キャラ属性としての「吸血鬼」を、ブラム・ストーカー『ドラキュラ』から見る。‐水声社『ドラキュラ 完訳詳注版』を読んで‐

 吸血鬼は今や、キャラクターコンテンツにおける属性として大きな存在感がある。その大きさたるや、オタクを自認しない老若男女みんな吸血鬼に対して「かっこいい」「ミステリアス」「セクシー」と感じている人も少なくないほどだ。

 ブラム・ストーカーの著した『ドラキュラ』における吸血鬼――ドラキュラ伯爵――が、現代の吸血鬼への印象を形作った起点となっているのは当然としても、ドラキュラ伯爵は現代における吸血鬼のイメージからするとかなりクラシックにすぎる印象がある。

 小説『ドラキュラ』に書かれた吸血鬼の規則や振る舞いが、時代が進むにつれキャラクターコンテンツが発展するに従って普遍化していった。「日の光を苦手とする」ことが、「引きこもってばかりで色白痩せぎす」であることの理由となったり、「人血を栄養とし、首元に噛み付いて血を吸う」ことが、ロマンティックな、またはエロティックな行為として描かれていった。

 そのような解釈が積み重ねられて、ドラキュラ伯爵と現代の吸血鬼とのギャップが生まれている。だからこそ、日々吸血鬼コンテンツに触れていると疑問に思うことがあった。「この吸血鬼キャラは、吸血鬼としてどのくらい忠実なんだろうか?」

 別にその吸血鬼キャラが、ドラキュラ伯爵、または小説『ドラキュラ』から著しく乖離してようが萎えるなんてことはないし、逆に忠実にドラキュラ伯爵の規則や振る舞いを再現してようがその忠実度合いに逐一気付かれるかと問われれば難しいと答えざるを得ないだろう。

 それでも、オタクたるもの設定だの原作だの、そういうものが気にかかってしょうがない。そうあるべく生きているから。

 これが、私が『ドラキュラ 完訳詳注版』を手に取った理由だ。別に大した理由でもなく、この本を手に取る人は同じような動機を持っていることと思う。

 でも折角読んだのであるから、今回吸血鬼キャラに親しんでいるオタクとして小説『ドラキュラ』の吸血鬼はどうだったのか、書いていきたい。

ドラキュラ伯爵とは何者なのか

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『ドラキュラ 完訳詳注版』水声社

 誰もが思い浮かべるドラキュラ伯爵の風貌にはれっきとしたモデルが存在する。それが19世紀イギリスの劇俳優ヘンリー・アーヴィングだ。

 私が読んだ『ドラキュラ 完訳詳注版』の表紙に写っているのも彼である。

 伯爵は精悍な鷲のような顔つきをしている(五)。鼻柱の高いほっそりとした鼻で、独特な形の鼻孔をしている。額は高く張り出し、髪はこめかみのあたりは薄かったが、それ以外はふさふさとしていた。眉は太く、眉毛が鼻の上でくっついており、もじゃもじゃと渦巻いている、口もとは、豊富な口髭越しに見たかぎりでは、毅然としていて残酷そうだった。歯は白く、奇妙に鋭く、唇の上に突き出している。唇は非常に赤く、彼ほどの年齢にしては驚くべき生命力を示していた。それ以外では、耳が青白く、てっぺんが著しく尖っており、顎は幅広くがっしりとしている。頬はやせてはいるのだが、しっかりとしていた。全体の印象は、並外れて蒼白であるというものだった。――第二章p.33より

 アイコニックな吸血鬼としてのイメージはこの描写から始まっている。

(五) 顔付きをしている……ここで描写されているドラキュラの顔付きには、ヘンリー・アーヴィングの面影、ユダヤ人的特徴、生来性犯罪者的特徴などが指摘されている。――注釈p.402より

 ドラキュラ伯爵への第一印象となる描写に対しての注釈。ヘンリー・アーヴィングに犯罪者的なイメージを追加したような人物像となっている。

 白髪、白髭とあるが、物語が進むとドラキュラ伯爵は吸血行為によって栄養を充分に得たあと若返り、黒髪黒髭となり、まさに吸血鬼のアイコンそのままになる。

 世紀末の西欧において、金髪に対しては本来あるべき正しい姿、というイメージが持たれ、対照的に黒髪は妖艶でミステリアスなイメージが持たれている。黒髪を生まれ持っている日本人としては、現代における「金髪の若者」と「黒髪の若者」に持つイメージと同じではないかと感じる。金髪であるから、黒髪であるからといって人間性を判断するような基準ではなく、あくまでどのような印象を持つかといったようなステレオタイプさを伴う判断基準と言えよう。

