それはそうとして、葛葉はドラキュラ伯爵に忠実で吸血鬼としてすごいという話

 

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 前記事で散々「いや、別に吸血鬼キャラが『ドラキュラ』に忠実かどうかでなにかが揺さぶられるわけではないですよ」とか書いたが、あれはウソだ。

 正直、小説『ドラキュラ』を読んでいて「葛葉めちゃくちゃ吸血鬼やっとるやんけ! すげえ!」って何度も興奮した。前記事で散々小説『ドラキュラ』のここがすごい! 古い小説なのにめちゃおもろい! とつらつら語ってたけれど、正直俺が葛葉好きでドラキュラ伯爵の設定を葛葉が活かしている箇所を発見するたびに興奮してたから物語がめっちゃおもろかったんじゃねえかという自己分析も、あります。まあでも前記事もちゃんと心を込めて書きました。小説が面白かったのはマジなんだから。

 これは前記事読まないとわからんことだけども、作者のブラム・ストーカーがヘンリー・アーヴィングっていう劇俳優の大ファンでドラキュラのモデルにしたってことで、この本の解説の人が「それってホモってことですよねえ!」って言い始めたのに対して散々「いや、そんなわけないだろ。男が男のファンだからってホモって短絡的過ぎませんか? 普通にファンボだっただけだと思いますけど。メガネクイクイ」って前記事に書いてた男が男のオタクである様子を書いて行こうというのヤバすぎるだろ。オタクって本当に信用ならないから書いてること全部ウソだと思ったほうが絶対良い。特殊詐欺よりひどい。

ドラキュラ伯爵は基本おっさんなのに、見た目で葛葉と共通してるところがいくつもあるのって、ロアロママすごくないか?

 まず小説『ドラキュラ』に出てくるドラキュラ伯爵って最初登場する時白髪白髭なんだよね。そんで、物語が進展していって吸血で若い生気をチューチューしたら黒髪黒髭のテカテカおっさんになってロンドンで若い女と新しい住処を物色しまくるわけ。

 いや、葛葉やん。

 元は白髪やけど、人間社会では黒髪って。制服衣装実装後の黒髪葛葉やん。わりと最近やん。てか赤い眼もなんか吸血鬼コンテンツが古い映画とか含めて進んでくにつれてホラー演出として定着していったのかと思ったら、めちゃめちゃ原作設定だったわ。あとめっちゃ色白なのもそうだった。尖った耳はもう言わずもがなだし。りりむも赤目で尖った耳してるのも、これは幻想小説界隈で言うと、犯罪行為を厭わない邪悪な面相って要素の一部らしいです。魔族だからね。

 そうなってくると貴族設定とかも、「ほんまにお前吸血鬼なんやな(ボドカ)」って感じしてくる感ある。ドラキュラは小説内で執拗なまでに高貴な伯爵として振る舞いまくるし、葛葉はめちゃくちゃ設定からして貴族吸血鬼であろうとしまくっとる。ボドカって一生葛葉のこと吸血鬼として扱う言動しまくるけどなんなん? 時々とはいえ余りにもオタクがすぎるだろ。パリピでしかないキャラデザしてんのにボドカ。女性Vをめっちゃかわいいキャラとして扱うのはなんか普通に萌えオタって感じでなんも思わんけど、葛葉にまでそれをぶつけてるの面白すぎるだろ。ヴィトン着て葛葉にオタクムーブぶつけるのやめろ。

 そもそもとして、葛葉は個人から今に至るってのもあるけど、葛葉見てて「設定守ろうとしてるなー」って思ったことがないんだよな。なんか好きでこのキャラやってるから楽しいよ、って感じしかしない。それなのにめちゃくちゃドラキュラっぽい要素をしっかり押し出してきてるのがなんか奇跡感じるよね。日々奇跡を感じ光を浴びて生きて行きたい。

魔力だの、怪異だの

 葛葉は「ニンニク食えるよ」「血吸わなくても死なないよ」「太陽イヤだけど別に外出歩けるよ」ってリスナーに無限回言ってるけど、『ドラキュラ』ちゃんと読むまではこれは葛葉が楽に活動していくためにあるていど縛り緩くしていってんのかなーって思ってたのクソ浅はかだったわ。

 原作のドラキュラ伯爵ってニンニクにはたしかに近寄れないけど、それは自身の高貴さと穢れを自覚しているからこそで、たしかに「近寄ることが出来ない」のも事実だけど、けっこうな割合で「近寄らないことにしている」って部分があるんだよな。そういうことが書かれてます。小説に。ガチで。

 基本、ドラキュラ伯爵が「聖なるもの」を苦手とする理由は、人間が古くから信じ続けてきた因習や伝承が、吸血鬼と言う邪な存在の対極にあるからなんだよな。そもそも聖なるものがなにかっていうのが、人間の信じ続けてきた善意やあるべき理想、それを実践するための行為ってことだから。印象に残ってるのが、ドラキュラ伯爵は決してそれを踏みにじるようなことはせず、敬意を表して近寄らないようにしてるって書かれてたところ。

 これは俺の個人的な解釈すぎるけど、たぶん聖なるものを踏みにじったとき、ドラキュラ伯爵は吸血鬼でも人間でもない、理性も感情もなにもないなにかになってしまうんじゃないかとさえ思える。前記事にも書いたけど、ドラキュラ伯爵は多くの制約があるからこそ、不死であり続けられるし、様々な魔術を行使することができるってところはあると思う。つまり、ドラキュラ伯爵は自ら吸血鬼の君主であり続けるために、聖なるものへは近寄らないという制約を自分から守ってるんじゃないか。

 だから、ニンニクや、バラの小枝や、その他聖なるものとして因習が信じられてるものに不本意で出くわしてしまっても、やっぱり死んだり傷ついたりはしないんじゃないか。ルールを守りたいから、近寄らないようにしているということ。ルールを守ることによって、吸血鬼であり続けられる。

 こういう考察もしていきます。オタクなので。

 そういう意味では、バーチャルワールドや現代社会ってニンニクに聖なる力があると信じてる人は少ないし、バラの小枝やらもそうだし、法儀済の銀の弾薬なんてバチカン市国にもないだろうし、葛葉がニンニク食えるのも正しいんだよな。でも聖遺物として古くから信仰されてるようなヴィンテージの乾燥ニンニクとかを食うと葛葉は死にます。そういうことだと思う

 血を吸わなくてもいいってのは、これはガッツリ小説に書かれてる。吸血鬼が吸血するのは食事じゃないんですよ。吸血する理由は、第一に眷属を増やして支配勢力を拡大するため。第二に、若返り、自分の精力や魔力を強化するため。それもそうなんだよな、吸血鬼ってのはまず基本的に不死だから、栄養を補充する必要がない。実は血を吸えなくておなかが減ったよ~とか言ってる吸血鬼キャラのほうが原作準拠じゃないのびっくりしたわ。吸血鬼にとって吸血とは魔術的行為にほかならないんですね。だからでかい魔術を行使しないとやばいってならなきゃ葛葉は吸血する必要が実はない。女配信者と裏でエペしたことによる炎上からの抗議活動によってオタクが火炎瓶持ってえにからに押し寄せたら吸血しなきゃならんかもですね。

 あと日中出歩かなくていいってやつ。水声社『ドラキュラ』にもこの部分は疑問が呈されてたからなあ。悩むところ。ドラキュラ伯爵が日中に活動してる場面は少ないながらいくつかあって、それはドラキュラに対抗する勢力の旗頭であるヴァン・ヘルシング教授の言うところと矛盾してしまってる。教授は「ドラキュラは日中活動しているときは魔力を行使できなくてつらポヨしとる」って言っちゃってるからね。もしかしたらクソ萎えながら太陽の下歩いてたんかもしれんけど、そうも書かれてないから難しいところ。とはいえ、小説のドラキュラ伯爵の振る舞いと、葛葉の「太陽キモいけど歩けるよ」ってノリとは合致してる。

イマドってなんだったんだよ、イマジナリーにすることによって何から何を守りたかったんだよ

 幻想文学に幼い頃から触れてて素養があったらその限りでもないんかもしれんけど、少なくとも俺は吸血鬼と狼男は別個の怪物だと思ってたよ。ニャオハとクワッスくらい違うと思ってた。

 こと小説『ドラキュラ』においては吸血鬼と狼はめちゃくちゃ密接な存在として描かれているし、調べたところによると吸血鬼伝承と狼男伝承はセットで夜の怪異として言い伝えられている国が多いらしい。

