家でニートが1人で酒飲みながら観る『にじさんじ JAPAN TOUR 2020 Shout in the Rainbow 福岡公演(叶・葛葉・加賀美ハヤト・剣持刀也)』ライブレポ

event.nijisanji.app

男だけのVtuberのライブ

 嬉しかったじゃんね。

 俺すげえうれしかったよ、男だけのライブをやるって聞いて。クロノワールのドル売りがどうとか、剣持の媚びがどうとか、俺らって色々言ってきたけど、そんなんぶっ飛ぶくらい嬉しかった。まあ俺は言ってませんけど。

 にじそうさくの締め切り(入稿2/13)もあるし、俺、ニートだし、悩みに悩んだ末、現地には行かなかったし、行けなかったんだけども、「ネチケで家で1人で見るのも楽しいかもしれない」という思いつきがその「行かない」という決断をバシッと後押しした。 

 

 

 ライブビューイングってあるでしょ、あの、映画館で見るやつ。「推しのライブなんだから現地行けや」って言いたい気持ちもわかるけど、俺はライブビューイングはライブビューイングでけっこう好き。

 その理由ってのが、なにより「観やすさ」にある。てかこれ俺のブログで毎回触れてないか?まあいいや書く。

 そりゃ現地って、円盤には映らない演者の所作が摂取できるから、いわゆるそれが「ライブ感」として重宝されるわけだけど、大概の席は見づらいし、狭いし、身長によってはきついことが多かったりするわけじゃないですか。

 ライブビューイングってのは、他のオタクたちといっしょにワーワー騒いでライブ感を得つつも、円盤化されるような観やすい映像をリアタイできるわけ。

 「現地参戦」が「当たるとデカイけど、外れるとキツイ」バクチだとすれば、ライブビューイングは安パイに当たるんじゃないかと俺は思ってる。人生バクチしていきたいけど、バクチしてばっかじゃ疲れるでしょ。安パイに引くのも悪くない時がある。

 それで、今回はネットチケット買って、家にあるディスプレイ端末を使ってライブをリアタイしたわけだけども。

 みなさんインターネットでオタクたちに対して自分のことは棚に上げて、「きつい」「風呂に入れ」「ルールを守れ」と言いまくってると思うんですけど、ライブビューイングはそういうストレスフルな人がオタクに人権を侵害されることもあるわけ。でも、ネットチケット買って家でライブを見ればオタクたちがオタクたちに傷つけられるとかいう社会のために良いことしかなさそうな悲劇も起こらなくて済む。よかったね。

 まあ俺は正直なところ、ライブで自己顕示欲暴発させてネタ臭い大声を出す客のオタクとか、UOグルグルとか、そういういわゆる「厄介」って言われることは、ダメだとは思っても、「垢消して一生家から出るな」とまでは思わない。俺はそういうのを目の当たりにしても、「まあこういうのも味があるんじゃないですかね」くらいに思う。ダメな行為は叩かれて糾弾されて当たり前だけど、全員行儀良くならないで欲しいなという思いがある。

 動画のコメント欄で「今見てるやつおる?」「ノ」みたいなのも、クソ寒くて勘弁してくれとは思うけど、絶対なくならないで欲しい。高山を石橋に撃つときの十兵衛みたいになってる。矛盾する思いがある。必殺を出すが、死んで欲しくない。

 今回、動画のコメ欄のオタクたちと一緒にライブ参戦をしたということで、「ああ家に家に居てもコメントによっていい意味でも悪い意味でもオタクたちが巻き起こすライブ感が味わえるんだな」と感じた。

 家で自分で入れた酒を飲みながら色々曖昧にしてしまってライブを鑑賞すると言うのは、現地行けなかった寂しさは当然あるけども、ネットチケット参戦もこれはこれで独特の良さがあるものだなと思ったりした。

 

剣持刀也

 ここで一曲一曲セトリと照覧しながらライブレポを書いていくのもいいけど、今回は演者ごとにレポしていくぜ。三万字とかになっちゃうからね。

 


GLAY / 誘惑

 率直に言って、「お前がナンバーワンだ」という感想が剣持にはある。

 各ライブ企画に於いていつも先陣を切って場を盛り上げ、各企画で前に立ってトークを回していく剣持の姿。「一番初め」と言う意味でも、ナンバーワンだし、その資質に関してもまさにナンバーワンだと思う。

「かっこいい」「かわいい」「おもしろい」剣持に関しては色々な好感情を日々みなさん感じているところだと思うが、俺は剣持刀也、彼の人間性に対してのリスペクトがある。ライブのあとの振り返り配信、喉の酷使と風邪によって咳を繰り返す剣持。それに対しての心配を繰り返すコメント欄に対して言った彼の言葉、俺のリスペクト要素がそこに詰まっていた。

 そして、「お前がナンバーワンだ」と思った理由がもうひとつ。


雨とペトラ/flower

 それが、叶とデュエットをした「雨とペトラ」だ。

 剣持刀也、彼は一期生扱いされることを、にじさんじの男性ライバーの原初であると扱われることを嫌う。それは、事実ではないから。彼は二期生だから。

 しかし、剣持はにじさんじという箱が黎明であるそのとき、男性バーチャルYouTuberと言う存在がまだまだマイナーであったとき、その界隈の先陣を切っていった。良くも悪くも、月ノ美兎と並び称される存在に彼はいま、なっている。

 そして、叶。彼もまた、今はもうバケモノ集団と化したにじさんじゲーマーズの一番槍。一期生二期生Seeds箱との断絶、葛葉にまつわる炎上、笹木の引退など、様々な障害を乗り越えて、叶はゲーマーズの原初として歩んできた。

 原初という属性を背負ってここまで歩いてきた、その二人が並んで楽しそうに歌っている。その二人の姿をみて思うこと、

「お前たちがナンバーワンだ」

 

https://www.youtube.com/watch?v=3_r9KsfdgpU


Peacock Epoch/浦島坂田船

 足りなーいおじさんだ。

 Peacock Epoch、みなさんいかがでしたか。俺は面白くてしょうがなくてめちゃくちゃ笑ってたよ。「叶がやりたいって言ったのかな」とか安直に考えてたら、社長の提案だったと振り返り配信でわかって、ゲーマーズを追ってきた者として自分を恥じたね。

 咎ノワール楽曲がゴリゴリのドル売りだったことに、去年の秋俺は顔をしかめていた。その想いについてはオヤドマーリの記事に詳しく、彼の意見には首肯しかない。

kingdombono.hatenablog.jp このことから、今回のライブもゴリゴリのドル売りセットリストになることを覚悟し、決して文句を言わぬようドイツ製の麻糸で口を縫い付けていた。しかし、まさにそれこそ杞憂で、蓋を開けてみれば、しっかり演者たちがやりたい曲を持ち寄って作られたセットリストになっていた。

 結局ドル売り曲はこの一曲だけで、一曲だけだったからこそ凄く輝いていた。ドル売り曲を愛する諸氏も、この一曲があったことで満足したんじゃないかと思う。何曲ものドル売り曲が並んでいたら、感覚は麻痺し、胃はもたれて「ドル売りの良さ」に尊さを感じることが難しくなっていたんじゃないだろうか。そんなふうに思っている。

  でも叶すごく楽しそうだった。なんならライブ通して、一番楽しそうではしゃいでたのは叶だったんじゃないかな。

 葛葉のブリキノダンスの勢いに引っ張られて自分の一曲目なのに喉をゴリゴリに消費していた「バッド・ダンス・ホール」や、前々からやりたかったと言っていた「純情スカート」でのやり切った感、観ていて本当に楽しそうだった。

 でも、俺が今公演で叶の一番好きだったところは、ライブ前の注意事項読み上げ。

 叶の声が聞こえて、俺はすぐに「最協決定戦」や、他のゲーム大会に出る前の声を想起した。大会前、彼はおそらくは心因性だと思われる咳を繰り返して、つらそうに喋る。そして、大会が始まるや否や、ピタッと咳は止まって、パフォーマンスを発揮する。そのときのつらそうな話し方で、叶はライブ前の注意事項を読んでいた。そして、いつものように、ライブでは存分にパフォーマンスを発揮した。

 俺が叶の好きなところは、「弱くて、強い」ところだ。弱さがあるから、強さがあって、強いからこそ弱さがある。そういう人間味あふれるかっこよさが叶にはあると思うのだ。

葛葉

 


ポルノグラフィティ 『THE DAY』(Short Ver.) / Porno Graffitti 『THE DAY』(Short Ver.)