 実際作中で吸血され所謂「眷属」となった女性は金髪から黒髪へと変貌している。このことからも、『ドラキュラ』と言う作品は当時の西欧においての金髪と黒髪のイメージを利用しての描写がなされていることがわかる。ちなみに、作中に「眷属」と訳された言葉は一度も見当たらなかった。ドラキュラ伯爵に吸血された者は「不死者」と訳されている。創作において「アンデッド」という表現がなされるに際して思い浮かぶイメージで読み取ることが出来る。

ドラキュラ伯爵の振る舞いと吸血鬼の規則

「吸血鬼は生き続ける。単なる時の経過によって、死ぬことは出来ない。生き血で肥え太れば、さらに強大になる。その上、我々の中には、若くなることが出来るのを目撃した者もいる。〈略〉しかし、この特殊な食料がなければ、その力を失う。吸血鬼は人間のようには、食べたりしない。〈略〉それから、吸血鬼には影がない。鏡にも映らない。〈略〉吸血鬼は、狼に姿を変えることができる。〈略〉吸血鬼は、蝙蝠になることができる。〈略〉吸血鬼は、自ら作り上げた霧に紛れて動くことが出来る。〈略〉吸血鬼は、月の光の中を細かな塵のように動くことが出来る。〈略〉ひとたびわずかな隙間を見つければ、どんなところからも出てくるし、どんなところへも入り込むことが出来る。〈略〉吸血鬼は、闇のただなかでも、見ることができる。〈略〉家の中の誰かがまず中に入れてくれなければ、奴はどこであれ、中に入ることが出来ない。ただし、その後では、望みどおり入ることが出来るようになる。すべての悪霊がそうであるように、吸血鬼は日の出とともに消滅する。〈略〉結びつきのある土地にいないと、正午と正確に日の出と日の入り以外には、姿を変えることができない。〈略〉奴は、土、棺、地獄といった自分の居場所や穢れた場所であれば、限度内ではあるが、好きなように振舞うことが出来る。〈略〉また奴は凪や満潮時でなければ水の流れを渡る事は出来ないとも、言い伝えられている。また奴には、周知の大蒜(にんにく)のように、その力を失ってしまうほど苦手なものがある。神聖なものについては、たとえば今、誓いを立てた時に我々が用いた十字架だが、奴はこうしたものには全く無力だ。しかし、そういったものへは決して近寄らず、敬意を表しておとなしくしている。さらにほかにも苦手なものがある。〈略〉まず、奴は棺の上に野薔薇の小枝を置かれると、そこから出られなくなる。神聖な銃弾を棺の中へ撃ち込むと、奴を真実の死に至らしめることができる。奴の身体を杭で貫くことや、首を切り離すことについては、我々はすでにそうすることで安らかな死を与えられることを知っている。――第十八章p.257-258から抜粋

(八) 伝記と迷信……ニーナ・アウエルバッハによれば、吸血鬼に関する以下の記述は、じっさいにはストーカーが集めた「伝記と迷信」と、彼自身の独創的創作との混合である。たとえば(一)流れる水の上を渡れない、(二)野薔薇の小枝を置くと棺から出られなくなる、(三)神聖な銃弾を撃ち込むと真実の死にいたらしめることができる、といった性質は、たしかに「伝説と迷信」に由来する。しかし(四)己の姿を自由に変える、(五)犠牲者を己の同類に変える、といった性質は、ストーカーの独自の創作にほかならない。アウエルバッハは以上のように述べるが、しかし少なくとも(五)の特徴はエミール・ジェラードの『森のかなたの土地』のなかに見出すことができる。――注釈p.438より

 『森のかなたの土地』とは、小説『ドラキュラ』以前に書かれた吸血鬼に関する小説。

 吸血鬼とは、世界各地に伝わる伝承を元とした存在であり、もちろん『ドラキュラ』以前にも吸血鬼を扱った小説は世界各地に散見される。レ・ファニュの『カーミラ』がストーカーの『ドラキュラ』に大きな影響を与えていることも良く知られている。

 とはいえストーカーの『ドラキュラ』が現代において吸血鬼への認識の大部分を占めていることは間違いない。引用部に書かれた吸血鬼の振る舞いと規則が良く知られていることが何よりの証拠だろう。ニンニクが苦手、十字架を嫌がる、太陽が苦手。この三要素を並べて思い浮かぶのはマントを羽織った吸血鬼の姿だ。

