古き王たちの言葉、小さき人の言葉
彼は言った、「絵畜生」と。
この言葉は
「絵のガワをかぶって身も削らないただの生主がVtuberだのなんだの名乗って持ち上げてる側も滑稽だぜ」
という話だと解釈している。
彼の言い分はいつも彼の姿勢とともなって、反論の余地はなく、人の耳に気持ちよく入っていく。
俺も彼の言い分に反論できるものは持ち合わせていない、と感じる。
2020年、5月末日、棄民の王とみられる男は彼のもとを去ろうというVtuberとの「話し合い」の末、「これがあなたがやろうとしているV界隈の現実ですよ」と言って大手企業が所属Vtuberたちに対し「犯人探し」をしているメールの文面をつまびらかにした。
さらに棄民の王は続けた。
「雑談だのキャスだのバラエティ番組の三番煎じにもならない企画で投げ銭集めて今後は楽しく暮らしていってください」と。
その言葉から俺が感じたものは、彼の失望だった。「こんな陳腐な世界になってしまうなんて」という。
意図的な悪意をもってメールの文面を突如リークするという行為は、彼の失望からの怒りであったようにも思えた。
俺にとって彼の失望も怒りも、理解が出来て心が痛かった。
2020年、6月初め、故の知らぬ1人の男が綴った文章が拡散した。
故の知れぬ男は言った。
「1時間Vtuberを見る時間を、古い映画や古い本を読むことに費やした方がよっぽど有意義だ」と。
2020年6月現在のVtuber界を指して、彼は「リアリティーショー」と言って、その現状の陳腐さをあらわした。
3Dキャプチャやバ美肉などが躍り狂い、新たな試みが繰り返されたかくも華々しい「四天王時代」への郷愁は、棄民の王の失望と似通る部分が感じられた。
故の知れぬ男の文章は筋が通っていて、魅力的で、良くも悪くも、読んだ人間の心を掴むものだった。
ガワとは、絵とは
彼ら3人の言葉に、俺は反論できない。彼らの感じるVtuber界隈への悪感情は、正しいもののように思える。
ただ、彼らの言葉に共通して、1つだけ俺は疑問がある。
「なぜそんなに『絵』を軽視できるのか?」
ということだ。
彼らの言葉には共通して、
「Vtuberってニコ生主・実況主が絵のガワをかぶって、昔と同じような下らないことを繰り返してるだけじゃん」
という批判があるように思える。
その批判自体は、俺自身が抱いていた「ニコ生・実況主界隈の下らなさ」への憎しみもあって、かなり共感できるものだ。
でも「絵のガワをかぶって」の部分。
これが批判の言葉・嘲りとして使われている意味が俺にはわからない。
俺は、学生時代、教室で同級生たちが繰り広げられるマジで最悪な番組やマジでクソみたいな芸能人たちの話への、無根拠な憎しみの遣り場を持ち合わせていなかった。
俺はそうして、漫画の世界に逃げ出して、アニメの世界に浸かって、ゲームの世界に光を見出して、今Vtuberの世界にいる。
「現実の人」に嫌気がさして「絵のついた人」に逃げ出した。
「絵の世界」は俺にいつも充足をもたらしてくれた。「絵の世界」にこそ俺の求めるものがすべてあった。
みんながそうじゃないだろう。
でも、「リアル」と「オタク」はいつも対なる存在として扱われる。リアルへの憎しみなく、オタクの世界に足を踏み入れた者も、リアルを対なるものとして認識しているのではないか。
俺がかつて持っていた「生主・実況主界隈への憎しみ」も、結局「リアルな人間がやっていること」だからクソくだらないように見えていたんだろう。
でも、Vtuberという「絵」がつくだけで、こんなにも楽しい世界だったんだ、という気付きがあった。
だから、最近俺は実況主のゲーム実況を見るようになった。
