「メタバースは『いき』か?」(難波優輝・現代思想2022年9月号)に対して

 

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 上記巻号中に書かれた難波優輝さんの「メタバースは「いき」か?」に対して思ったことがあるので書く。

 

メタバースは「いき」か?」について

 この評論は、VRChatにて男性が美少女のアバターでコミュニケーションや自己表現をしていることを主として書かれている。のじゃろりさんのVRChat上での考え方を基にして、現実での自分を拒否するかたちで美少女アバターをかぶっていることに対して、それは「いき」ではないという主張が為されている。

 「いき」ではない理由として挙げられていることは、葛藤や苦悩する人間の美しさがそこには見出せないからだ、と私は読んだ。現実世界で理想に少しでも近づけるように努力をすること、または執着しているさまこそが、人間らしく美しいのではないかと語られ、それが「いき」であると定義づけられている。それに対し、美少女アバターをかぶり、美しい声色に変質させてコミュニケーションや自己表現を行うということは、現実世界で美しくありたい、でも上手く行かない、それでも何とか理想に近づけるよう試行錯誤するという行為から逃避しているとされ、「いき」ではないと筆者は書いていた。

疑問点

 私は、美少女アバターをかぶるということや美声に変声するという行為が、論中において力を持ちすぎているように感じた。私にとって、美少女アバターをかぶるということや声を加工する行為は、おしゃれをすることと変わらないように感じるからだ。

 筆者は、「おしゃれは自己実現のために試行錯誤する『いき』な行為」だとしているが、「仮想現実におけるバ美肉は『いき』な行為ではない」としている。

 たしかに、筆者の定義に間違いはないようにも私は感じる。現実では変更し難い生まれ持った要素を仮想現実ではまったく変えてしまう事ができるというのは、事実だからだ。

 それでも私が疑問を感じている理由は、「バ美肉をしても、コミュニケーションを重ねるたび、また、表現を様々なパターンで目にするたび、その人のもつ性格や性質が透けて見えることが多い」と感じることが多いからだ。評論の最後段には、未だメタバースは未熟で今後もっと発展していくにつれてバ美肉はもっと変わった存在になっていくだろう、とは書かれていた。私は結局いくら技術が発展したところで「中身が透けて見える」ということは変わらないのではないかと思ってしまう。

 ここまで書いておいて、これは私の主観における感想でしかないのでいまいち正確性に欠けることを書いているとは思う。私はファッションが好きであり、なんなら中毒に近く、血液型占いを信じ込んでいる人のように、その人の好きなブランドで性格を測ってしまうような悪い遊びさえ癖になってしまっているくらいなのだが、それでもその人の容姿で人間性を測ってしまうということは難しい。結局はその人の性格や志向性を測ろうと言葉や声色や表情などで判断しようとする。容姿はその人の人間性に対して中心を担うことはない。人間性通りの容姿をしていれば、「筋の通った人だな」「面白みのない人だな」と感じ、人間性にそぐわない容姿をしていれば「ギャップがあって良いな」「期待しすぎてがっかりしたな」などと勝手に思うだろう。容姿はその人を判断する時に、確実に影響を与えはするが、それだけで判断することは出来ない。

 それは、バ美肉においても同じことではないか。結局はその人の性格で自分に合っているのか、合っていないのかを判断するということはメタバース上でも変わらない。アバター(=容姿)はその人を判断する材料ではあっても、すべてではない。いわゆる「お砂糖」も、決してバ美肉技術の良し悪しだけで決まるものではないと思う。きっかけとして確実な影響を与えていても、性格や志向性が合わない人とは「お砂糖」関係になって恋愛には発展しない。

 「メタバースは『いき』か?」においてバ美肉は少し力を持ちすぎているように感じる。乱暴に言えば、「整形をして体型さえ完璧に整い、それが完全に自分の好みと一致していればその人には確実に恋に落ちることとなる」と書いているように感じてしまった。「おしゃれ」と「バ美肉」を比較している論なので、人間性による相性については書かれていなく、決してそのようには書かれていないのだと思うのだが、読んでいて「バ美肉」はそこまで万能ではないし、これからも万能足りえないのでは、と思ってしまう。

仮想現実だからこそ強く感じる事が出来るもの

 ここから書く事が、今回この記事を書いている理由となる。

 自分は普段、バーチャルYouTuberを見て暮らしている。ここ5年間、ずっとそうだ。そして、『メタバースは「いき」か?』を読んで、自分がなぜここまでVtuberに惹かれているのかが言語化されたように感じたのだ。

 私は、仮想現実のアバターをかぶったVtuberに「いき」を感じているから、惹かれているのだ、と思った。

 VRCにおけるアバターと、Vtuberはありようが異なるため、重なるところがあっても、全く同じものとして語ることはできない。しかし、「バ美肉は『いき』ではない」と書かれるこの評論に対して、同じく仮想の美しいアバターをかぶって活動するVtuberに「いき」を感じるのはどういうことなのか。

 それは、さきほども書いた「人間性が透けて見える」という感触から来ているものだ。活動者が、美しい仮想のアバターをして、そのキャラクターであろうとしながらも、やはり自ら持ちえる性格や経歴が透けて見える。それでも、Vtuberであろうとみんなを楽しませるために、自己表現をするために活動し続ける行い。それは「生まれ持った要素をおしゃれをして理想に近づこうと試行錯誤する行為=「いき」な行為」と全く同じように私は感じている事実がある。

 Vtuberは生身を晒しているゲーム配信者やアーティストと比較される。活動内容としては、「そのキャラクターであろうとしている」以外同じであるからだ。今や、表現活動においての単純なクォリティとしてもVtuberは遜色ないレベルまで発展しているが、Vtuberに惹かれる私としては、同じクォリティの表現をしていても生身の人間よりもVtuberの方に魅力を感じる。それが「いき」な行為を経ているか否かにあるのではないか、とこの「メタバースは『いき』か?」を読んで感じたからだ。

 ゲーム配信者やアーティストはただ真っ直ぐに視聴者に対して自らの魅力を伝えようと表現する。それはそれでもちろんすばらしく感動のできるコンテンツであることは間違いない。ただ、美しいアバターであろうとし、美しいアバターとして表現しようとしてくれるコンテンツは、私にとってより「いき」な努力を思わせて、その人の人間性に想いを馳せさせる。

 私は、「いき」な試行錯誤を経ているからこそ、より強くたしかに活動者の人間性が感じられる。「そのキャラクターでありたい、でも、現実世界で自分はそのキャラクターではない」そこから感じる感動は上手い演技をみたときに役者に与える喝采かもしれないし、複雑なトリックを経た手品師のマジックに対しての驚きかもしれない。その役者の稽古などの努力に対して想いを馳せることで、オリジナリティのあるトリックに対して考察を深めることで、表現者人間性に感服する。ただ、その表現者と相対して会話を交わすこととは全く違った感動がそこにはある。それは表現者が自ら技術に対して持っている愛さえ美しく感じられる。