 作中でも語られるように吸血鬼は不自由だ。多くの規則に縛られ、苦手なものだらけ。人間が完全武装で立ち向かえばドラキュラ伯爵を窮地に追い込むことは容易い。それなのに小説『ドラキュラ』がホラー小説の金字塔としてたしかな地位を保って現在まで読み継がれ、スリルが演出するエンターテイメント性が未だたしかな理由はどこにあるのか。第一に、ドラキュラが伯爵であるということがある。ドラキュラは伯爵としてたしかな理性と知性とを持ち合わせている。第二に、ドラキュラとはヴラド三世であるということがある。ヴラド三世は15世紀ワラキア公国領主であり(作中時間は19世紀末)、激烈な武将として名を轟かせていたような人物がドラキュラ伯爵の正体だ。

ja.wikipedia.org ドラキュラ伯爵は生まれもった魔物や精霊ではなく、かつて人間だった。しかも、伯爵として高い権力と地位、それ相応の知性と理性を持ち、著名な武将として類まれな戦闘経験と実績がある。そんな人間が悪意を持って攻め込んでくるだけでも間違いなく脅威であるにもかかわらず、彼は吸血鬼として多くの魔術を扱うことができる。

 実際小説を読んでいても、ドラキュラ伯爵の凶悪さに疑う余地を挟み込むことはできない。人間がいくら準備を行おうとも、それを嘲笑うかのように隙を突いてくることは間違いないと読んでいて思わされる。これは私にとって意外だった。小説『ドラキュラ』を読む前から、吸血鬼という存在は多くの制約と弱点を持っていることを知っていて、弱点をあらかじめ知っている怪物の物語などスリルを感じられないのではないかと思いながら本を取ったのは、完全に杞憂だった。そんな嬉しい誤算もあって、200年以上前の小説を楽しめたことは幸運だ。

キャラクターとしてのドラキュラ伯爵

 まず前段、人間に牙を剥く前のドラキュラ伯爵は高貴で紳士的でありながらも、旺盛な知識欲を人間にぶつけてくる。多くの言葉を投げかけ、興味深げに話を聞く。伯爵の地位とそれ相応の振る舞いをしながら積極的に話しかけてきて、話をよく聞いてくれるような人物はたいていの人間にとって喜ばしい。もちろん怪物だとわかっていなかったら、だが。

 本著の注釈や解説でも頻繁に触れられることとして、「この男は私のものだ!」というドラキュラ伯爵のセリフがある。

「おまえたち、よくもこの男に手を出そうとしたな! 私が禁じていたというのに、よくもこの男に目をつけおったな! 下がれ! おまえたち三人に言っておるのだ! この男は私のものだ(三二)。この男の扱い方には気をつけるんだな。さもないとこの私を相手にすることになるぞ。」色の白い女性が、みだらに艶かしく笑うと、伯爵の方を向いてこう言った――

「あんたは決して愛さなかった。愛することがないのさ!」――第三章p.52より

(三二) この男は私のものだ……ストーカーの「創作ノート」に頻出する言葉。ドラキュラのホモセクシュアル的欲望を暗示する言葉だが、この欲望は以後、テクストの表面からは抑圧され、あとにはヴァン・ヘルシングを中心とする男たちの帆もソーシャル関係ばかりが目に付くようになる。――注釈p.408より

 ストーカーはドラキュラ伯爵のモデルであるヘンリー・アーヴィングに耽溺していたとされる。ストーカーは19世紀英国演劇におけるプロデューサーをライフワークとしながら上手く軌道に乗せることが出来ず、その損失を補填するために小説の執筆を続けた。そこまで演劇の仕事にこだわり続けたきっかけとなっているのが、ストーカーが熱烈なヘンリー・アーヴィングのファンだったという点にある。

 このような来歴からも、水声社の『ドラキュラ 完訳詳注版』にはホモセクシュアル女性嫌悪がこの物語の根底にはあるのではないかと読み解かれている。じっさい、6年にもわたって取材が続けられた小説『ドラキュラ』のプロットと資料群には幾度となく「この男は私のものだ」というセリフがメモ書きされている。きっとストーカーの頭の中には吸血鬼の伯爵がこのセリフを言っているシーンが強くリフレインしていたのだろう。いわゆる、「ネタが頭に降りてきた」状態だ。降りてきたシーンがストーカーにとっては「この男は私のものだ」と伯爵が言い放つシーンだったのだ。