 ドラキュラ伯爵が人間と戦闘するとき、大体狼をけしかけることが攻撃方法なんですよ。なんか動物園みたいなところに行ってまで狼を吟味したりしてる描写もあったし、信頼とまでは行かないまでも、ドラキュラ伯爵は狼に対してあるていど信用を置いていると思って構わないんじゃないか。自分が人ならざる恐ろしい存在なんだと誇示する時にも、狼を魔術でおびき寄せてきて遠吠えさせまくるのもそう。名刺代わりの狼ってぐらいにはドラキュラ伯爵は狼を出しまくってた。

 こんなにもドラキュラと狼は関係が深かったのか! と感じ入ると同時にライバーがみんなそろって猫ばっか飼うなかで、唯一犬を選択した葛葉へも同時に感じ入ったのは女々か?(薩摩)

 女々かどうかは置いておいて、葛葉が膝の上に乗っているイマドに対して「お前はな、将来立派な狼になるんだぞ」って言った有名な発言が単なる萌え豚向け動物好きイケメン萌えムーブではなくて、吸血鬼として狼に対してこだわりがあるゆえの発言だったてことにしてます。俺の中では。

 葛葉のオタクが吸血鬼と狼の関係性の深さを感じるためだけに、小説『ドラキュラ』を読む価値あるんじゃないかってくらい良い。葛葉って他のライバーと比べても、犬を飼う前から動物好きで、某ふぁぼ欄にしろなんにしろ色んなところから動物好きは漏れ出まくってた。だからこそ葛葉は動物を飼いたいけど、自分がちゃんと世話をできるのかという葛藤をしながらイマドを飼うに至ってる。でもこれって絶対吸血鬼として日々を送ってるから、犬を飼うことにしたとかじゃ絶対ない。「最近猫でもいいのかなと思ってる」とか言いながら結局犬を選んだのは、自分が犬を好きだからそうしただけ。それなのに、吸血鬼と狼の関係性の深さを思わせる結果になっているってすごい。すごいだろうが。

 葛葉しかり、吸血鬼はみんなコウモリモチーフにしてるけど、こと小説『ドラキュラ』に限ってはドラキュラのモチーフは狼にしてもおかしくないほどだ。けれども、ヴァンパイアの発祥のひとつとして、ヨーロッパには放牧している牛が巨大な吸血コウモリによって殺されたなどの伝承があり、そのコウモリを指してヴァンパイアと呼んでた説もあるみたいでもあるし、血を吸うコウモリは世界各地にも日本にも生息しているから、やはり葛葉を初めとした吸血鬼のみなさんはコウモリモチーフなのだろう。

 有名なクソデカコウモリくんの画像を見たことがある人はわかるだろうけど(画像は少し怖いので貼付を差し控えておく)、マントを身にまとった黒尽くめの格好のコウモリっぽさといったらかなりだ。ドラキュラが全身黒い服を着ていることもまた、小説にしっかり描写されている。とはいえ前記事にも書いたとおり、色んな理由があってドラキュラ伯爵自身の心情は作中語られないので、彼が黒い服を好んでいるかどうかはわからない。葛葉は黒い服を好んでいるので伯爵の気持ちは妄想するしかないのが残念なところだ。

とはいえ、葛葉は葛葉だし、ドラキュラはドラキュラ

 小説『ドラキュラ』の後半、いよいよ直接対決だと攻防を押し引きするなか、重要となる吸血鬼の規則がある。それが、有名な規則、「吸血鬼は水の流れを渡る事はできない」だ。水に浸かったりしても死にはしないので、水を苦手とするわけではないけれども、何か乗り物を使い、誰かに運んでもらわなければ川や海を渡る事はできない。ドラキュラがロンドンに侵攻してくるに際して、乗船中の隙を突くという作戦を主人公たちは取る。

 『ドラキュラ』において「吸血鬼が水の流れを渡る事が出来ない」ってのはかなり重要とはいえ、葛葉もこればっかりは吸血鬼として無視して言及を明らかにしていない感じはある。もしくは「俺泳げるよ」とかいってるかもしれない。『常夏★スカイスクレイパー』しかり、水着で遊んだりなんだりしてる様子もあったりするわけだし。一応俺の記憶の中では、葛葉が水中を泳いでいるような場面を語った記憶はないというていど。

 「霧に紛れて色んな場所に入り込むことができる」ことや、「招かれなければ建物内に入る事が出来ない」など、世界各地で古くからある怪異伝承を参考にして小説内で語られているような吸血鬼の規則もまた、葛葉と合わせて考えにくい。

 やはりなんといっても葛葉は今もこの世界に生きていて、伝承として語られるような存在ではないから、そういった規則や振る舞いを重ねることは難しいだろうと思われる。

 じゃあ今回散々書き散らしたこれはなんだったのか。それは、何度も書いたとおり、葛葉には自身が吸血鬼であるという自負が感じられるということ。そして、なにより自身が吸血鬼であるということを楽しんでいるということ。これらについて散々語り散らさせていただきました。ここまで読んでくれてありがとう。

 葛葉は自分のことを「高貴なるヴァンパイア一族の名門……」と言わない代わりに、自分が吸血鬼であるということを、今回書いたような言葉の端々で感じさせてくれようとしているのかもしれない。嬉しいことだ。

キャラ属性としての「吸血鬼」を、ブラム・ストーカー『ドラキュラ』から見る。‐水声社『ドラキュラ 完訳詳注版』を読んで‐

 吸血鬼は今や、キャラクターコンテンツにおける属性として大きな存在感がある。その大きさたるや、オタクを自認しない老若男女みんな吸血鬼に対して「かっこいい」「ミステリアス」「セクシー」と感じている人も少なくないほどだ。

 ブラム・ストーカーの著した『ドラキュラ』における吸血鬼――ドラキュラ伯爵――が、現代の吸血鬼への印象を形作った起点となっているのは当然としても、ドラキュラ伯爵は現代における吸血鬼のイメージからするとかなりクラシックにすぎる印象がある。

 小説『ドラキュラ』に書かれた吸血鬼の規則や振る舞いが、時代が進むにつれキャラクターコンテンツが発展するに従って普遍化していった。「日の光を苦手とする」ことが、「引きこもってばかりで色白痩せぎす」であることの理由となったり、「人血を栄養とし、首元に噛み付いて血を吸う」ことが、ロマンティックな、またはエロティックな行為として描かれていった。

 そのような解釈が積み重ねられて、ドラキュラ伯爵と現代の吸血鬼とのギャップが生まれている。だからこそ、日々吸血鬼コンテンツに触れていると疑問に思うことがあった。「この吸血鬼キャラは、吸血鬼としてどのくらい忠実なんだろうか?」

 別にその吸血鬼キャラが、ドラキュラ伯爵、または小説『ドラキュラ』から著しく乖離してようが萎えるなんてことはないし、逆に忠実にドラキュラ伯爵の規則や振る舞いを再現してようがその忠実度合いに逐一気付かれるかと問われれば難しいと答えざるを得ないだろう。

 それでも、オタクたるもの設定だの原作だの、そういうものが気にかかってしょうがない。そうあるべく生きているから。

 これが、私が『ドラキュラ 完訳詳注版』を手に取った理由だ。別に大した理由でもなく、この本を手に取る人は同じような動機を持っていることと思う。

 でも折角読んだのであるから、今回吸血鬼キャラに親しんでいるオタクとして小説『ドラキュラ』の吸血鬼はどうだったのか、書いていきたい。

ドラキュラ伯爵とは何者なのか

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『ドラキュラ 完訳詳注版』水声社

 誰もが思い浮かべるドラキュラ伯爵の風貌にはれっきとしたモデルが存在する。それが19世紀イギリスの劇俳優ヘンリー・アーヴィングだ。

 私が読んだ『ドラキュラ 完訳詳注版』の表紙に写っているのも彼である。

 伯爵は精悍な鷲のような顔つきをしている(五)。鼻柱の高いほっそりとした鼻で、独特な形の鼻孔をしている。額は高く張り出し、髪はこめかみのあたりは薄かったが、それ以外はふさふさとしていた。眉は太く、眉毛が鼻の上でくっついており、もじゃもじゃと渦巻いている、口もとは、豊富な口髭越しに見たかぎりでは、毅然としていて残酷そうだった。歯は白く、奇妙に鋭く、唇の上に突き出している。唇は非常に赤く、彼ほどの年齢にしては驚くべき生命力を示していた。それ以外では、耳が青白く、てっぺんが著しく尖っており、顎は幅広くがっしりとしている。頬はやせてはいるのだが、しっかりとしていた。全体の印象は、並外れて蒼白であるというものだった。――第二章p.33より