 白状しよう、俺は、葛葉推しだ。別に推し変とか、そういうのじゃない。いつのまにかそうなっていたのだ。だからしょうがない。葛葉推しになろうとか、そういうのがあったのではなく、自分が摂取してるもの、やっていることを振り返って見てみれば、その痕跡が葛葉推しのそれだったのだ。だから、俺はいま、葛葉推しだ。

 「書き表せないほど」というのは、ちょっとでも意識して文字に触っている者たちからすれば、それは敗北宣言だ。ここに宣言する。俺は敗北している。

 書いても書ききれないないし、書きながら葛葉のこの福岡公演での様子を想うと、数々の想念が溢れ出して、なにがなんだかわからなくなる。

 だから、書けることだけ書くしかない。

 ポルノグラフティの「THE DAY」を誰かが歌う、と事前放送の企画で百花繚乱さんが明かした。

 コメント欄では、「加賀美ハヤトが歌うのではないか?」という意見が多かった。歌枠や、le jouetの弾き語り配信などでポルノグラフティを歌うことが何回かあったから、「ポルノ=社長」のイメージが強かったのだろう。

 しかし、実際歌ったのは葛葉だった。

 カラオケに行き、ポルノグラフティの曲を歌おうと試みたことがある人間ならわかると想うが、ポルノを歌おうとすると、人はボーカルの岡野さんの歌い方に寄ってしまう。サザンでも同じようなことが起きやすい。

 葛葉の「The DAY」がどうだったかというと、「似てる」というコメントもあったとおりに、寄せにいっていた。

 未熟ゆえのことであるとも言えるし、モノマネは観ていて楽しいので、ファンサービスのために寄せに行っていたとも捉えることもできる。実際は似せることについて葛葉の意図なんてものはないのかもしれない。

 俺は、葛葉の「The DAY」を聴いて、寄せに行っているはずなのに、いや、寄せに行っているからこそ、葛葉らしさを感じたんだ。

 本来ポルノのボーカル岡野さんの歌い方って、「跳ねるような」って表現されるような歌唱で、聴いている人の気持ちを煽って気分を盛り上げてくれるような歌い方だと思う。その跳ねるような煽りには、「アポロ」のころからずっと、どこかセクシーで大人っぽさある。

 でも、葛葉の「The DAY」、あれは完全に少年で、若々しい主人公だった。

 岡野さんの真似をしたからこそ、岡野さんと葛葉の違いが明らかになる、この体験っていうのは、本当にすごくて、「葛葉って、やっぱり葛葉じゃん!」って新鮮に驚かせてくれてメチャクチャに嬉しいんだよね。

 ライブでモノマネってお前、カラオケ大会かよ!ってツッコミもできるんだけど、バーチャルYouTuberってキャラクターだし、キャラクターの「らしさ」がバキバキに感じられたのが、この「The DAY」だった。そう思う。

加賀美ハヤト


【MV】加賀美ハヤト - WITHIN(Short ver.)【にじさんじ】

 本当にこわかったよ、この人。

「私、にじさんじにこれやりにきてるんで」

 ってバチバチに伝わってきて本当にこわかった。

「これやりににじさんじに入ったのかよ!」って。

 そういう、恐ろしさ、凄まじさを感じるようなパフォーマンスだった。

panora.tokyo

https://panora.tokyo/wp-content/uploads/2020/02/StRF-kaga02.jpg

 そんで、社長、彼、MC中とかライブでの基本姿勢が、踵をピチーッと合わせた姿勢なんですよね。んで、画像みたいな「歩き」のムーブも、キャットウォークなんですよ。足を交互に交差させて歩くような、モデル歩きってやつ。これはもう、完全に彼は意識してやってることで、「エアマイク」って言われてた、マイクを持つような仕草もあいまって、「見ろ!」っていう声が聞こえてくるようなパフォーマンスだったんですよね。

 男性Vの「パフォーマンス」って一点だけでいえば、2020年2月現状、もしかしたら加賀美ハヤトが一番なんじゃねえか、って。お手本にもなり得るような、そんな気さえしてくる。

 メタい話かもしれんけど、実際の肉体でのライブパフォーマンスに比べて、3DCGモデルに投影させるライブパフォーマンスって、大げさにやらなきゃ伝わりにくいってのがあると思うんですよね。やっぱり、指先とか、息遣いとか、表情とか、技術がいくら進んでもそこらへんの機微は3DCGモデルの投影では伝わりにくいはず。

 だから社長はキャットウォークをするし、立ち姿では踵を合わせて立つし、ライブ感を出すためにマイクを持つ仕草をする。観客に自分と言う存在を訴えるために、男性3DCGモデルを使ってそこまでしたのは、加賀美ハヤトが初めてだろう。ありがとう、ハヤト。

 で、当たり前みたいに歌が上手い。毎回びっくりするくらい歌が上手い。

 葛葉が、「社長の歌い方にメッチャ影響されて声張るようになった」って言ってたのがめちゃくちゃ嬉しかった。

 社長と会うまでは、近くで歌についての活動してる存在として叶がいて、たぶん叶の歌い方に影響されてたんだと思う。声量を抑えて、音程やリズムをキープして、ミックスボイスで声量を補強していくという王道の歌唱。疑心暗鬼を葛葉が歌った時も、参考にしていた歌い手はそういう王道のやり方の人だったし、葛葉の中で「歌う」ということはそういうことだったんだと思う。


【】歌ってみた 疑心暗鬼 葛葉 にじさん【】

 でも、俺は、ずっと、ずっとずっと葛葉に声張って歌って欲しかった。声質的に絶対そのほうがいいって、ずっとずっと思ってた。

 それを叶えてくれたのが、加賀美ハヤトであり、この福岡公演であり、「CROW」(「アーリオオーリオ(アーリオオーリオではない)」)だったんだ。

 ありがとう、ハヤト。にじさんじをムチャクチャにしてくれ。

ChroNoiR、そして、ヘテロスタシス

 


【MV】ヘテロスタシス / ChroNoiR【オリジナル曲】

 俺はまだぬゆりさんが、ぬるりだったりnulutだったりした、「やけるさかな」の頃から好きで、クロノワールの二人が「終末じゃない」を歌って、クロノワールtvのテーマ曲がぬゆりさんで、叶がぬゆりさんとPUBG一緒にしたりしてて、「こんな嬉しいことがあるかよ」って、ずっと思ってたし、これ以上望むなんて贅沢すぎる、そう思って暮らしてきた。そうだよ、ニート生活をよ。

