、恋人同士の愛し合う時間も、恋人たちが自分の子と触れ合う時間も当たり前にあるべき幸せとしてこの映画では描かれている。

だから俺は、この現実を基としたお話の結末があまりにも残酷だったのは、当たり前のことのように思えたから、一切悲しくなかったし、泣かなかった。現実の世界が最初からバグってて、この世界は不幸なことがほとんどだって俺は知ってるから。彼が悲惨な結末に至ったのは、俺にとっては当たり前のことで、悲惨なのがこの世界だから。

だから俺は、恋人の愛し合う時間、想いを通わせる瞬間、その子に与えられた幸福、少しの良い人たちとの出会い、それによって第三者が心動かされた奇跡に感動した。恋人と、その子が過ごす何気ない幸福な時間として描かれた序盤の場面にこそ、涙が出た。それはもしかしたらこの世界がおかしくて、彼らが今後どんな目に遭うかが目に見えていたからかもしれない。失われることがわかっている幸福が一番悲しくて、涙が出てしまうのかもしれない。

その何気ない時間が現れているのが、この映画の表題の「チョコレートドーナツ」なんだろう。チョコレートに浸されたドーナツはジャンクな食べ物だけれど、太って背の小さくダウン症を持って生まれてきた恋人の子の大好物で、本当に幸福そうにチョコレートドーナツを頬張るのだ。

詳しくは調べていないけど、この障害児を演じた俳優もまた、障害者であるらしい。演技のことが疎い俺にもわかるくらい素晴らしい演技で、幸福な時の幸せな演技、悲しい時の悲しい演技はしっかりと鑑賞者の心に響く。

そして主人公であるドラァグクイーンの俳優もキャラが立っていて、気持ちよく観られる演技をしていて素晴らしかった。底辺を彷徨うゲイバーのオカマとして描くにはあまりにもカッコ良すぎる気はするけれど、それでも彼の不精な青髭は役柄にぴったりだった。

この映画を観たら、きっと多くの人はゲイへの不理解、障害者への不理解に想いを馳せるんだろうと思われる。

でも俺は、そんなことはどうでも良いんじゃないかと考えてしまう。

幸福であるべきはずだった恋人と、幸福であるべきだった障害者が、当たり前に世界の歪みに壊されてしまう。ただそれだけの映画であり、失われるであろう幸福の儚さと、失われるからこそ何よりも尊く見えるその幸福な時間を、現実にいた彼らが送ったその時間を少しでも我々が共有することができる。そのためのフィルムだと、俺はそう思う。