 だからこそ、ホモセクシュアルホモソーシャルという点は、吸血被害に遭い悲惨な描写がされている登場人物が女性であることも合わせて、解釈として成り立っている。しかし、私自身がこの作品を読んだ印象は少しちがっている。男性が男性俳優に対して憧れを持つということに、ホモセクシュアルのような性愛は差し挟まれないように感じるということがまずある。男性の著名人に憧れをもって真似をしたり、動向についつい目が奪われるということは頻繁に起こることだ。ストーカーが悪役としてドラキュラ伯爵を後世に伝わるほどアイコニックに描くことができたのも、そんな憧れの範疇を越えてはいない。面白い冒険小説を志すにあたって、魅力的な悪役の形成に注力するのは当然だ。たしかにストーカーがアーヴィングに耽溺していたのは間違いないが、それはたとえば日本の昭和であれば高倉健菅原文太に強く影響されて肩で風を切って歩いていた男性たちと重なるところがあるように思う。映画に強く影響されすぎたあまり、アル・パチーノの表情や振る舞いをついつい真似しているような男性も未だ世界中にいそうにも思う。ともあれ、ドラキュラ伯爵が吸血鬼というものをこうも魅力的な存在にまで押し上げたのは、ストーカーのアーヴィング愛があったからこそで、ファンとして熱心になるということは本来素晴らしいことなのだなと感じ入るところだ。

 小説『ドラキュラ』の物語後段、ヴァン・ヘルシング教授率いる主人公たちの反撃が始まると、ドラキュラ伯爵の描かれ方はまた変わってくる。じっさいにヴァン・ヘルシングもドラキュラ伯爵を以下のように評している。

奴は優れた頭脳を持ち、比類なき学識を備え、恐怖も憐憫も知らぬ心を持っておった。〈略〉当時の学問で、奴が手を出さなかったものなどないほどだった。そう、肉体の死を超えて、頭脳が生き延びた。ただ記憶の方は完全とはいえないようだ。知能のある機能においては、奴はほんの子供だ。だが奴は成長しておる。はじめは子供ぽかったものが、今では大人にまで成長しておるのだ。――第二十三章p.320より

 優れた頭脳と学識、それに対しての「子供にすぎない」という言い方は矛盾しているように読める。それに、冒険小説ならではご都合主義のせいで、高い知性と品格を持った振る舞いをしていたドラキュラ伯爵が急速に愚かに見えていくような描写が後段ではなされていく。

 フィクションなのだからそんなものだろうと片付けるのは簡単だが、ドラキュラ伯爵が物語の進展によって変遷していくこのような過程も、吸血鬼への解釈を考えていくことへの助けとなる。

 ヘルシング教授率いる主人公たちは持ち前の知識と技術を活かして、ドラキュラ伯爵と吸血鬼の脅威を研究し明らかにしていく。そのうちにドラキュラ伯爵を追い詰め迫るあまり、主人公の1人のうちの妻がドラキュラ伯爵の毒牙にかけられて不死者、眷属になってしまう。しかし眷族となったことにより、精神世界のスピリチュアルともいえる繋がりがドラキュラ伯爵とのあいだに生まれ、ドラキュラ伯爵の動向や心理が明らかとなっていき、窮地が転じて主人公たちはドラキュラ伯爵にさらに迫っていくこととなる。

 以上の展開によって明らかとなるのは、ドラキュラ伯爵の持つ根深い犯罪者心理だ。彼は吸血行為に執心するあまり、反社会病質と精神病質、ソシオパスとサイコパスとを併せ持った凄惨な心理状態にあることがわかっていく。ドラキュラ伯爵の高度に練りつくされた犯罪行為の数々、その動機は全て吸血行為と眷属の増産に他ならない。それは非常に動物的であり、高度な理念も理想も一切感じ得ない。人間とはちがう新たな形態をもった生き物ともいえないような、怪物。このとりかえしのつかないほどに病んだ精神を指してヘルシング教授はドラキュラ伯爵を「子供」と評しているのだ。

 ドラキュラ伯爵がなぜ不死を求め、吸血鬼となってしまったのか。それは作中には描かれていないが、小説におけるドラキュラ伯爵のなかから、その本来の動機などとうの昔に色褪せ消え失せてしまっている。ただ、吸血し人間の生気を我が物とし、また眷属を増やし、その君主とならんとする。それはかつてワラキア公国の領主だった栄光を取り戻そうとしているかのように思えるが、ドラキュラ伯爵はただ執心した人間の命を求め、怪物と不死者と魔術をを行使する力に溺れた言動と振る舞いしかしない。前段における知性と品格ある行動もすべて、その動物的とも言える欲求を達成するためだけに為されていたことがわかっていく。