 でも、ずっと心の底では捨てきれなかった。

 「クロノワールのオリジナル楽曲が、ぬゆりによる曲」

 もし、そうなれば、それはなんてすてきなことで、すばらしいんだ、そんな妄想で日々を凌いできた。そうだよ、ニートの日々をよ。

 そして、オタクの夢が叶うときが来た。

 だいたいこんな感じになってた。

panora.tokyo

 

https://panora.tokyo/wp-content/uploads/2020/02/StRF-chro02-1.jpg

 この画面上部の、歌詞がでるやつ、なんかイカした横文字がるんですけど、忘れたし、しらべるのだるいんでアレですけど、これが手書きなんですよ。

 もしかしたら手書きフォント的な、そういうやつかもしんねえけど、これがとにかく良かった。上のこの横長の画面がすげーよかった。クラブのVJみたいなやつ。

 手書きのペンでつらつらと歌詞が紡がれていく映像、これはぬゆりさんの歌詞がスゲえから良かったし、歌詞がすごい。

 どうすごいかって、キャラソンじゃないんですよ。

 クロノワールの曲ってなんぼでもキャラソンにできるわけ。二人にまつわる言葉なんて無限に湧いてくるでしょ、って。

 でも、ヘテロスタシスの歌詞は、決して二人の存在をなぞりきらない。歌詞を二人の存在に当てはめることはできても、二人の存在を歌詞に当てはめることはできない。

 それが、すごく嬉しい。ぬゆりさんって、そうだよなあって。ぬゆりさんのファンとしてもすごく嬉しい楽曲になってると思う。

 「ヘテロスタシス」ってタイトルを観た時、違和感があった。それは、俺の元々知っている言葉としては、先に「クロノスタシス」があったからだ。「クロノワール」の曲に、「クロノスタシス」ってタイトルを付けることが自然すぎて、「クロノワール」の「ヘテロスタシス」って曲には「クロノスタシス」って言葉を幻視してしまう。

ja.wikipedia.org

chihirotianxun.blogspot.com

クロノスタシス

よく知られる例として「時計の針が止まって見える現象」がある。アナログ時計に目を向けると、秒針の動きが示す最初の1秒間がその次の1秒間より長く見えるというものである[1]

 ・ヘテロスタシス

ヘテロスタシスという「成長、変化、自己実現しようとするものであり、今とはちがうものになろうとする動機。」のプロセス

  両方とも心理学用語ではあるけど、類義でも対義でもない。

 歌詞のサビの終わり、「まだもがいている途中」というフレーズが繰り返し出てくる。

 「もがく」という行為はおそらく、ヘテロスタシスの「自分の意思で自己実現をしようとする」という意味での「もがき」なんだろう。

 そして、「途中」というのは「その瞬間」とも言い換えることできる。

 「ヘテロスタシス」という曲は、「自らの意思で変化を起こそうとしている二人のもがいているその瞬間一曲の歌詞に引き伸ばして『クロノスタシス』を起こしている」とも解釈できるのかもしれない。

 俺たちは、クロノワールヘテロスタシスしているクロノスタシスを今も見ている。

最後に

 やっぱりなんだかんだ言って、現地に行きたかったよ。

 剣持刀也が切り開いていくその動きを、加賀美ハヤトの一挙手一投足を、クロノワールの2人が寄り添った時にみんなが流した涙を、現地で感じたかった。

 とはいえ、ネットチケットのおかげでこうして色々と思い、考え、そして書くことが出来たことには感謝しかない。

 今後もライブツアーは続いていく。彼ら・彼女たちの躍動はまだまだ終わらない。

宣伝させてくれ、すまん

 今回ライブに行けなかった要因の大きなものとして原稿がある。原稿は無事に完成し、本はすでに印刷されているそうで、にじそうさく03にて頒布を予定しています。

nijisanji.familiar-life.info 出す本の内容はくずンボで、俺は葛葉視点の小説を書かせてもらいました。初めての同人誌が出せると言うことには感謝しかない。

 ゆいまーるさんとの合同誌で、漫画のサンプルはこちら。

 

【にじそ03新刊】おににはな【くずンボ本】www.pixiv.net 俺の小説サンプルはこちら。。。

www.pixiv.net 通販予約も既に始まっているのでよければ。。。

www.melonbooks.co.jp

yuimaaaal.booth.pm いい表紙だなあ、おい。ちょっとだけ表紙のデザインにも関わらせてもらったので感無量。よろしくね。

9月の終わりから10月にかけて叶え葉weekがあったという幻覚を見た人向けまとめ

 集団幻想叶え葉。

 

 あまりにも1枠1枠が長いし、かといって2分程度で切り抜いて良さがを発揮できるようなたぐいのものでもないので、ここは言葉でレビューすることによって「まとめ」とするしかない。そう思った次第である。

序章

 


【赤羽さんとコラボ】実は僕、ホラゲー全然怖くない;;| Man of Medan 【にじさんじ/叶】

 俺はある日ある絵師の人が「叶え葉助かる」とツイートするのを見た。

 その人はよく叶の配信にいるし、Twitterで配信を実況していることが多いので、そのとき別のアーカイブを消化していた俺は「おそらく今配信されている叶がその中で『近々叶え葉の予定がある』と言ったのだな」と推測し、喜んだ。

 そもそも「しばらく赤羽葉子の声を聞いていなくてつらい」と思っていたときだったので、そのときは単純に嬉しかった。その後、このツイートがなされる。

 

 

 

  このときはてっきり冗談かと思っていた。

 なぜなら、「ギルザレンとバネキはめったに配信しない」というのはにじさんじ界隈における定型ネタと化しており、「毎週配信する」とか言って1回2回配信すれば、またぱったり配信しなくなるいつものパターンに入り、我々ファンは「なーんだやっぱりいつものパターンやんけ!」とひっくり返って天に向かって人差し指を突き出しツッコミを入れるのだろうと、このときはそう思っていたのだ。(ギルさんもバネゴも動画を出したり素材を作ったり、ただ配信をしていないわけではないからファンは割りと好意的にこのネタを使っているように思う)

 とはいえ、そのころギルザレンも新たなシーズンを開始するのと同時になぜか雪山や客船暗殺などのコラボ配信に突如として参加するようになっており、わりと配信頻度に比例があった赤羽葉子の配信も立て続けて何本かあるんじゃないかという期待が内心あったのは俺だけではないだろう。

 そして、その予告どおり、上記のゲーム実況が為されたわけだ。

 ゲーム自体はよくできたB級映画をうまくなぞっていて見ていて楽しかったし、2人が別視点でストーリーが進んでいくのは実況配信として実のあるものだったと感じた。

 淡々と実況を進めていく2人に、我々はいつもの様子で安心して配信を楽しんだ。

 しかしそれは始まりに過ぎなかった。

“つなぐ”クレイジー戦隊


【コラボ】突如集まったクレイジー戦隊!|PLAYERUNKNOWN'S BATTLEGROUNDS【にじさんじ/叶】

 

 そして、動画タイトルどおり突如としてクレイジー戦隊が集まる。

 このとき、ふくやマスターは最終的に27時間にわたる「ドン勝するまで終われません」配信の途中であり、20時間以上ぶっ続けでPUBGをプレイし続けているさなかだった。

 その助っ人として自然発生的に集まったのが、クレイジー戦隊だ。

 叶、赤羽葉子、皆守ひいろ、ふくやマスターの四人のコラボは半年近くぶりであり、俺はこの4人のコラボ配信は必ず見ていたのでこれもまた、嬉しかった。

 そして、「今回の赤羽葉子の活性期、おそらく何度か我々に顔を見せてくれるのでないか」という期待が募った。

 このときのふくやマスターはそこそこ疲労の様子で、俺はむしろその様子が初期バズ(母乳爆発など)のふくやマスターを見るようで、嬉しかった。この効果はクレイジー戦隊が半年振りだったのと相互に効いたものだったように感じる。ふくやマスターはガツガツ行かずにもう少し受身になっても十分に良さが出る人材だと思う。はりきりすぎないで頑張って欲しい。

天国の煉獄


【#叶え葉】#1 始まりました、農場生活|Stardew Valley【にじさんじ/叶】

 

 そして、ついにStardew Valleyが始まる。

 喧嘩稼業の煉獄でいうところの「左鉤突き」がこの動画だ。

 

  このゲームは2Dドットの世界でマイクラの農業に特化した生活をしていくと言う内容だと俺は最初思った。

 いきなり結婚要素が出てきて俺の中の怪物の生首がもたげるのを感じたがなんとか封じ込めた。としても、「2人で生活をしていく」ゲームであるという事実はどうしても揺らぎようのない事実として我々の前に立ちはだかった。

 その壁の前で我々は1週間以上立ち尽くすことになる。

 ―――怖いか?