 アイコニックな吸血鬼としてのイメージはこの描写から始まっている。

(五) 顔付きをしている……ここで描写されているドラキュラの顔付きには、ヘンリー・アーヴィングの面影、ユダヤ人的特徴、生来性犯罪者的特徴などが指摘されている。――注釈p.402より

 ドラキュラ伯爵への第一印象となる描写に対しての注釈。ヘンリー・アーヴィングに犯罪者的なイメージを追加したような人物像となっている。

 白髪、白髭とあるが、物語が進むとドラキュラ伯爵は吸血行為によって栄養を充分に得たあと若返り、黒髪黒髭となり、まさに吸血鬼のアイコンそのままになる。

 世紀末の西欧において、金髪に対しては本来あるべき正しい姿、というイメージが持たれ、対照的に黒髪は妖艶でミステリアスなイメージが持たれている。黒髪を生まれ持っている日本人としては、現代における「金髪の若者」と「黒髪の若者」に持つイメージと同じではないかと感じる。金髪であるから、黒髪であるからといって人間性を判断するような基準ではなく、あくまでどのような印象を持つかといったようなステレオタイプさを伴う判断基準と言えよう。

 実際作中で吸血され所謂「眷属」となった女性は金髪から黒髪へと変貌している。このことからも、『ドラキュラ』と言う作品は当時の西欧においての金髪と黒髪のイメージを利用しての描写がなされていることがわかる。ちなみに、作中に「眷属」と訳された言葉は一度も見当たらなかった。ドラキュラ伯爵に吸血された者は「不死者」と訳されている。創作において「アンデッド」という表現がなされるに際して思い浮かぶイメージで読み取ることが出来る。

ドラキュラ伯爵の振る舞いと吸血鬼の規則

「吸血鬼は生き続ける。単なる時の経過によって、死ぬことは出来ない。生き血で肥え太れば、さらに強大になる。その上、我々の中には、若くなることが出来るのを目撃した者もいる。〈略〉しかし、この特殊な食料がなければ、その力を失う。吸血鬼は人間のようには、食べたりしない。〈略〉それから、吸血鬼には影がない。鏡にも映らない。〈略〉吸血鬼は、狼に姿を変えることができる。〈略〉吸血鬼は、蝙蝠になることができる。〈略〉吸血鬼は、自ら作り上げた霧に紛れて動くことが出来る。〈略〉吸血鬼は、月の光の中を細かな塵のように動くことが出来る。〈略〉ひとたびわずかな隙間を見つければ、どんなところからも出てくるし、どんなところへも入り込むことが出来る。〈略〉吸血鬼は、闇のただなかでも、見ることができる。〈略〉家の中の誰かがまず中に入れてくれなければ、奴はどこであれ、中に入ることが出来ない。ただし、その後では、望みどおり入ることが出来るようになる。すべての悪霊がそうであるように、吸血鬼は日の出とともに消滅する。〈略〉結びつきのある土地にいないと、正午と正確に日の出と日の入り以外には、姿を変えることができない。〈略〉奴は、土、棺、地獄といった自分の居場所や穢れた場所であれば、限度内ではあるが、好きなように振舞うことが出来る。〈略〉また奴は凪や満潮時でなければ水の流れを渡る事は出来ないとも、言い伝えられている。また奴には、周知の大蒜(にんにく)のように、その力を失ってしまうほど苦手なものがある。神聖なものについては、たとえば今、誓いを立てた時に我々が用いた十字架だが、奴はこうしたものには全く無力だ。しかし、そういったものへは決して近寄らず、敬意を表しておとなしくしている。さらにほかにも苦手なものがある。〈略〉まず、奴は棺の上に野薔薇の小枝を置かれると、そこから出られなくなる。神聖な銃弾を棺の中へ撃ち込むと、奴を真実の死に至らしめることができる。奴の身体を杭で貫くことや、首を切り離すことについては、我々はすでにそうすることで安らかな死を与えられることを知っている。――第十八章p.257-258から抜粋

(八) 伝記と迷信……ニーナ・アウエルバッハによれば、吸血鬼に関する以下の記述は、じっさいにはストーカーが集めた「伝記と迷信」と、彼自身の独創的創作との混合である。たとえば(一)流れる水の上を渡れない、(二)野薔薇の小枝を置くと棺から出られなくなる、(三)神聖な銃弾を撃ち込むと真実の死にいたらしめることができる、といった性質は、たしかに「伝説と迷信」に由来する。しかし(四)己の姿を自由に変える、(五)犠牲者を己の同類に変える、といった性質は、ストーカーの独自の創作にほかならない。アウエルバッハは以上のように述べるが、しかし少なくとも(五)の特徴はエミール・ジェラードの『森のかなたの土地』のなかに見出すことができる。――注釈p.438より

 『森のかなたの土地』とは、小説『ドラキュラ』以前に書かれた吸血鬼に関する小説。

 吸血鬼とは、世界各地に伝わる伝承を元とした存在であり、もちろん『ドラキュラ』以前にも吸血鬼を扱った小説は世界各地に散見される。レ・ファニュの『カーミラ』がストーカーの『ドラキュラ』に大きな影響を与えていることも良く知られている。

 とはいえストーカーの『ドラキュラ』が現代において吸血鬼への認識の大部分を占めていることは間違いない。引用部に書かれた吸血鬼の振る舞いと規則が良く知られていることが何よりの証拠だろう。ニンニクが苦手、十字架を嫌がる、太陽が苦手。この三要素を並べて思い浮かぶのはマントを羽織った吸血鬼の姿だ。

 作中でも語られるように吸血鬼は不自由だ。多くの規則に縛られ、苦手なものだらけ。人間が完全武装で立ち向かえばドラキュラ伯爵を窮地に追い込むことは容易い。それなのに小説『ドラキュラ』がホラー小説の金字塔としてたしかな地位を保って現在まで読み継がれ、スリルが演出するエンターテイメント性が未だたしかな理由はどこにあるのか。第一に、ドラキュラが伯爵であるということがある。ドラキュラは伯爵としてたしかな理性と知性とを持ち合わせている。第二に、ドラキュラとはヴラド三世であるということがある。ヴラド三世は15世紀ワラキア公国領主であり(作中時間は19世紀末)、激烈な武将として名を轟かせていたような人物がドラキュラ伯爵の正体だ。

ja.wikipedia.org ドラキュラ伯爵は生まれもった魔物や精霊ではなく、かつて人間だった。しかも、伯爵として高い権力と地位、それ相応の知性と理性を持ち、著名な武将として類まれな戦闘経験と実績がある。そんな人間が悪意を持って攻め込んでくるだけでも間違いなく脅威であるにもかかわらず、彼は吸血鬼として多くの魔術を扱うことができる。

 実際小説を読んでいても、ドラキュラ伯爵の凶悪さに疑う余地を挟み込むことはできない。人間がいくら準備を行おうとも、それを嘲笑うかのように隙を突いてくることは間違いないと読んでいて思わされる。これは私にとって意外だった。小説『ドラキュラ』を読む前から、吸血鬼という存在は多くの制約と弱点を持っていることを知っていて、弱点をあらかじめ知っている怪物の物語などスリルを感じられないのではないかと思いながら本を取ったのは、完全に杞憂だった。そんな嬉しい誤算もあって、200年以上前の小説を楽しめたことは幸運だ。

キャラクターとしてのドラキュラ伯爵

 まず前段、人間に牙を剥く前のドラキュラ伯爵は高貴で紳士的でありながらも、旺盛な知識欲を人間にぶつけてくる。多くの言葉を投げかけ、興味深げに話を聞く。伯爵の地位とそれ相応の振る舞いをしながら積極的に話しかけてきて、話をよく聞いてくれるような人物はたいていの人間にとって喜ばしい。もちろん怪物だとわかっていなかったら、だが。

 本著の注釈や解説でも頻繁に触れられることとして、「この男は私のものだ!」というドラキュラ伯爵のセリフがある。

「おまえたち、よくもこの男に手を出そうとしたな! 私が禁じていたというのに、よくもこの男に目をつけおったな! 下がれ! おまえたち三人に言っておるのだ! この男は私のものだ(三二)。この男の扱い方には気をつけるんだな。さもないとこの私を相手にすることになるぞ。」色の白い女性が、みだらに艶かしく笑うと、伯爵の方を向いてこう言った――