 この前段と後段にわたるドラキュラ伯爵の変遷から、なぜ吸血鬼が現在1大コンテンツに至るまで発展していったかがわかってくる。大まかに言えば、ドラキュラ伯爵というキャラクターはギャップがあるのだ。通常ギャップ萌えなどはそのキャラクターの魅力を演出するために使われるが、小説『ドラキュラ』はホラー小説。ドラキュラ伯爵の恐ろしさを、不快感を、読者が彼に憎しみを抱くよう演出するために、前段は好意的な紳士たる伯爵、後段では救いようのない精神破綻者として描き、ギャップを演出している。キャラクターのギャップは、その変容に応じて物語に展開を生む。読者は物語を読み進めるにしたがってドラキュラ伯爵というキャラクターの高低差を感じ、物語を面白いと感じる。

 『ドラキュラ』と題されたこの小説が読み継がれてる理由の根幹に、ドラキュラ伯爵のキャラクターとしての魅力が存在することも、この本が多くの人の記憶に残った要因となっているだろう。記憶に残るということは、思い出すということだ。紳士的な伯爵なのに、精神破綻者であるというその大きな落差に想いを馳せた読者も多いだろう。ドラキュラ伯爵が吸血鬼になった過程や、ヴラド・ツェペシュであった頃の記憶の残滓は、作中で彼が証言することは一切ない。ドラキュラ伯爵自身の心情を描いていないからこそ、読者はそこに想いを馳せることとなる。現代において吸血鬼と恋に落ちる女性の物語が世界中に生まれ続けているのも納得の行くことだ。

 小説『ドラキュラ』を読むずっと以前に、Fate Grand Orderというソーシャルゲームをプレイしていたことがあり、ヴラド三世やカーミラエリザベート・バートリーにまつわるテキストは読み込んでいた覚えがあるが、作中描かれないドラキュラ伯爵が吸血鬼になってしまったその理由に想いを馳せたその結果の最たるものだったと、今思い返すと感じるところがある。

小説『ドラキュラ』の構造・形式

 ここからはこの本が一体どういう小説なのかを書いていこうと思う。

 基本としてこの小説は書簡小説である。これは意外だった。なんとなくシャーロックホームズのような形式なのではないかと勝手に思い込んでいた。主人公たちの日記から始まり、蓄音機による録音データ、登場人物がやりとりした手紙、仕舞いにはメモ書き、時に新聞記事も入り混じり、届け物の明細までもがこの本に綴られている。それらが複数視点からドラキュラ伯爵にまつわるその脅威を描き出していくというのがこの小説の基本的な構造とコンセプトだ。そのコンセプトは徹頭徹尾明らかで筋も通ってはいるが、このコンセプトを完全なるものとして1つの作品にまとめ上げることはかなりの難度であることは想像に難くない。なぜなら1人の作者が書き上げる以上、実際に複数の書き手とはなり得ないからだ。このコンセプトを完全なものとするには、極端な方法を取るのであれば、脚本とプロットを複数人の書き手に共有し、男性は男性の書き手、女性は女性の書き手に日記や手紙を書かせるといった手法が有効になってくる。それを1人の手でやるのだから、やはり1人称単数や3人称限定などに比べると物語上の辻褄の破綻へのリスクが非常に高い。ブラム・ストーカーがこの小説を書くまで6年かかったことも当然であろう。ここまで書けば察するところもあるかもしれないが、この小説にはいくつかの破綻が見られる。それは時に注釈で指摘されるような書簡におけるやりとりの日付のズレや、事物・人物の行動の辻褄があわない点があるということがある。しかし物語の本質はドラキュラ伯爵にまつわる恐怖であり、それらが損なわれるような致命的な破綻はなく、気にしない読者がほとんどだと断じてもおかしくはないだろう。翻訳によってはそこらへんの破綻は修正されている可能性も大いにある。