  叶にとって結局一番付き合いの長いVtuberというのは赤羽葉子であり、その事実を感じさせるような2人のプレイング我々は歓喜した。

 叶がいつものスピードで進めていくことに対して疑問や驚きを差し挟むことなく当然のようについていく赤羽葉子というこの様子こそ見たかったものであるという思いを新たにした実況内容だった。慣れた関係には新鮮味はむしろ必要なく、2人ともがあるがまま自然に過ごしているのが見ていて気持ちが良いのだ。

その名称はどうなのか「おっけい牧場」


【コラボ】釣り人農家おじさん。|Stardew Valley【にじさんじ/叶】

 すべての事象は相似して繋がっているように、全ての配信は次の配信と繋がっている。

 皆守ひいろとあっくんが加わってStardew Valleyをプレイすることに。

 この4人でやることになった経緯を推測するに、やはりふくやマスターの耐久配信にクレイジー戦隊の4人がそろったところが影響しているのであろう。

 あっくんは叶が「ひまかなあ」と配信中にいきなり通話を呼びかける一番の常連であり、今回もそういう感じだったのかもしれない。

 こういう裏でのやり取りを勝手に想像するのは楽しいが、あんまりやりすぎると病気なるで。

 叶え葉のStardew Valleyと比べるとやはり「4人でワイワイ」感があり、それはそれで楽しい配信内容になっている。

 と、思いきや、「葉子だいすきだいすき」をモットーとしてやってきた皆守ひいろがここに来て(もちろん仲間内のじゃれあいとしてだが)叶への嫉妬ムーブをかましてきたのは驚きだった。

 あまりそういうことを配信上で言っていた記憶がないので、裏でのやり取りを取り上げてのことだったのかもしれないが、「いっつもかなてぃ(叶のことだ)はわたしに『まあ僕のほうが赤羽さんと結局仲良いですからね』とかいってマウントとって来る!」と言っていたのが印象的だった。というか頭を抱えた。オタクはいつも妄想しているようなやり取りが現実に起こると頭を抱えるので。

 あっくんマジで声良い。LOVE

深夜になんとなく人が集まってなんとなく喋りながらゲームをしてる様子を見ながら死にたい


俺は今日ヌシを釣る|Stardew Valley【にじさんじ/叶】

 

 そもそも、この記事を書こうと思い立ったのがこの配信を聞いたからだった。

 この配信については詳しめに書く。

 もうこの実況シリーズは10度目の配信なのかと勘違いしそうなほど慣れた様子で深夜に集まった4人。

 しかしこの夜、週末ということもあってかどうもインターネット回線の調子が全国的に悪い日だった。最初っからあっくんの声は途切れ途切れだった。

 まず最初の不幸はあっくんの家のインターネット回線が丸ごと落ちたいうことだった。当然あっくんの配信は「おねがいマッスル」を大声で歌い終わった直後に終了されてしまった。

 あっくんはスマホ通話に切り替えて声が帰ってくる。「わがはい今日はもう無理かもしれん」と残念そうに言うあっくん。「ゲームできないし回線戻らないかごちゃごちゃやってるのを聞かせて配信の邪魔しちゃ悪いし」

 ここであっくんは惜しまれながらの退場かと思われたが、ここで叶が言い放つ。

「べつにいいんじゃないですか」

 そもそもが4人ともなんとなく予定合わせてなんとなくゆるっとやってる配信だし、あっくんはこのままスマホ通話のまま配信に残っていれば良いのではないかということだった。

 さらに叶は続ける。

「ぼくPCとルーターの表示とか大体分かるんでこのまま相談乗りますよ」

 ここでこの配信は夜中にゲームをしながらあっくんの家の回線の復旧を試みる配信へと変化する。

 叶がゲームをしながら手順を踏んであっくんのPCとルーターの操作や表示の有無を確認していく。

 そのかたわらで皆守ひいろと赤羽葉子はワイワイとゲームをプレイしながらも、あっくんの様子を心配したりしている。

 この様相が深夜に展開されている良さというのは本当に凄まじいものがあるのだけれども、この良さというのは該当部分を丁寧に切り抜いても感じ得ないたぐいの良さなのだ。

 夜が更けるかたわらで、男2人がPCの不調を試行錯誤している様子。となりでかしましくしている女の子2人。その4人のオンライン通話。これは俺にとっていつかどこかで経験したようなことがある気になるような体験であり、まさしく質感そのものだと言える。

 まあ俺はもちろんそんな経験したことなんてないんだけれども。

 そして、第二の不幸が起こる。Discordそのものが鯖落ちして、それぞれが個人で話すことになってしまったのだ。

 それぞれが個人でトークを進めているうちに徐々に復旧してきたDiscordだったが、叶だけが部屋に復帰できなくなってしまった。

 苦肉の策としてsteam通話で皆守ひいろと叶は連絡を取るのだが、叶はこの混迷した状況でもいつもの調子で皆守ひいろと会話を続けて、ゲームの進行やあっくんの回線の様子などを尋ねていく。

 そこで皆守ひいろはメッセンジャーとなってあっくんや赤羽葉子と叶のコミュニケーションを伝言で伝えては返していく。

 面倒な手間であるはずなのに、皆守ひいろは一切イヤそうな様子を見せずにその役目を進めていく。その献身的な行動は皆守ひいろの人の良さを裏付ける行動として現れていて胸を打たれるものがある。

 そして当たり前のように指示や会話を進める叶の様子も叶らしくて良い。

 これら、これらのすべてが、配信上で行われることの良さがわかるだろうか。

 深夜にわちゃわちゃと色んなアクシデントが起こりながらもその様子を垂れ流しながらゲームを進めていく配信を、我々リスナーが摂取できるのが、この配信だ。

 俺はライバーの人間性にとても惹かれるところがあるので、ライバーが人間として生活しているその様子を感じられるのは本当にありがたいのだ。

 アクシデントが起こっても「まあいいでしょう」と言って配信を続け、コラボ相手も「叶が言うのであれば恐らくは大丈夫なのだろう」と異論を挟まないのは、これこそが叶の度量なんだろう。

 ゲーマーズ最初の1人とされ、それが受け入れられている所以があるのだろうなと思うところだ。

ここらへんで「ああ、このシリーズめっちゃすげえペースになるんだろうな」とリスナーがみな気付き始める


あの日から僕の時間は止まっていて。|Stardew Valley【にじさんじ/叶】

 

 あっくんが無事に回線復帰したということで即翌日に同じメンツでゲームは再開された。JC〇Mはマジでやめとけ。

 叶もいよいよもってこのゲームに完全にハマりきり、常連たちはこういうときいつも隻狼を思い出す。そして、思う。「この配信シリーズを追うのは“覚悟”が必要だ」と。

 叶え葉を好む者にとっては、「グループのなかでの叶え葉」がどういうものなのかを改めて認識しなおすいい機会とも言えるだろう。シリンソウはド葛やくろのわーるなど、色んな要素が絡み合ったグループなので、このStardew Valleyでの叶え葉というのも新鮮味がある。