「あんたは決して愛さなかった。愛することがないのさ!」――第三章p.52より

(三二) この男は私のものだ……ストーカーの「創作ノート」に頻出する言葉。ドラキュラのホモセクシュアル的欲望を暗示する言葉だが、この欲望は以後、テクストの表面からは抑圧され、あとにはヴァン・ヘルシングを中心とする男たちの帆もソーシャル関係ばかりが目に付くようになる。――注釈p.408より

 ストーカーはドラキュラ伯爵のモデルであるヘンリー・アーヴィングに耽溺していたとされる。ストーカーは19世紀英国演劇におけるプロデューサーをライフワークとしながら上手く軌道に乗せることが出来ず、その損失を補填するために小説の執筆を続けた。そこまで演劇の仕事にこだわり続けたきっかけとなっているのが、ストーカーが熱烈なヘンリー・アーヴィングのファンだったという点にある。

 このような来歴からも、水声社の『ドラキュラ 完訳詳注版』にはホモセクシュアル女性嫌悪がこの物語の根底にはあるのではないかと読み解かれている。じっさい、6年にもわたって取材が続けられた小説『ドラキュラ』のプロットと資料群には幾度となく「この男は私のものだ」というセリフがメモ書きされている。きっとストーカーの頭の中には吸血鬼の伯爵がこのセリフを言っているシーンが強くリフレインしていたのだろう。いわゆる、「ネタが頭に降りてきた」状態だ。降りてきたシーンがストーカーにとっては「この男は私のものだ」と伯爵が言い放つシーンだったのだ。

 だからこそ、ホモセクシュアルホモソーシャルという点は、吸血被害に遭い悲惨な描写がされている登場人物が女性であることも合わせて、解釈として成り立っている。しかし、私自身がこの作品を読んだ印象は少しちがっている。男性が男性俳優に対して憧れを持つということに、ホモセクシュアルのような性愛は差し挟まれないように感じるということがまずある。男性の著名人に憧れをもって真似をしたり、動向についつい目が奪われるということは頻繁に起こることだ。ストーカーが悪役としてドラキュラ伯爵を後世に伝わるほどアイコニックに描くことができたのも、そんな憧れの範疇を越えてはいない。面白い冒険小説を志すにあたって、魅力的な悪役の形成に注力するのは当然だ。たしかにストーカーがアーヴィングに耽溺していたのは間違いないが、それはたとえば日本の昭和であれば高倉健菅原文太に強く影響されて肩で風を切って歩いていた男性たちと重なるところがあるように思う。映画に強く影響されすぎたあまり、アル・パチーノの表情や振る舞いをついつい真似しているような男性も未だ世界中にいそうにも思う。ともあれ、ドラキュラ伯爵が吸血鬼というものをこうも魅力的な存在にまで押し上げたのは、ストーカーのアーヴィング愛があったからこそで、ファンとして熱心になるということは本来素晴らしいことなのだなと感じ入るところだ。

 小説『ドラキュラ』の物語後段、ヴァン・ヘルシング教授率いる主人公たちの反撃が始まると、ドラキュラ伯爵の描かれ方はまた変わってくる。じっさいにヴァン・ヘルシングもドラキュラ伯爵を以下のように評している。

奴は優れた頭脳を持ち、比類なき学識を備え、恐怖も憐憫も知らぬ心を持っておった。〈略〉当時の学問で、奴が手を出さなかったものなどないほどだった。そう、肉体の死を超えて、頭脳が生き延びた。ただ記憶の方は完全とはいえないようだ。知能のある機能においては、奴はほんの子供だ。だが奴は成長しておる。はじめは子供ぽかったものが、今では大人にまで成長しておるのだ。――第二十三章p.320より

 優れた頭脳と学識、それに対しての「子供にすぎない」という言い方は矛盾しているように読める。それに、冒険小説ならではご都合主義のせいで、高い知性と品格を持った振る舞いをしていたドラキュラ伯爵が急速に愚かに見えていくような描写が後段ではなされていく。

 フィクションなのだからそんなものだろうと片付けるのは簡単だが、ドラキュラ伯爵が物語の進展によって変遷していくこのような過程も、吸血鬼への解釈を考えていくことへの助けとなる。

 ヘルシング教授率いる主人公たちは持ち前の知識と技術を活かして、ドラキュラ伯爵と吸血鬼の脅威を研究し明らかにしていく。そのうちにドラキュラ伯爵を追い詰め迫るあまり、主人公の1人のうちの妻がドラキュラ伯爵の毒牙にかけられて不死者、眷属になってしまう。しかし眷族となったことにより、精神世界のスピリチュアルともいえる繋がりがドラキュラ伯爵とのあいだに生まれ、ドラキュラ伯爵の動向や心理が明らかとなっていき、窮地が転じて主人公たちはドラキュラ伯爵にさらに迫っていくこととなる。

 以上の展開によって明らかとなるのは、ドラキュラ伯爵の持つ根深い犯罪者心理だ。彼は吸血行為に執心するあまり、反社会病質と精神病質、ソシオパスとサイコパスとを併せ持った凄惨な心理状態にあることがわかっていく。ドラキュラ伯爵の高度に練りつくされた犯罪行為の数々、その動機は全て吸血行為と眷属の増産に他ならない。それは非常に動物的であり、高度な理念も理想も一切感じ得ない。人間とはちがう新たな形態をもった生き物ともいえないような、怪物。このとりかえしのつかないほどに病んだ精神を指してヘルシング教授はドラキュラ伯爵を「子供」と評しているのだ。

 ドラキュラ伯爵がなぜ不死を求め、吸血鬼となってしまったのか。それは作中には描かれていないが、小説におけるドラキュラ伯爵のなかから、その本来の動機などとうの昔に色褪せ消え失せてしまっている。ただ、吸血し人間の生気を我が物とし、また眷属を増やし、その君主とならんとする。それはかつてワラキア公国の領主だった栄光を取り戻そうとしているかのように思えるが、ドラキュラ伯爵はただ執心した人間の命を求め、怪物と不死者と魔術をを行使する力に溺れた言動と振る舞いしかしない。前段における知性と品格ある行動もすべて、その動物的とも言える欲求を達成するためだけに為されていたことがわかっていく。

 この前段と後段にわたるドラキュラ伯爵の変遷から、なぜ吸血鬼が現在1大コンテンツに至るまで発展していったかがわかってくる。大まかに言えば、ドラキュラ伯爵というキャラクターはギャップがあるのだ。通常ギャップ萌えなどはそのキャラクターの魅力を演出するために使われるが、小説『ドラキュラ』はホラー小説。ドラキュラ伯爵の恐ろしさを、不快感を、読者が彼に憎しみを抱くよう演出するために、前段は好意的な紳士たる伯爵、後段では救いようのない精神破綻者として描き、ギャップを演出している。キャラクターのギャップは、その変容に応じて物語に展開を生む。読者は物語を読み進めるにしたがってドラキュラ伯爵というキャラクターの高低差を感じ、物語を面白いと感じる。

 『ドラキュラ』と題されたこの小説が読み継がれてる理由の根幹に、ドラキュラ伯爵のキャラクターとしての魅力が存在することも、この本が多くの人の記憶に残った要因となっているだろう。記憶に残るということは、思い出すということだ。紳士的な伯爵なのに、精神破綻者であるというその大きな落差に想いを馳せた読者も多いだろう。ドラキュラ伯爵が吸血鬼になった過程や、ヴラド・ツェペシュであった頃の記憶の残滓は、作中で彼が証言することは一切ない。ドラキュラ伯爵自身の心情を描いていないからこそ、読者はそこに想いを馳せることとなる。現代において吸血鬼と恋に落ちる女性の物語が世界中に生まれ続けているのも納得の行くことだ。

 小説『ドラキュラ』を読むずっと以前に、Fate Grand Orderというソーシャルゲームをプレイしていたことがあり、ヴラド三世やカーミラエリザベート・バートリーにまつわるテキストは読み込んでいた覚えがあるが、作中描かれないドラキュラ伯爵が吸血鬼になってしまったその理由に想いを馳せたその結果の最たるものだったと、今思い返すと感じるところがある。