「Vtuberと同じことをしているなら、ゲーム実況だって面白いんじゃないか」
という安直な考えからだ。
俺はそこで、驚いたことがあった。
あるゲーム実況主がリアルに失恋をして、泣きながらofficial髭男dandismの「Pretender」を歌うという切抜きを見たときだ。
その実況主は、歌いながら「そうだよなあ」「あの時言えたらなんか変わってたのかなあ、でも言えないんだよなあ」とか言っていたのだけれど、急に「なんだこの歌詞は」「くだらねえ」と言い始めた。仕舞いには「俺は髭男のアンチになるわクソが」と言い放ってその切抜きは終わっていた。
それは「男の情けなさ・馬鹿馬鹿しさ」を笑うためのものだったのだろう。
でも、俺はその切抜きにいたく感動した。
そこには、俺が求めていた「男性のもつ馬鹿馬鹿しい慟哭」そのものがあったからだ。
俺は驚いた。
「実況主でこんな真に迫る男の馬鹿馬鹿しい感情に出会えるなんて」と。
その感動は、今まで俺が漫画やアニメやゲームやVtuberで感じた「人間の真に迫る感情の発露」と全く同じ性質のものだった。
そのとき、俺が持っていた「生主・実況主界隈の下らなさ」という悪感情は吹き飛んだ。
この話は共感を得られるようなものではないだろう。
だけど、この話で俺が伝えたかったことは、「Vtuberから入って、遡上して生主・実況主界隈の良さに気付く者もいる」ということだ。
変な話、Vtuberを追ううちにその「魂」に触れた結果、もっとその人を好きになった人もだろう、ということだ。もちろん嫌いになることもあるだろうけれど。
それも、Vtuberの「絵」がなければ有り得なかったことだ。Vtuberが「絵のガワをかぶった生主・実況主」だからこそ、その逆流が起こり得た。
「絵のガワかぶっただけなんだからVtuberなんて生主や実況主といっしょ」ではない、と俺はハッキリと言える。
「生主や実況主が絵のガワをかぶっているおかげで、俺は生主や実況主の活動を見ることができる」からだ。
むしろ、「生主や実況主はみんな絵のガワをかぶってくれ」とさえ願っている。
そもそも、「ガワ」と言ってさもバカにしたような表現を使ってしまっているが、それは便宜的な話で、俺は「ガワ」と呼びたくなんてない。
なぜなら、その「ガワ」にはキャラデザに係わった者たちの技術の粋と、膨大な手間と時間が込められているからだ。所謂「ママ」呼ばれる者たち、そして運営スタッフや各々のマネージャーたちその他。色んな人たちがその「ガワ」を作り上げるために尽力をしている。
アニメだってマンガだってゲームだってそうだ。
初めは現実では有り得ない冒険や活劇をさせるために生まれた「絵」たちは、俺たちの生きる現実とさも変わらないような世界で動くようになって行った。昔はなかった「日常系」なんて言葉が聞き飽きるくらいには。
現実のさも変わらない世界で動く「絵」に、俺たちは感動してきたんじゃなかったか?
自己投影や補完のために、感動として「絵」を消費してきたと言われればそれまでだが、「絵」が為す手の動き1つ1つに、ありもしない心の機微を見出して俺たちは「絵」に心奪われてきたんじゃないのか?
なのに、今更「所詮絵じゃん」なんて言われただけでなんで俺たちは傷つかなければならないんだ?
最初から俺たちはその「絵」にこそ魅入られていたんじゃないのか?
最初から「絵」になんて興味ない人には、当てはまるだろう、その「所詮絵じゃん」という言葉は。
でも、初めから「絵」を愛しているのに、「所詮絵じゃん」って言われて、傷つかないで欲しい。お願いだから。
俺は、Vtuberは「ガワをかぶった生主・実況主」で良いと、そう思っている。
なぜなら、その「ガワ」が何かをするたびに、感動できるのだから。