リスナー「ここにきてかなえようこ牧場が帰ってくるのか…」


【叶え葉】夏来たぞ!!農業するぞ!!!|Stardew Valley【にじさんじ/叶】

 どうやら週末にならないとおっけい牧場の4人がそろうことは難しいらしいが、完全にゲームにハマったモードに入った叶がガマンなんてできるわけがないのだ。

 そこで、始まったのが「かなえようこ牧場」の再開だったが、ただ再開わけがなかった。

 ここで第1回Sterdew Valleyのデータを削除して効率的プレイに徹したいと叶が提案する。

 赤羽葉子はなんとそれを即快諾する。「わたしもやり直したいところあってもやもやしてた……」

 ゲーマーズ1期生の2人がゲーマーズそのもののような行動を選択したとき、我々はとても嬉しくなってしまう。

今までない赤羽葉子の配信ペースに内心動揺し始める


【神回】村の公民館売ってみたwww|Stardew Valley【にじさんじ/叶】

 「おっけい牧場」は、複数人で作業やイベントを進めていく良さがあるこのSterdew Valleyを王道で楽しむプレイングを。

 「かなえようこ牧場」はSterdew Valleyのゲーム性をとことんつきつめるイベント無視クエスト無視の効率化農業プレイングを。

 この差別の付け方もとても上手いものだと思う。そしてこれを進めることによって叶はこのゲームを完全に突き詰めることができるな…というゲーマーらしさを感じるのもまた一興。

 また、インターネットの一部(俺ともう1人だけ)で言われているように、ゲーマーズとは、プロレスでいえば、ベビーフェイスに対するヒールであり、学園バトル物でいえば主人公校に対するライバル校だと思っている。(病気)

 だからこそ、ヒールのようなプレイングをするのもまた、嬉しい。(病気)

 それはそうと、内心赤羽葉子の異様な配信ペースに動揺しているリスナーも少なくないのではないのだろうか。まあ俺がそうだから書いてるんだけども。

 叶の言うところによると「学校も落ち着いてきたんじゃないですかね」ということらしい。まあ我々の仕事とは黙ってそこからなんとなく察することなのでそうするしかない。

 俺の印象に残ってる言葉として「あんまりいろんな人に自分のことで相談を持ちかけるようなことはしないが、赤羽さんには何かあるたびに相談してるかもしれない」ということがある。

 これはだいぶ前に言ってたことなので、今とはまるっきり事情がちがうと思う。(ゲーマーズの名義消滅や笹木引退復帰などがあった時期に近い)

 その頃は単にゲーマーズ1期生として話し合って決めていった方がいいことが多かっただけに過ぎないのかもしれない。

 それでも、叶はある種赤羽葉子を自らという船の錨のように感じているのではないかと察することも可能だ。人間関係において「自分のことを相談できる」というのはそういう捉え方をしても良いと感じるほど、俺は重きを占めていると思っている。

 何が言いたいのかというと、今回、赤羽葉子の配信がこうも立て続けに起こっているのは、「叶と赤羽葉子の裏での頻繁なコミュニケーションが今回たまたま表面化したから、こうも配信が多いのではないか」ということだ。

 裏では赤羽葉子は頻繁にアクティブ状態で、緑仙たちとも交流を行っていて、それが表に浮上するとき、赤緑weekや叶え葉weekのようなことが起こるだけで、今回の配信ラッシュも別に異常事態ではないのではないか。

 勝手にそう解釈している。あんまり裏でのやりとり決め付けすぎると、病気なるで。やめときや。

Twitter検索で「叶え葉」って入れたら「結婚」がサジェストされるのって俺だけ?


酒造り始めました。|Stardew Valley【にじさんじ/叶】

 

 このシリーズのサムネめっちゃ良いんだよな。@nioigusa418さんに感謝。

  回数を重ねれば重ねるほどこの2人の慣れきった関係性が際立ち、我々の脳細胞は甘くとろけて死んでいく。だからこういう切り抜きも作ってしまう。

 

 

 

 この2人の関係性というのは、他のにじさんじの色々な関係性のなかでも、ほかに類を見ないものだと思う。

 今をときめくゲーマーズ出身者たちの最初の1期生として、ずっと2期生以降の活躍を2人で見守ってきたのだな、と、そう思わせるような魅力がある。

 ゲーマーズ出身者たちは叶え葉が生み出したものではもちろんないのだけれども、ゲーマーズたちの父と母に見える幻覚を俺は感じている。

 夫婦―――、叶え葉を鑑賞する時、どうしてもそのイメージが俺の中から拭い得ない。

 俺がそういうたぐいの病気であることを差し置いても、「ゲーマーズはここから始まったんだな」としみじみ感じてしまう。

 この強化月間となりつつある叶え葉weekの幻想は、彼らのそういう関係性を感じるためには最適なシリーズとなっていると思う。

叶え葉はまだまだ終わらない


ここが僕の、僕たちの牧場。|Stardew Valley【にじさんじ/叶】

 あの熱狂のにじさんじミュージックフェスが終わった翌日になにごともなかったようにSterdew Valleyが始まったのには舌を巻いた。

 とくにこの配信のなかでにじさんじミュージックフェスに触れることがなかったというのもまたすごい。この2人ならではだと思う。(バネゴがっつり見てたみたいだし裏では感想を言い合ったんだろうけど)

 そして、さきほど(2019/10/04 夜現在)あのシリンソウUNOが明日あることが発表された。

叶え葉は終わらない……。

樋口楓の1stライブ『KANA-DERO』に行った後日談 -楓組じゃないでろーんファンの1月12日の感想/日記-

 でろライブに行った時のことを日記る。

起きた

 物販を買うためになるたけ早い時間の電車に乗ろうとしてなるたけ布団にIN DA 布団したんだけれども、いまいち寝れなくて22時に1回布団から出てPUBGモビールして0時くらいにもっかい布団に入ったものの4時に目が覚めたり5時に目が覚めたりしてを繰り返して結局5時だか6時だかに布団を出てライブ前日放送を見ながら卵焼きを作って食べたり(うまくできた)して身支度をした。

www.youtube.com 

あんまり早く行き過ぎて誰もいなかったら寂しいのでTwitterで現場の様子を探り探りしながら出発時間を探り探りしてこの動画を見終わったあたりが7:20でそのとき付いてきてもらった友達にそのあたりに出る旨を連絡して乗り換え案内で見たりすると上手いこと合流できそうということになった。

f:id:loveisalreadyyokujitsu:20190110165901p:plain

物販に6時間ならぶ

 コミケだとかアイマスのライブだとかに行く時は電車の中が同じ目的地の人が何人かいるな~って思うけど今回はぜんぜんそんなことはなく周囲を見回してもユニバーサルスタジとかに向かう人ばかりで桜島駅を降りたらユバーサルスになぜか遠回りしていこうと言う人たちの流れになぜかついていって途中までZEPPOSAKABAYSIDEと逆方向に行ったりした。

f:id:loveisalreadyyokujitsu:20190113233654j:plain

 8時、友人と合流して列に並んだ時点で前にいたオタクは1クラス分くらいで初めは寒くなかったけど11時12時、3時間4時間1月の寒空の下並んでいるとさすがに持ってきていた10個以上のカイロも次々と開封されて全身カイロまみれおたくとなっていった。

f:id:loveisalreadyyokujitsu:20190113233644j:plain

 なんか半袖のオタクが縦横無尽に待機列を行き来している、なんだあれは、さっきまでおまえコート着てたやろ、なんであえて脱いだ?「やっぱこのかっこうじゃ寒いなあ!」などとでかい声でのたまっておるんやが、なんなんだあれは、いったい。

f:id:loveisalreadyyokujitsu:20190113233631j:plain

 

f:id:loveisalreadyyokujitsu:20190113233617j:plain

 「フラスタ」それは俺がアイマスを追っているとき(いまもやめたわけではないが)に良く見た祝祭の象徴、それが『KANA-DERO』の会場前にも置かれていて、とても暖かな気持ちになったが、連れてきた友人はライブ自体初体験で、が自分の爺さんが死んだ時の葬式のフラスタ(?)の話をし始めて、最終的に爺さんの棺の上でデレステのAR機能で小梅を躍らせたらしく、もうその友人には「お前帰れもう」と言った。