小説『ドラキュラ』の構造・形式

 ここからはこの本が一体どういう小説なのかを書いていこうと思う。

 基本としてこの小説は書簡小説である。これは意外だった。なんとなくシャーロックホームズのような形式なのではないかと勝手に思い込んでいた。主人公たちの日記から始まり、蓄音機による録音データ、登場人物がやりとりした手紙、仕舞いにはメモ書き、時に新聞記事も入り混じり、届け物の明細までもがこの本に綴られている。それらが複数視点からドラキュラ伯爵にまつわるその脅威を描き出していくというのがこの小説の基本的な構造とコンセプトだ。そのコンセプトは徹頭徹尾明らかで筋も通ってはいるが、このコンセプトを完全なるものとして1つの作品にまとめ上げることはかなりの難度であることは想像に難くない。なぜなら1人の作者が書き上げる以上、実際に複数の書き手とはなり得ないからだ。このコンセプトを完全なものとするには、極端な方法を取るのであれば、脚本とプロットを複数人の書き手に共有し、男性は男性の書き手、女性は女性の書き手に日記や手紙を書かせるといった手法が有効になってくる。それを1人の手でやるのだから、やはり1人称単数や3人称限定などに比べると物語上の辻褄の破綻へのリスクが非常に高い。ブラム・ストーカーがこの小説を書くまで6年かかったことも当然であろう。ここまで書けば察するところもあるかもしれないが、この小説にはいくつかの破綻が見られる。それは時に注釈で指摘されるような書簡におけるやりとりの日付のズレや、事物・人物の行動の辻褄があわない点があるということがある。しかし物語の本質はドラキュラ伯爵にまつわる恐怖であり、それらが損なわれるような致命的な破綻はなく、気にしない読者がほとんどだと断じてもおかしくはないだろう。翻訳によってはそこらへんの破綻は修正されている可能性も大いにある。

 複数視点の書簡小説というハードルの高さについて私が気になった点は、他にある。それは、語り口調の調子だ。複数に視点が切り替わる初めのほうは、その人物の口調――男性なら男性、女性なら女性、青年なら青年、老人なら老人の――調子で書かれている。しかしその語りが盛り上がれば盛り上がるほどに、作者視点からその場面を描写した調子になっていくことだ。特に、語りが盛り上がった場面での「」で括られたセリフは書簡としてはあまりにも小説的過ぎる。小説的過ぎるがゆえに、読みやすく物語も入って来やすいから良いのかもしれない。やはり書簡としての形式を頑なに守れば守るほどに、語りとしては説得力や演出力に制限がかかるので、小説としてのエンターテイメント性を保つためにあえてそうしたのかもしれない。現代には書簡としての形式を堅固に保ったまま、雄弁な語りをしてくれる小説も数多くあるため、私は現代人ゆえに眼が肥えてしまっている弊害が出ているのだろう。手塚治虫の漫画を読んでコマ割りが単調だとかトーンが最適でないとか文句をつけているだけの可能性もある。しかし、書簡小説の形式にこだわるがゆえにエンターテイメント性がその枠を超えて走り出している感は否めない。それも勢いがあって面白いは面白いけれども、私としてはそれならばもうすこし作者視点の三人称的な語りを交えて書簡小説としての形式を緩めるバランスの取り方がされていれば、もっと文学作品として価値が上がったのかもしれないなどと爪を噛んでしまう。この『ドラキュラ』と言う小説は文学でなく、大衆小説にすぎないという評価が今も根強い。英語圏では全集などに『ドラキュラ』を入れるときに強く反対する編集委員もかつていたらしい。その理由が以上書いたようなエンターテイメント性偏重の小説の調子にあるのだと考えられる。

 ストーカーが、書簡小説の形式にこだわって執筆した理由もわかる。なぜなら、この小説は構造としても面白みがあるからだ。まず、ジョナサン・ハーカーというドラキュラ伯爵から「この男は私のものだ!」と毒牙にかけられた男の日記からこの小説は始まる。散々な目にハーカーは遭いまくるわけだが、ハーカーには記録癖があるようでその様子を事細かに記すのだ。そして、物語はドラキュラ伯爵の悪辣な行いが次々に描かれ、その悪に立ち向かおうとするヘルシング教授率いる主人公たちが伯爵に対峙するきっかけであり最初の切り札となるのが、最初に出てきたハーカーの日記となる。書簡小説ならではの入れ子構造によって冒険を演出するこの手法はシンプルでありながら、だからこそ有効に読者に働きかける。それ以外にも伯爵の脅威への研究の進展として、書簡小説として書かれてきたその書簡そのものが材料になるという展開は数多く起こる。この構造は、小説『ドラキュラ』が物語が展開していく面白さの本質ともなっている。

締めくくりに代えて、ブックレビュー

 水声社『ドラキュラ 完訳詳注版』は、自分のように吸血鬼を勉強したいだとか、当時の怪異小説の金字塔を深く知りたいだとか、目的意識の大小はあれど、研究のために手に取る人が多いのではないかと思う。しかし、私はすっかり物語として『ドラキュラ』を楽しみ、吸血鬼にまつわるホラーをしっかり体験した。たしかに注釈は細かく、翻訳も忠実がゆえに平易な言い回しは少ないかもしれない。それなのに小説の面白さ、物語の素晴らしさを一切邪魔することはなかった。間違いなく小説『ドラキュラ』としては決定版として問題ない。

 前章に書いたように、物語の破綻があるゆえに注釈で指摘している箇所がいくつかある。指摘するのはもちろん注釈の役目であるから構わないのだけれど、「本当は深い信心があると描写されているのにこれでは彼は罰当たりになってしまう」というような、所謂「物語にツッコミを入れる」かのような注釈もちらほらある。これはなんというか、ブラム・ストーカーが可哀想だな、と思ってしまうので辞めてあげて欲しかった。それに、注釈者は研究者だからか、自分の研究範囲なのか、ヴィクトリア朝におけるフェミニズムや男女論に偏った解説も多く目に付いた。勉強になるにはなるが、翻訳者や注釈、解説の自己主張が気になるという人はあまり水声社版を読むのに向いてないかもしれない。これは私の価値観であるが、解説や注釈がメインの書籍でないかぎり、自己を抑えて平らかな視点で解説や注釈が為されているほうが良いように思う。

 以上が、私が水声社版『ドラキュラ』を読んで、考えたこと、感じたことだ。

 これからも私はコンテンツ化された吸血鬼を消費し続けるだろう。それが決して成功者として輝かしい人生を送ることの出来なかったブラム・ストーカーの望んだことなのかどうかはわからないけれど、ブラム・ストーカーのおかげで私の心のよりどころとなっている吸血鬼キャラクターたちが現代に息づいていることには、より一層の感謝と畏敬の念が深まったところである。

ぽんぽこ24を見よう

www.youtube.com

 ぽんぽこ24を見て欲しい。

 かえみとは“ガチ”勢も、くろのわは”ある”勢も、さんばかかわいいね、るるちゃんかわいいね、葛葉かわいいね、してる人もみんな

 船長ぺこちゃんころさんおもしろいかわいいすごい!してる人もみんな

 ほんの一瞬でもVtuberを見て楽しく感じた経験がある人はみんな

 ぽんぽこ24を見て欲しい。

 

 「絵つけてゲームしてるだけじゃん」

 「カオナシが貢いでてウケる」

 「中身のないもんにだまされて金払ってる盲信者」

 そういうことばを受けて、ちょっとでも腹が立った人

 言い返したいのに言い返す言葉が見つからなかった人

 みんなぽんぽこ24見て欲しい

 

 ちょっとでもVtuberを見て楽しい気持ちになった人

 その楽しさはどんな世界に生きるどんな人たちが作ったものなのか、ぽんぽこ24を見れば分かる。

 

 24時間で、Vtuberの世界がいったいどういうものなのか、それがわかる

 だから、アーカイブで追ってでも24時間分見て欲しい。

 

 いや、24時間見なくて良い。

 推しが出るその枠の前後の枠を両方、CM込みで見て欲しい。

 それで「Vtuberって結局なんなんだ?」っていうことの一端が分かる。

 24時間見れば全部分かる。

 

 「Vtuberって結局なんなんだ?」

 言葉を尽くせば、きっと説明できるだろう。

 そんなことよりぽんぽこ24を見れば、感覚で分かる。

 「肉じゃがってどんな味がするの?」

 言葉を尽くせば、きっと説明が出来るけど

 食べた方が早い。

 https://twitter.com/ponpokoka/status/1389485285533118472?s=20

 だから、ぽんぽこ24を見よう。

 きっと楽しい24時間になる。

 

 

 

