Kaede Higuchi 1st Live “KANA-DERO”
俺はいったい樋口楓をどんな女の子だと思っていたのだろう。
自分の想像の中で、型にハメてやしなかったろうか。
「樋口楓は、裏表がなくて、思ったことを素直に言って、ときどきそのせいで奇想天外なことを言って、友達を常に大切に思っていて、粗暴のように見えて繊細な感性を持ち合わせていて…………」
そんなふうに、型に当てはめてはいなかったろうか。
でも、そんな杞憂も今回のこのライブで、全てお終いなのだ。
今回樋口楓はライブの内容に非常に深く関わっていたという。
セトリや演出は深く関わったと、そう公言していた。
「命に嫌われている」
この曲は、樋口楓が我々に見せた、ひとつの解釈だった。
なんの解釈なのか?
初音ミク Wiki - 命に嫌われている。 #atwiki https://www5.atwiki.jp/hmiku/pages/36604.html
単純に言えば、かえみとなんだろう。
でも、単純なカプの話というだけでは、けっしてないのだろう。
樋口楓の楽曲、それはファンメイドのものが多い。
ファンがイメージソングを作って、それを彼女が歌い、ライブで披露した。
ファンが彼女の今までの軌跡を解釈して、作成された楽曲が多い。
「樋口楓」としての彼女が歩んできた軌跡が彼女自身によって歌われる。
ファンが作った彼女の像がその楽曲たちにはある。
「命が嫌われている」このライブでの演出とは、樋口楓の樋口楓による解釈の提供だった。
このライブでの演奏を通して『KANA-DERO』全体を見ると、ライブ全体が樋口楓による樋口楓の解釈の提供にも見える。
それは、決して二次創作に対して公式が出した「正答」とは、また異なる。
俺には、樋口楓による樋口楓の二次創作に見えた。
正答ではなく、樋口楓による樋口楓の1つの解釈。
それが意味するところとは?
ライブ演出として使用された、「楓と美兎の死生観」
それと、彼女がライブで最後に語った「自分という存在の終わりの示唆」
これは全く分離された2つの事柄ではなく、関連性をもった2つの事柄に思えた。
命ある限り、やり続けるという意志。
その「命」とは、誰の命か。
樋口楓の命とは、どんな時どんなタイミングで終わりを告げるのか。
歌がいつか終わるのと、同じようにして、樋口楓という存在は終わっていく。
そのことを不意に示唆されたような気がした。
でも、その示唆はまったく暗いものじゃない。
人ーーー、もしくはキャラクター、その終わりに悲しみはぜったいに付きものだと、そう思っていた。
でも、いい曲を聴き終わったあと、その終わりを惜しむ気持ちは悲しみではなく、もっと明るい気持ちになりはしないか。
それと同じように、樋口楓は樋口楓による二次創作によって、「私の終わりは、この曲が終わる時のようにいつかは終わる」
と、そう感じた。
この『KANA-DERO』で見たオレンジ色の光のように、明るい曲を聴き終わったときのように。