買えた

 物販カウンターの人たちはみなにじさんじジャンパー着てて、「お、ウワサのインターンか!?」となってなぜかテンションが上がって無職だと言うのに物販アイテムを1万6000円ぶん全部買ったわけで、パーカーを買えた友人が小躍りしながら物販出口から出てくるもんだからまだ待機列に居る人の恨めしい視線が刺さって痛かった。

Kaede Higuchi 1st Live “KANA-DERO”

product

会場~梅田~会場へとタイムアタック

 暖冬とはいえ真冬で6時間待機分の防寒具を身にまとった俺はK2もかくやというほどのゴアテックスとポーラテックフリースと軽量ダウンを装備したままでライブに臨むわけにもいかないので、装備と物販の荷物をどこかに預けなければならないが、会場のロッカーに100L超の容量を保ったロールパック型バックパックが入るわけも無く、どうしようもなく巨大なロッカーが必要ということで梅田にわざわざ戻らなければならないわけだが大阪は適度に交通がH.A.P.P.Yなので20分もあれば余裕で戻れるとはいっても、14時半に物販購入が完了し戻ってアレコレソレで16時開場には間に合わないけど、行くしかないんだよ。

f:id:loveisalreadyyokujitsu:20190113233607j:plain

 タバコ吸うオタク、そんなにはちゃめちゃにうるさいやつって少なくね?とこの前友人に漏らしたことを後悔しているんだけれども、まあ実感としてそういうのがあるとして、とにかく時間がないっつってるのにタバコを吸ってるんじゃないよ、ここは大阪市内で一番サイコーな喫煙所で俺の中で勝手に天空闘技場と読んでいるLUCUA 1100の11階の外にある喫煙所でライブ前に一服している、赦して欲しい。

 6時間待機してライブに臨むとき、便所がスゲー邪魔になるんでケツの穴をダクトテープで塞ぐか飲み食いを最小限にするしかないわけだけども、俺は基本的にすぐお腹がピーピーになりよるんで、飲み食いを最小限にしているし、世界で一番愛している飲み物コーシーが飲めないのがほんとにつらく、タバコを吸う事で珈琲によっていつもごまかしている倦怠感・眠気・ダサさ・希死念慮・性欲をタバコを吸う事でタバコを吸うのだ。

開場に間に合い会場にTwitter

f:id:loveisalreadyyokujitsu:20190113235625j:plain

 写真は会場の写真を撮ろうとしたら目の前を撮影禁止の札がよこぎっったのであわててiPhoneを仕舞おうとした時の写真。

 ZEPPOSAKABAYSIDEに戻ると、丁度俺の整理番号が呼び出され、なんとなくスーッと待ち時間ZEROだったんでよかったね~だったんだが(オタク)とにかくこの会場のなかはメチャかっこよいのだ、こんなかっこよいところでオタクライブやるってのがホントマジ樋口楓性性性性って感じで樋口楓感~つってどうにか倦怠感や眠気をカマすため再度喫煙所にINDAHAOUSEした。連れてきたやつは整理番号が連番じゃないのでこのあと一生彼と会うことはなかったという。

 ライブを最前詰め詰めしたり落ち着いて座ってみたりなんだりできたためしがないのでもう最初っから最前狙っていこうもう知らん体裁とかダサいとかもうええわもうつって最前に近い扉から入ってスッスッスッする。

でろライブのオタク

 「意外と女の子多くてよかった~」ってツイ見たけど、ふつうに男ばっかだったけどまあアイマスよりはちょい多かったかな?ほんの若干だけれども、なんとか前に詰めていけそうな位置に身体をインサートしたらうしろのオタクがこういうはてッブとかツイッとかに書けないようなことばかり言っている、俺は知っている、それはとある場所でしか使われない負の符号、それをこのような公然の場で堂々とデカい声で友人と口にするなぞゆるさんぞ、殴るか、そしてお前ら完全にオフ会やなカスどもアカウント名で呼び合ってるのバレバレやぞ殺すぞ、絶対赦さん、アカウント名覚えといて晒せばよかった、絶対赦せない悪の権化のようなことばかり後ろでデカい声で話し続けている3人組、カスども、人の風上にもおけずインターネットの藻屑となってふつうに就職してデキ婚してインターネットを去っていくクソ雑魚ども、貴様らは

 

円陣の声が聞こえる

 憎悪は全て、その瞬間に吹き飛び、その瞬間から既に、「WISH」前のさざなみの音が聞こえていたような気さえする。

  それはきっと、樋口楓、その彼女の声だった。

 ライブ前に円陣を組んで団結する、その映像が脳裏にフラッシュバックする。それは、ライブDVDなどでしか見ることのできない、そのときの会場にいる客たちは知る由も無い、演者たちだけの秘密の団結の言葉。

 俺たちは、今までインターネットを経て、機械を経て、彼女たちのその声を聞いてきたし、それで十分過ぎるほどに充たされてきたはずだった。そのとき最前列付近に聞こえてきた声は、そういうたぐいのものではない。

 彼女のその腹から出でて、喉を通って、口から発せられたその空気の振動が共鳴し、俺の鼓膜を震わせる。

 頭の中に驚きが光り、いつかみた円陣の映像がフラッシュバックし、ようやくなにが起きたのか理解できた時、会場は歓声で充たされた。

 ライブのスタートなのだ。

Maple

 彼女が「歌うもの」としての最初の一歩のその曲が会場にかかる。

 勇気ちひろさんが前説を担当した時、夜が更けるにつれて増えてゆく星のように青や水色のサイリウムの光が増えていった。

 その色彩がひっくり返ったかのような会場のオレンジ色は、樋口楓彼女の登場によって沸きあがったボルテージと同調しているかのようだ。

Brand-New LIVE~焼森のファンファーレ

youtu.be

 事前にコールや色替えの周知があった2曲が先陣を切ったということが、OP曲で発生した勢いをさらに激しいものとした。当然だけれども声を出したりなんだりするライブというのは後半みんな疲れてきてる感と言うのは否めないし、実際最初に全力で声を出していた人たちは少なからず後半には声が嗄れているので、前半と後半では歓声の圧がちがう、というのはある。

youtu.be

 だから、「焼森」までがサイリウムの振り、声の勢いともにライブ中のなかでも一番すごかった。とはいえ俺は焼森くらいまでには最後までいた位置にいて、そこは前から3列めだった。オタクライブなので毛皮のマリーズ最前に比べるとまだマシとはいえ、それでも後ろがどうなってんのかとか、逆サイドがどうなってんのかとかはもみくちゃで分からん。コミケ三日目オリジナルエロの島中にせみもぐらさんがいるときのようなかんじだ。

youtu.be

現地でコールとサイリウムを行うということ

 とにかく最前左側付近の勢いがMAXの状態で、指示されたコールやサイリウム振りが2曲連続でカマされカマしをしたという快感は確実にこの世に存在している。こういうことを書いていると、どうしても「コール」や「サイリウムの光」が苦手な人の気持ちのことを考えてしまう。直前に公式から禁止事項を伝えられたのもまあ、なんとなく頭に残っていたのだろう。

 声を出せない人間が、サイリウムを振っていない人間がライブを楽しめないなんてあってはいけないし、声を出す人間が、サイリウムを振っている人間が、そうでない人間のライブを邪魔するなんてことがあってはならない。そんなことを考えながらでろライブに参戦しても、どうしても声を出したら楽しいという感覚、サイリウムを指示通りに振る感覚というものが楽しいのはどうしてもゆるがせないものだと思ってしまった。

 それに加えて、今回はニコ生でライブの生配信があった。

live.nicovideo.jp コールとサイリウムの是非について考えていると、「現地に来れない人」のことも考えてしまう。それぞれの理由があって、ライブに来ることができなくても、直近の情況というのは、ライブがそれぞれの環境でも生配信というかたちで持っている端末で参加することができるようになった。