 

https://twitter.com/ponpokoka/status/1389485285533118472?s=20

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『チョコレートドーナツ』を見た

恋愛映画見たいんだよね〜って話してるのにこの映画勧める人が友達でよかった。ただ俺以外にはしないほうがいいですね。

この映画はゲイの話だし、差別の話だし、障害者の話だし、教育の話だし、法の話として作られているんだけど、俺は全然そうじゃないと思った。

愛し合う2人が現実的に出会って、愛されるべき子と出会って、世界の予め持って生まれた歪みに抵抗していく話に観れた。

おかしいのは世界の方であって、主人公もその恋人も、その子も、何もおかしくない。

世界にその恋人たちはゲイと名付けられ、その子は障害者と名付けられただけ。そういう風にしか観れなかった。

それくらい、恋人同士の愛し合う時間も、恋人たちが自分の子と触れ合う時間も当たり前にあるべき幸せとしてこの映画では描かれている。

だから俺は、この現実を基としたお話の結末があまりにも残酷だったのは、当たり前のことのように思えたから、一切悲しくなかったし、泣かなかった。現実の世界が最初からバグってて、この世界は不幸なことがほとんどだって俺は知ってるから。彼が悲惨な結末に至ったのは、俺にとっては当たり前のことで、悲惨なのがこの世界だから。

だから俺は、恋人の愛し合う時間、想いを通わせる瞬間、その子に与えられた幸福、少しの良い人たちとの出会い、それによって第三者が心動かされた奇跡に感動した。恋人と、その子が過ごす何気ない幸福な時間として描かれた序盤の場面にこそ、涙が出た。それはもしかしたらこの世界がおかしくて、彼らが今後どんな目に遭うかが目に見えていたからかもしれない。失われることがわかっている幸福が一番悲しくて、涙が出てしまうのかもしれない。

その何気ない時間が現れているのが、この映画の表題の「チョコレートドーナツ」なんだろう。チョコレートに浸されたドーナツはジャンクな食べ物だけれど、太って背の小さくダウン症を持って生まれてきた恋人の子の大好物で、本当に幸福そうにチョコレートドーナツを頬張るのだ。

詳しくは調べていないけど、この障害児を演じた俳優もまた、障害者であるらしい。演技のことが疎い俺にもわかるくらい素晴らしい演技で、幸福な時の幸せな演技、悲しい時の悲しい演技はしっかりと鑑賞者の心に響く。

そして主人公であるドラァグクイーンの俳優もキャラが立っていて、気持ちよく観られる演技をしていて素晴らしかった。底辺を彷徨うゲイバーのオカマとして描くにはあまりにもカッコ良すぎる気はするけれど、それでも彼の不精な青髭は役柄にぴったりだった。

この映画を観たら、きっと多くの人はゲイへの不理解、障害者への不理解に想いを馳せるんだろうと思われる。

でも俺は、そんなことはどうでも良いんじゃないかと考えてしまう。

幸福であるべきはずだった恋人と、幸福であるべきだった障害者が、当たり前に世界の歪みに壊されてしまう。ただそれだけの映画であり、失われるであろう幸福の儚さと、失われるからこそ何よりも尊く見えるその幸福な時間を、現実にいた彼らが送ったその時間を少しでも我々が共有することができる。そのためのフィルムだと、俺はそう思う。

『アバウト・タイム』を見た

世話になった先輩というものは誰しもの人生にいて、誰しもが時折そういう人と再会しながら人生を送っていく。

ある日俺もその1人だった。

人生の過程や変遷などを交換しあって、自分がその交換に差し出せるもののなさにうんざりしながら、最近恋愛についてのお話を書くことが多いと話した。

その先輩は昔から映画が好きで、最近は殊更よく映画を見るという。それで勧められたのがこの『アバウト・タイム』だった

その先輩と会った日は、大量の同人誌を捨てたすぐ後だったらしく、かたや俺といえば人生で一番オタクしとるなという実感があり、俺から話せることといえば俺がオタクとしてどんなことをしてたりしてなかったりしかなかった俺としては時間の経過などを感じたものだった。

先輩は結婚をして、新しい仕事のための勉強を頑張り、日々を着実に生きていて、「ぽれは・・・」となったもんだったが、この『アバウト・タイム』はまさにその日々の幸せについて描かれた作品に思える。

主人公の人生は決して劇的なものではない。

はじめ、主人公は恋愛に対しての屈託はあるものの、自身の持つタイムリープ能力によって人生を好転させていく。

しかし決してこの映画で「タイムラインのねじれによる矛盾」や「自分の人生を好くしてしまったことから起こる逃れられない大きな災禍」などは起こらない。

最近読んでるものがそこそこハードめなSFだったから主人公のタイムリープが明かされた直後は折角好転した主人公の人生が覆ってしまうんじゃないかとヒヤヒヤしたけど、そんな心配はこの映画にはどうやら不要だった。

この映画は小さな幸せについての話だ。

誰しもに起こりうる日々の小さな幸せについて描かれている。家族、恋人、友人。その人たちとのなんの変哲のない楽しい出来ごとたちを謳歌して行こう、とこの映画は言う。

でも、それではつまらない。映画は物語であり、物語には高低差や劇的な展開がどうしても望まれる。

しかしながら、この映画は面白い。それの理由としてあるのが、テンポの良さだ。

それほど凝ったユーモアではないのに、ふとしたセリフの応酬で思わず笑ってしまう。それは会話のテンポによる快感から来るものであり、この映画は2時間最初から最後まで物語が気持ちよく展開されていく。

人は物語が展開していくこと自体に快感を感じる。冗長な長編小説を読んでも、それを読み切れば人は多大な達成感を得る。

たった2時間の映画でその快感を感じさせるのは、やはり監督や脚本や演出の技量の高さによるものだ。俳優の演技も自然でうまかったと思うが、演技については不得手なので語ることはできない。

ヒット作を数々生み出してきた監督の技量というものに、圧倒された2時間だった。

セリフのユーモアをリズム感で分からされるこの映画だからこそ、本来つまらないはずの「日々を生きる人の小さな幸せ」がどれほど尊いものなのかを伝えることに成功している。それに、タイムリープを味付けとして使うことで、本来過ごしているはずの何の変哲もない生活が本当はどれほど大事なものなのかもよく伝わってくる。

「時間改変を使った恋愛もの」という触れ込みからして観ると、この映画は拍子抜けして肩透かしを喰らう感はあるだろう。

でもその拍子抜けは「なあんだ」という安心であり、決して不快なものではない。

「なんだ、これでいいんだ」と主人公の人生を観て思わされることは観る人にとっての癒しになる。

目にも鮮やかな登場人物の衣装や、少しくすんでいるカラフルな古い車、夢に見るような田舎町として描かれるコーンウォールの風景。主人公たちが訪れるカフェのテラスや、かわいい店の外観などもその拍子抜けによる安心感ととてもマッチしている。

ただ、この映画を俺に勧めた人たちは2組いる。

2組。なぜその表し方になるのかというと、それは2組とも俺と同年代の夫婦だからであり、しかも2組ともこの映画は夫婦2人で観たのだと言う。

2組の夫婦、つまりは4人な訳だが、俺はその4人ともをそれぞれに知っていて、その夫婦が夫婦足りえたとき俺は心から祝福した2人なのだ。

かたや、俺はアマゾンプライムで1人iPadでこの映画を観た。もし独り身の人がこの映画を観た後、現実に帰ってきて沸き上がりそうになる虚無感を抑えられる人にはこの映画は勧められるだろう。

俺は今ちょうど、この文章を書いてその虚無感を押さえつけようとしているところだ。

『私の少年』レビュー|テーマ:キャラクターデザイン=ストーリーテリング

 誰しもの心には推している漫画というのがある。

 漫画が好きだといいつつ最近は全然「読めている」なんて全然言えもしない近況であるので、推している漫画が完結をして綺麗に刊行を終えるということは自分にとっては稀だし、希少だということは書き残しておきたいという意志につながる。色違いのポケモンを逃がすやつはいない。

作品概要

webaction.jp

 俺は作品の要約が苦手で、どこまで書けばいいのか見当も付かなくなることが多い。なのでできるだけ雑に書こうと思う。

 主人公・多和田聡子は物語開始時点で30歳の大手スポーツ会社のバリキャリ。多忙な日々の中、12歳美少年・早見真修が夜中に公園で1人サッカーボールを蹴っているところに出会い、お互いに惹かれあっていく。

 この2人の関係を丁寧に描いていく漫画がこの作品だ。

 最終巻において聡子は35~6歳、真修は17~8歳となるので、男女としての関係(注1:恋愛よりも大きい概念での関係とする)を物語上で成立させるには十分常識的なラインだけれど、30歳と12歳との男女関係(注1)となると一気に作品としてはセンセーショナルな色を帯びてくるのは、なんだか創作倫理的にも不思議なものだなあ。

 人生においても、30歳と12歳では速さも鮮やかさも大きなギャップがある。聡子が同じ会社で5~6年勤めてもせいぜい異動があるくらいで、見た目だって、こと女性であるならメイクやスタイリングで30歳と35歳の差異をなくすことは技術的に十分可能だ。もちろん、女性に直接こんなこといったら怒られて当然だけれど、それほどまでに女性のメイクやスタイリング技術のカバー力は計り知れないものがあるということだ。