 複数視点の書簡小説というハードルの高さについて私が気になった点は、他にある。それは、語り口調の調子だ。複数に視点が切り替わる初めのほうは、その人物の口調――男性なら男性、女性なら女性、青年なら青年、老人なら老人の――調子で書かれている。しかしその語りが盛り上がれば盛り上がるほどに、作者視点からその場面を描写した調子になっていくことだ。特に、語りが盛り上がった場面での「」で括られたセリフは書簡としてはあまりにも小説的過ぎる。小説的過ぎるがゆえに、読みやすく物語も入って来やすいから良いのかもしれない。やはり書簡としての形式を頑なに守れば守るほどに、語りとしては説得力や演出力に制限がかかるので、小説としてのエンターテイメント性を保つためにあえてそうしたのかもしれない。現代には書簡としての形式を堅固に保ったまま、雄弁な語りをしてくれる小説も数多くあるため、私は現代人ゆえに眼が肥えてしまっている弊害が出ているのだろう。手塚治虫の漫画を読んでコマ割りが単調だとかトーンが最適でないとか文句をつけているだけの可能性もある。しかし、書簡小説の形式にこだわるがゆえにエンターテイメント性がその枠を超えて走り出している感は否めない。それも勢いがあって面白いは面白いけれども、私としてはそれならばもうすこし作者視点の三人称的な語りを交えて書簡小説としての形式を緩めるバランスの取り方がされていれば、もっと文学作品として価値が上がったのかもしれないなどと爪を噛んでしまう。この『ドラキュラ』と言う小説は文学でなく、大衆小説にすぎないという評価が今も根強い。英語圏では全集などに『ドラキュラ』を入れるときに強く反対する編集委員もかつていたらしい。その理由が以上書いたようなエンターテイメント性偏重の小説の調子にあるのだと考えられる。

 ストーカーが、書簡小説の形式にこだわって執筆した理由もわかる。なぜなら、この小説は構造としても面白みがあるからだ。まず、ジョナサン・ハーカーというドラキュラ伯爵から「この男は私のものだ!」と毒牙にかけられた男の日記からこの小説は始まる。散々な目にハーカーは遭いまくるわけだが、ハーカーには記録癖があるようでその様子を事細かに記すのだ。そして、物語はドラキュラ伯爵の悪辣な行いが次々に描かれ、その悪に立ち向かおうとするヘルシング教授率いる主人公たちが伯爵に対峙するきっかけであり最初の切り札となるのが、最初に出てきたハーカーの日記となる。書簡小説ならではの入れ子構造によって冒険を演出するこの手法はシンプルでありながら、だからこそ有効に読者に働きかける。それ以外にも伯爵の脅威への研究の進展として、書簡小説として書かれてきたその書簡そのものが材料になるという展開は数多く起こる。この構造は、小説『ドラキュラ』が物語が展開していく面白さの本質ともなっている。

締めくくりに代えて、ブックレビュー

 水声社『ドラキュラ 完訳詳注版』は、自分のように吸血鬼を勉強したいだとか、当時の怪異小説の金字塔を深く知りたいだとか、目的意識の大小はあれど、研究のために手に取る人が多いのではないかと思う。しかし、私はすっかり物語として『ドラキュラ』を楽しみ、吸血鬼にまつわるホラーをしっかり体験した。たしかに注釈は細かく、翻訳も忠実がゆえに平易な言い回しは少ないかもしれない。それなのに小説の面白さ、物語の素晴らしさを一切邪魔することはなかった。間違いなく小説『ドラキュラ』としては決定版として問題ない。

 前章に書いたように、物語の破綻があるゆえに注釈で指摘している箇所がいくつかある。指摘するのはもちろん注釈の役目であるから構わないのだけれど、「本当は深い信心があると描写されているのにこれでは彼は罰当たりになってしまう」というような、所謂「物語にツッコミを入れる」かのような注釈もちらほらある。これはなんというか、ブラム・ストーカーが可哀想だな、と思ってしまうので辞めてあげて欲しかった。それに、注釈者は研究者だからか、自分の研究範囲なのか、ヴィクトリア朝におけるフェミニズムや男女論に偏った解説も多く目に付いた。勉強になるにはなるが、翻訳者や注釈、解説の自己主張が気になるという人はあまり水声社版を読むのに向いてないかもしれない。これは私の価値観であるが、解説や注釈がメインの書籍でないかぎり、自己を抑えて平らかな視点で解説や注釈が為されているほうが良いように思う。

 以上が、私が水声社版『ドラキュラ』を読んで、考えたこと、感じたことだ。

 これからも私はコンテンツ化された吸血鬼を消費し続けるだろう。それが決して成功者として輝かしい人生を送ることの出来なかったブラム・ストーカーの望んだことなのかどうかはわからないけれど、ブラム・ストーカーのおかげで私の心のよりどころとなっている吸血鬼キャラクターたちが現代に息づいていることには、より一層の感謝と畏敬の念が深まったところである。