 現地でしか楽しめない感覚、それを端的に言いやすいのが今回で言う「サイリウム」と「コール」になる。でも、「現地でしか楽しめない」ものというのは無い方が良いに越したことがないと思ってしまう。

 思いつきで書いていってるから話があちらこちらに行くってのもカスだし、にじさんじのライブイベントをレポってんのにアイマスのライブの話ばっか出してうんこなんだが、「現地」と「それ以外の参加」の差というのは、「アイマスライブを現地で見る」良さと、「アイマスライブを映画館のライブビューイングで見る」それぞれの差を当て嵌めていくことで解決していけそうな気もする。

 「現地」と「ライブビューイング」を比較したとき、どちらも経験しないと分かりづらい感覚とは思われるが、「現地はライブを見るのには向いていなく、ライブを見ることに集中できるのはライブビューイング」という一見矛盾した事実が浮び上がる。ライブはたしかに、客の密集度でまったくリラックスできなかったり、サイリウムやコールに意識がいってしまうという事実がある。それに対してライブビューイングは座席間隔的にもコールやサイリウムの存在感や圧迫感も現地よりはかなり余裕がある。それに、当然ながらライブビューイングは演者とそれにまつわる演出が安定して中心に映されるので、超爆神見やすい。当たり前のことだけどこれがけっこう実感としてデカくて、現地行った次の日にライブビューイングとか見ると、演者と演出が見やすくてびっくりして感動したりする。

 このライブビューイングの見やすさというのは、現代のインターネットにおいて自宅でライブが生配信を視聴している時の良さにも適用できるんじゃないかと思う。ライブ自体を咀嚼して消化することに集中したい場合、はっきり言って現地に行くのは悪手かもしれない。記者が座っている関係者席は大体ライブの最後尾に設置されていることにもそんな意味付けがあるのかもしれない。

 では、現地に行く意味とは?

 今回、ぐちゃぐちゃと「現地のくそうるせえオタククソうぜえ問題」を考えながら行ったにも係わらず、それら全てが吹き飛ばされるように「現地でしか得られない歓び」を享受してしまった。

「生の声を聞いてしまった」

 正直まあ、「生の声を聞いた」なんていって感動するのはVの作法的に下品にあたるのかもしれない。でも、俺はあの声を「聞かせてもらった」「届けてもらった」という感覚が拭えない。なんらかの拍子に聞こえてしまったというようなたぐいのものかもしれないのだが、俺はあの声も含めて「ライブ」だったと思っている。下品なのかもしれない、という認識がたしかでも、「聞けてよかった」という感覚しか残っていない。あの喜びは、たしかに現地にしか存在しない喜びなんだろうと思う。

 我々がバカみたいにコールしてアホみたいにサイリウムを振っていると、どうしようもなく楽しいのはなんなんだろう。俺はそのどちらの行為も、演者が望んでいるなら全力で返すべきだ、そうでない範囲のことはしてはならないと前の記事で書いた。 

loveisalreadyyokujitsu.hatenablog.com

 単純な話なのかもしれない。カラオケに行く、ボーリングをする、そんな声を出したり身体を動かしたりして、どれだけカラオケでウェーイするのもヴォーリングでウェーイするのをバカにしていても楽しいもんは楽しい、そんな楽しさがあるってだけの話かもしれない。カラオケは大声を出すのを許される場所だし、ボーリングはプレイの結果に一喜一憂するのが許されている場所だから楽しいし、その範囲を超えて騒ぐのはクソということなのかもしれない。まあ我々オタクはなんとなく日々抑圧されているような気がして生きているので、そういうのが許されて実際行動に移すと解放されるという部分があるんだろうたぶん。

 ライブの話に戻ろうね。

ゲストのエルフのえる、けろっぐふろっぐ、いけないボーダーライン

youtu.be

 正直、えるちゃん氏、めっちゃ緊張してて、パフォーマンスにもそれが出てて、若干しょんぼりして帰っていった感はある。でも、たしかにえるちゃんの気持ちを考えるととてもアレではあるんだけれども、俺はそれも含めてよかった気がするし、けろっぐふろっぐがうまくいかなくて、いけないボーダーラインで盛り返したこと、そこにえると樋口楓の関係性が出ていたような気がして、とてもよかったと思う。だから「良かったんだよ!」という想いの発露で正直「えるちゃーん!」とめっさ叫んでしまったんだよな。

 ZEPPOSAKABAYSIDEってのは、めちゃくちゃでかい箱で、いくらリハを入念にやっってたとしても、そのライブ本番に飛び込んでいって、いきなりもてうる限りの最高のパフォーマンスを発揮できなかったとしてもしょうがないし、むしろ完璧にやりきった樋口楓のダイヤモンドのメンタリティとか40個ぐらいある肺と喉が異様で、夢物語を目の当たりにしたかのようだった。そこで、えるちゃん氏がけろっぐふろっぐがうまくいかなくて、いけないボーダーラインで取り戻していくと言うのはある意味とてもリアリティがあってその展開に感動してしまっている感がある。

 リアリティ、それはVのプラットフォームとして市民権を得た配信サイトの名でもある。

REALITY|VTuberと未体験の交流ができるライブ配信アプリle.wrightflyer.net

 Vを見る時、大部分で俺は「リアリティー」を期待して見てるようなところがある。なんのリアリティーか、それは「キャラクターでありながら『人間』を感じさせるリアリティー」だ。えるちゃん氏のパフォーマンスでそれを十二分に得た俺は、「でろライブのゲストは、『樋口楓とそのゲスト』の関係性が次々に提示されいく演出」なのだとしか思えなくなっていく。

ゲストの静凛、God knows…、Dress Me Up

youtu.be

 お次のゲストは静凛。「いつも見てるような静凛と樋口楓の関係性が生ライブで見られてありがてえ〜」って話をするためにさっきああいう締め方したけど、俺の信教の関係で、済まぬがGod knows…の話をするぞ。ドレスミアもさらっとこなしてさすがの安定感を出した静凛の緊張しても落ち着かせて自分を出すやつもかっこよかったぞ。

 日記なので俺の話をするぞ脈絡もなく。日記なので。俺はいつか、いつの日か、「オタクライブの生演奏でGod knows…が聴きてえなあ」つって生きてきたんだこのオタクになってからの十数年間。それが急に叶えられたんだ。好きな女の地元のライブで、突然にその時が訪れたんだ。奇跡だと思ったし、俺の人生のマジな値で言うと、7パーセントくらいの伏線が回収されていく感覚があった。全人生の7パーセントの欲求がわずか4分ちょっとの間に急速に満たされていく感覚がわかるか。そうとしか言えない感覚が4分ちょっとのあいだに俺を襲い続けた。

 それは、もしかしたらさっきの「いけないボーダーライン」で同じ感覚を味わったオタクもいたんだろう。なにが言いたいかと言うと、カバー曲をライブでやる意味ってのはそういうことだってことだ。

God knows... ''The Melancholy of Haruhi Suzumiya'' 【涼宮ハルヒの憂鬱】【ベース 演奏】 - YouTubeyoutu.be

 やっぱここで客席のキョンとステージのハルヒの視線が交差しないのやっぱ最高だな。

休憩時間にコメント欄大喜利が現出する

 みなさん、配信のコメント欄って、どう思ってますか。俺はVにハマり始めて最初のほうは、全然コメント欄を直視することができなかった。やっぱり、自分が同じ穴の狢だとわかっていても、気持ち悪いと感じるものは直視できない意識がどうしてもある。それもいずれは慣れて、俺ももうたまにコメント欄の発言にクスリとするようになっていく。