 しかし、12歳から17歳となると、小学校、中学校と卒業し高校生になってしまう。青春ということばの青。古くから日本で青とは色鮮やかな新緑を指すことばでもあり、その葉の色はたった一年間で目まぐるしく変わってゆく。まあそういうことだ。分かるでしょ。

 その人生に於いて彩度の違い。そしてその色が変わっていくスピードの違い。そんなギャップが聡子視点と真修視点で交互に描かれる。大人の固く確かな世界と、子どものやわらかく移ろいやすい世界。同じ世界にいるはずなのにこんなに差があるんだ、ということが上手く表現されている。

 そういうお話。

登場人物について

 聡子と真修の2人以外のキャラクター。

 彼/彼女たちは2人の関係を描く重要な装置として大いに働く。

 まず、聡子の元カレである椎川文貴。聡子の大学の先輩だが、同じ会社に勤める上司でもある椎川主任。大手だとこういうことも起こるんだろうけど、本当に最悪だと思う。高学歴者の人生唯一の欠点では?彼は完全にこの物語におけるヒールとして大いに働いてくれる。時に主人公に襲い掛かる現実感極まりない不快感を催す根源として、ときに読者をスカッとさせてくれる情けない男として。「いやいや椎川主任にも色々あってさ」なんてことが描かれてはいるが、安心して欲しい、彼に読者が同情することはまずないと思う。俺はこういう情けなく性格の悪い男が好きなのでヒールとしての完成度が高くて嬉しかった。

 この作品は先述したとおり、聡子と真修の視点が交互に描かれる。つまり、それぞれの視点は対となっている事柄も多い。

 椎川主任と対になる存在、それが真修視点における、真修の幼馴染の女の子、小片菜緒だ。椎川主任の対なので、めちゃくちゃに純真な少女だ。たとえばアイドルアニメがあれば、彼女は主人公になるだろう。そういう「どこにでもいる何の変哲もないかわいらしい女の子」それが小片菜緒だ。逆に言えば、椎川主任とちがって現実にはこんな女の子絶対居なさそうであるとも言える。きみの身近に「どこにでもいる(以下略)女の子」である島村卯月はいるか?彼女は真修に恋をしている。そう、負けヒロインである。なんかかわいそうだけど1巻から完全にそうだったのでこれはネタバレでさえないと思う。もし最後真修と菜緒が結ばれてこの漫画が終わってたら俺は発狂してたと思う。彼女の成長も真修とともに描かれていく。

 「12歳少年と30歳女性の恋愛漫画」という触れ込みでこの漫画は広まったが、少し漫画を読みすぎている人なら、どうしても物語展開上2人の進展と障壁となる事柄が多すぎて閉塞状態になることは読む前から予想が付くと思う。なんたって聡子はバリキャリ常識人なので、葛藤に葛藤を重ねていくことになるんだけども、現実なら「うおおなんで自分は動けないんだ!と考えているうちに完全に動けなくなることに成功!」となること請け合いだ。

 その閉塞状態を打ち破る装置として投入されるのが、自由人として描かれる聡子の妹、多和田真由子である。友達に実際居たらめっちゃ心強いやろうな~!となるタイプだが、俺の周りにもお前の周りのもそんなやつはいない。動けなくなったら動けないまま我々の人生は終了していく。

 他にも、当然青少年保護条例的な障壁として真修のリアル保護者である真修の父親・速見元樹も描かれる。弱い大人、というか弱いおっさんという感じだ。弱いと言うのは気が弱いのではなく、物語上での弱者を指す。物語上では物語を推し進める力がある者が強く、物語を推し進める力なんてなさそうな疲労した大人は必然的に弱くなる。現実感があればあるほど、その人物は弱くなる。なぜなら物語とは、現実ではないので。

 描写が為される主な主人公たち以外のキャラクターはこんな感じだと思う。

 俺が、この作品の最も優れている点であると信じて止まない点が、この人物描写にある。

 人が物語を考える時、通常「起承転結」や「見せ場」や「オチ」を意識せざるを得ないと思う。当然この作品もそれらの要件を織り交ぜて制作されたんだとは思うけれども、俺には全くそれを感じさせなかった。そこに感動する。

 どういうことか。

キャラクターを形成する行為そのものが物語になる

 作者はたいていの場合自分の作ったキャラクターとひたすら向き合いながら作品を作っていく。されと同時並行して物語を展開させていかなければならないわけだが、「私の少年」において後者・物語の展開に作者の恣意を感じさせない。

 「作者が物語を展開させる意志がないわけないだろ!現にこの作品はきっちり物語は進むべきところまで進んだじゃないか!」と言い返すことはできるが、俺には本当にそういう意志が感じられなくて、そこがいたく感じ入るところだった。

 読書の感触として俺にあったのは、「ただキャラクターたちが発話し、葛藤し、コミュニケーションをしていく」という感触のみである。そこに物語的意志、作者の恣意が感じられない。本当にこの本の中に人物が息づいていて、本当に真に迫って悩んでいる。そんな感触があった。

 キャラクターたちの性格、思考パターン、コミュニケーションのみがそこにはある。それらが絡み合って、自然と物語が形成されていく。その自然さのあまり、作者の物語形成の恣意が感じられないと言う現象が起こってるように思えた。

 その要因として考えられるのが、作者とその作者が自ら生み出したキャラクターの距離だ。まつげが触れてしまいそうになるまで作者の眼前までギリギリまで迫って、自分のキャラクターと向き合う。「彼/彼女はいったいどう考えるだろう?」それをひたすら追い続けることへの執着。そんなものがあるような気がしてならない。

 「生まれ持った性質としてお互いに惹かれあう聡子と真修は、どのようにして関係を深めていくのだろう?」それを追っていくうちに現れる数々の障壁。30歳と12歳という倫理的な問題。2人の感じる時間のギャップ。2人がどんなに葛藤しても、コミュニケーションを重ねても、そのほか数々の障壁が2人の前に立ちはだかる。

 その障壁を越えるために作者は物語を展開させるのが普通だ。事件を立ち上げ、問題を展開させ、歴史を語り、オチをつける。しかし、「私の少年」において障壁を越えるために投入される装置は、作者の恣意ではなく、新たな登場人物だ。

 椎川主任が聡子を怒らせる、菜緒の思いがすれ違う、真由子が2人の背中をバン!と叩く、元樹が子の成長に気付く。キャラクターたちの自然な振る舞いが、聡子と真修の関係を進展させていく。そこに、作者の「2人の関係を進展させよう」という意志が、俺にはどうしても感じられない。なぜなら、2人の関係を進展させたのは、作者ではなくキャラクターたちだからだ。

 「頭の中で勝手にキャラクターたちが動くから、話を考える必要がない」

 これは、天才が言いそうな理想として挙げられる創作論のひとつだ。

 この「私の少年」は俺のなかでその理想に最も近い作品だった。

 しかし、決してそこに天才の飄々とした創作の姿は浮かばない。

 俺の眼に浮かぶのは、作者がひたすらに自分のキャラクターと向き合い、愛し、悲しみ、喜びを分かち合う行為に徹して筆を走らせる。そんな姿だ。

余談(ネタバレを含みます)

 恋愛作品は「誰が誰といったいどうなるのか」、最後までわからない。

 いちご100%しかり、俺妹しかり、俺ガイルしかり、だ。

 この作品は決してハーレム物ではないから、上記の作品のようなハラハラはないのに、「私の少年」において俺はハラハラしていた。

 それは「どこまで描くの!?」というハラハラだ。

 キスすんの!?付き合うの!?結婚すんの!?朝チュン的な……そういうことは起こるの!?というハラハラ。というか期待。願い。祈り。描いてくれ!という叫びでもある。

 そして俺の暗い祈りが神に届くことはなかったので、やはり神は居ない。

 最終巻まで読了し、パタと本を閉じ、しばらく目を瞑った後、俺はタバコに火を点けた。

 「描いてほしかった……」読了直後どうしてもそう思ってしまったが、この作品は最初「30歳と12歳の禁断の恋愛」という下世話な触れ込みのもと広まったが、途中から「2人がどうやって正常な手段でハードルを越えていくのか」という方向にシフトしていった。タバコの煙を肺に吸い込むと、気付いた。下世話だったのは俺だったんだな、と。

 冷静になると、当たり前の話なのだ。2人が完全に正常な手段を踏んで結ばれるには、物語時間においてあと数年は必要だ。その数年、2人はきっと物語終盤のような穏やかな日々を送り、毅然とした態度で障壁を越えていくのだろう。聡子が菜緒に意志をはっきり伝えた時点でそれは分かっていた。

 残念ながら、嵐のような日々を描いてしまったあと、後数巻にわたって穏やかな日々を物語として描くの難しい。物語における凹凸のリズムは一定の高低であることが望まれる。俺は吸い込んだ煙を吐き出した。この作品はしっかり描ききられていて、俺が望んでいるものは余分である、そう確信した。

 お願いします、恋愛群像物によくある各キャラクターの後日談をまとめた短編集を出してください。お願いします。

Vtuberはガワをかぶった生主[ナマヌシ]で良いということ

古き王たちの言葉、小さき人の言葉

 彼は言った、「絵畜生」と。

 この言葉は

「絵のガワをかぶって身も削らないただの生主がVtuberだのなんだの名乗って持ち上げてる側も滑稽だぜ」

 という話だと解釈している。

 彼の言い分はいつも彼の姿勢とともなって、反論の余地はなく、人の耳に気持ちよく入っていく。

 俺も彼の言い分に反論できるものは持ち合わせていない、と感じる。

 

 2020年、5月末日、棄民の王とみられる男は彼のもとを去ろうというVtuberとの「話し合い」の末、「これがあなたがやろうとしているV界隈の現実ですよ」と言って大手企業が所属Vtuberたちに対し「犯人探し」をしているメールの文面をつまびらかにした。

 さらに棄民の王は続けた。

「雑談だのキャスだのバラエティ番組の三番煎じにもならない企画で投げ銭集めて今後は楽しく暮らしていってください」と。

 その言葉から俺が感じたものは、彼の失望だった。「こんな陳腐な世界になってしまうなんて」という。

 意図的な悪意をもってメールの文面を突如リークするという行為は、彼の失望からの怒りであったようにも思えた。

 俺にとって彼の失望も怒りも、理解が出来て心が痛かった。

 

 2020年、6月初め、故の知らぬ1人の男が綴った文章が拡散した。

 故の知れぬ男は言った。

「1時間Vtuberを見る時間を、古い映画や古い本を読むことに費やした方がよっぽど有意義だ」と。

 2020年6月現在のVtuber界を指して、彼は「リアリティーショー」と言って、その現状の陳腐さをあらわした。

 3Dキャプチャやバ美肉などが躍り狂い、新たな試みが繰り返されたかくも華々しい「四天王時代」への郷愁は、棄民の王の失望と似通る部分が感じられた。

 故の知れぬ男の文章は筋が通っていて、魅力的で、良くも悪くも、読んだ人間の心を掴むものだった。

 

ガワとは、絵とは

 彼ら3人の言葉に、俺は反論できない。彼らの感じるVtuber界隈への悪感情は、正しいもののように思える。

 ただ、彼らの言葉に共通して、1つだけ俺は疑問がある。

「なぜそんなに『絵』を軽視できるのか?」

 ということだ。

 

 彼らの言葉には共通して、

Vtuberってニコ生主・実況主が絵のガワをかぶって、昔と同じような下らないことを繰り返してるだけじゃん」

 という批判があるように思える。

 その批判自体は、俺自身が抱いていた「ニコ生・実況主界隈の下らなさ」への憎しみもあって、かなり共感できるものだ。

 でも「絵のガワをかぶって」の部分。

 これが批判の言葉・嘲りとして使われている意味が俺にはわからない。

 

 俺は、学生時代、教室で同級生たちが繰り広げられるマジで最悪な番組やマジでクソみたいな芸能人たちの話への、無根拠な憎しみの遣り場を持ち合わせていなかった。

 俺はそうして、漫画の世界に逃げ出して、アニメの世界に浸かって、ゲームの世界に光を見出して、今Vtuberの世界にいる。

 「現実の人」に嫌気がさして「絵のついた人」に逃げ出した。

 「絵の世界」は俺にいつも充足をもたらしてくれた。「絵の世界」にこそ俺の求めるものがすべてあった。

 みんながそうじゃないだろう。

 でも、「リアル」と「オタク」はいつも対なる存在として扱われる。リアルへの憎しみなく、オタクの世界に足を踏み入れた者も、リアルを対なるものとして認識しているのではないか。

 

 俺がかつて持っていた「生主・実況主界隈への憎しみ」も、結局「リアルな人間がやっていること」だからクソくだらないように見えていたんだろう。

 でも、Vtuberという「絵」がつくだけで、こんなにも楽しい世界だったんだ、という気付きがあった。

 だから、最近俺は実況主のゲーム実況を見るようになった。

Vtuberと同じことをしているなら、ゲーム実況だって面白いんじゃないか」

 という安直な考えからだ。

 俺はそこで、驚いたことがあった。

 あるゲーム実況主がリアルに失恋をして、泣きながらofficial髭男dandismの「Pretender」を歌うという切抜きを見たときだ。

 その実況主は、歌いながら「そうだよなあ」「あの時言えたらなんか変わってたのかなあ、でも言えないんだよなあ」とか言っていたのだけれど、急に「なんだこの歌詞は」「くだらねえ」と言い始めた。仕舞いには「俺は髭男のアンチになるわクソが」と言い放ってその切抜きは終わっていた。

 それは「男の情けなさ・馬鹿馬鹿しさ」を笑うためのものだったのだろう。

 でも、俺はその切抜きにいたく感動した。

 そこには、俺が求めていた「男性のもつ馬鹿馬鹿しい慟哭」そのものがあったからだ。

 俺は驚いた。

「実況主でこんな真に迫る男の馬鹿馬鹿しい感情に出会えるなんて」と。

 その感動は、今まで俺が漫画やアニメやゲームやVtuberで感じた「人間の真に迫る感情の発露」と全く同じ性質のものだった。

 そのとき、俺が持っていた「生主・実況主界隈の下らなさ」という悪感情は吹き飛んだ。

 

 この話は共感を得られるようなものではないだろう。

 だけど、この話で俺が伝えたかったことは、「Vtuberから入って、遡上して生主・実況主界隈の良さに気付く者もいる」ということだ。

 変な話、Vtuberを追ううちにその「魂」に触れた結果、もっとその人を好きになった人もだろう、ということだ。もちろん嫌いになることもあるだろうけれど。

 

 それも、Vtuberの「絵」がなければ有り得なかったことだ。Vtuberが「絵のガワをかぶった生主・実況主」だからこそ、その逆流が起こり得た。

「絵のガワかぶっただけなんだからVtuberなんて生主や実況主といっしょ」ではない、と俺はハッキリと言える。

「生主や実況主が絵のガワをかぶっているおかげで、俺は生主や実況主の活動を見ることができる」からだ。

 むしろ、「生主や実況主はみんな絵のガワをかぶってくれ」とさえ願っている。

 

 そもそも、「ガワ」と言ってさもバカにしたような表現を使ってしまっているが、それは便宜的な話で、俺は「ガワ」と呼びたくなんてない。

 なぜなら、その「ガワ」にはキャラデザに係わった者たちの技術の粋と、膨大な手間と時間が込められているからだ。所謂「ママ」呼ばれる者たち、そして運営スタッフや各々のマネージャーたちその他。色んな人たちがその「ガワ」を作り上げるために尽力をしている。

 アニメだってマンガだってゲームだってそうだ。

 初めは現実では有り得ない冒険や活劇をさせるために生まれた「絵」たちは、俺たちの生きる現実とさも変わらないような世界で動くようになって行った。昔はなかった「日常系」なんて言葉が聞き飽きるくらいには。

 現実のさも変わらない世界で動く「絵」に、俺たちは感動してきたんじゃなかったか?

 自己投影や補完のために、感動として「絵」を消費してきたと言われればそれまでだが、「絵」が為す手の動き1つ1つに、ありもしない心の機微を見出して俺たちは「絵」に心奪われてきたんじゃないのか?

 なのに、今更「所詮絵じゃん」なんて言われただけでなんで俺たちは傷つかなければならないんだ?

 最初から俺たちはその「絵」にこそ魅入られていたんじゃないのか?

 

 最初から「絵」になんて興味ない人には、当てはまるだろう、その「所詮絵じゃん」という言葉は。

 でも、初めから「絵」を愛しているのに、「所詮絵じゃん」って言われて、傷つかないで欲しい。お願いだから。

 

 俺は、Vtuberは「ガワをかぶった生主・実況主」で良いと、そう思っている。

 なぜなら、その「ガワ」が何かをするたびに、感動できるのだから。