 ただ、10分間のこの休憩時間にオタクたちが今まで発してきたコメントがリアルの声として現出するとなると、本当にキツかった人も多かったと思うし、そう感じるのは当たり前だと思う。でも、ライバーたち側からするとみんな、コメント欄がないと本当につらいと思うし、コメントに生かされてみんなここまで来たというのは事実だろう。そういうふうなポジティブな捉え方をすれば、ライブの休憩時間にコメント欄さながらのしょうもないクソレベルの低い大喜利が発生して、今までの彼らの発言「いっぞ!」「ピース!」「やってんねェ!」「パチ屋の扉が開かれた」「樋口楓の顔がいい」というようなことを大声で叫ぶ流れができたのも、一概に最悪なことだとも言いづらい気がしてくる。

 休憩時間が始まった当初、この「KANA-DERO」のメインビジュアルがスクリーンに映し出されたところからその流れは始まっていった。

焦茶 / CGCh on Twitter: "改めて今週末の「KANA-DERO」よろしくお願いします。自分はビジュアルとロゴやってます。… "

 

 ただただ無音でこの絵がスクリーンに映し出されているのが、1分か、2分経ったあたりで誰かが「顔がいい!」と叫んで、それが、ウケた。よくよく考えたらこのライブって大阪のライブだし、まあウケを取りたい人間が多いのもさもありなんという感じがする。東京でライブ見たり同じ人らのライブを大阪で見たりしてると、大阪の客の方がうるさかったり、よく言えば盛り上がりが良かったりするのは事実だし。そこから、誰かが伏見ガクの決め台詞である「ピース!」を言い出したり、コウの「いっぞ!」を言い出したりして、コメ欄が徐々に会場に現出していった。

 決して一概におもしろくてよかった、とは言いづらい現象だったけれども、「いつものオタクたちのコメント欄がライブ会場というリアルな場所に立ち現れた」と考えれば、まあなんかカッコよかったような気もしてくる。

https://twitter.けけcom/udukikohh/status/1084027287299715073

 俺の中では結局のところ「まあ卯月コウが喜んでのでよしとしようや」というところで落ち着いている。オタクに嫌気が差した時、卯月コウのことを考えるとある程度癒される効果が知られている。

https://twitter.com/udukikohh/status/1084027287299715073

月ノ美兎登壇、dream triangle

 我らが委員長の登壇。正直この時から委員長は様子がおかしかったように今から思えば、感じる。いや、その時は「さすがの委員長も緊張してるんだな」ていどに考えていた。

 JK組のバランス感はすごい、樋口楓はなんどかそう言っていたし、俺も同じように感じる。だから、3人が揃ったときの安心感を、そのときも感じたのを覚えている。それはたぶん、ライブを楽しみに来ているんだからそれに没頭すればいいのに、「推しのライブ」とかいうオタク特有のエゴい考えで、多少「無事に完遂するだろうか」とハラハラしながら見ていたという甘っちょろい考えが当時の俺にはまだあったんだろう。そんな考えは、その後、すべて吹き飛ぶ。

youtu.be

 dream triangleには3人の歩んできた「それまでの集大成」と「これからの希望」が詰まっている。えるちゃん氏が歌ったあとに感じた「今まで見てきた関係性がライブとして提示されていく」というものの極め付けとしてこの曲があったように感じる。

 そして、正直に言うと、俺はJK組の様子を見て安心したのと同時に、「ゲストの最後の組み合わせに『楓と美兎』が来るのか…」という緊張感に脳を支配されていた。たぶん、いちからやにじさんじのスタッフがライブ演出をしたならば、「ゲストの最後の組み合わせはJK組」ということにして大団円させたかもしれない。それの方が安定感があるだろう。でも我々はすでに知っていた。このライブの演出に樋口楓、彼女が深く関わっていること。そして、最後の組み合わせとして「楓と美兎」を持ってきたのは彼女なのかもしれないということ。いつも安定感のある委員長の様子、樋口楓による「樋口楓」。来るべき時がやってくる。

楓と美兎、そして……

www.nicovideo.jp

  静凛がsoキュートに去っていき、残されたのは平成最後の百合が二輪。「アオハル」をこのライブまで取っておいたこと、その感慨深さなどを2人で話しているのを、俺たちは見ていた。これからなにが起こるのか、それとも、起こらないのか。いや、なにも起こらないわけなんてないと、最初から、ずっと前からわかっていた。2人で仲睦まじげに話している様子も、アオハルを楽しそうに歌い上げているときも、委員長がなんとなく本調子でないことがなんとなく気にかかっていた。それは、次の曲の演出によるところが大きかったのだろう。

 ついにそのときはやってくる。

命に嫌われている

youtu.be

 今回、樋口楓は自らで自らを演出した。今までの『楓と美兎』配信の断片がカッティングされて次々と流れていき、曲が始まる。俺はこの時まで、この曲のことを知らなかった。この曲を、初めて知ったのがこのライブで本当に良かった。この曲は、このライブの参加者の胸に深く、深く刻まれる。

 知らない曲だったけれども、すぐにこの曲が「ボーカロイド楽曲」だと察した。語数を詰め込んだような歌詞とメロディ、高音域のサビはその特徴が明らかだった。2人の歌唱はラスサビに近づくにつれて、叫びじみたものになっていく。2人の死生観に関しての実際の配信での発言を利用した演出は、2人の叫ぶような歌唱と共鳴していように感じた。

 月ノ美兎が、見たことのないような緊張をしていたのは、彼女が初めて、このような「演出」に巻き込まれることになったからではないか。

 月ノ美兎本人は、ほかのライバーが時折やっているような「シリアスな物語設定」を付与して自己を演出するようなことはなく、道化として、アイドルとして、トークを生業にする者としての自分を徹底していた。樋口楓は、あくまで今までずっと自然体だった。もしくは、自らをそう規定していた。自然体だからこそ、視聴者であるこちらが「それはシリアスなことだ」と捉えるか、「それは取るに足らない日常だ」と捉えるかは受け取る側にに任されているような印象がある。そんな2人が初めて、「2人の関係性を自らの手でシリアスに演出する」という違和感、それにともなう緊張感が、今から思うと登壇したその時から委員長にはあったように感じる。

 ただ、もしかしたらたった1つのアイデアが、樋口楓に降ったにすぎないというのも思った。いままでにじさんじライバーの一部がやってきたシリアス展開を、樋口楓は心の底から楽しんで見ていたとする。その身ははじめてのソロライブを自ら演出したいという意志に満ちている。そんなとき、だれかVが「命に嫌われている」を歌唱しているのを見たのに触発されて、「楓と美兎が、死生観について話している」ということに興味津津に考察している我々のような者たちが脳裏に浮かんだとする。それらの要素が繋がって、「やりたい!」というアイデアを思いついたにすぎないのかもしれない。

 だから、彼女がこのライブで「みんな考察するの好きやもんね」と言っていたように、俺たちが考察するのは意味がないことなのかもしれない。でも、今回樋口楓が俺たちに与えてくれたのは、俺たちが「考察」をすることに対しての赦しに近いものだったようにも思う。「こういうの好きやろ?」と無邪気に笑って「命に嫌われている」を、普段から「考察」している俺たちにぶつけてきたとき、俺たちはただただ享受し、喜ぶしかない。

 だから、とても、嬉しかった。それと同時に、俺がつまらないエゴを彼女に対して持っていたことを思い知らされた。俺は、「樋口楓の成長を見守っている」と勝手に思い込んでいた。後方彼氏ヅラみたいなもんだ。でも、今回完全に樋口楓は俺より圧倒的上位にいる存在だということを示し、それをただただ受け入れた。彼女に対し「すごい、すごい」とは思っていても、頭のどこかで「どこにでもいるような自然体な女子高生」であるとも軽んじていた。でも、今回のライブで具体的にそうではないと思い知らされた。意識的にも、無意識的にも、「樋口楓はとてつもなくすごい力を持っている」と脳に浸透し切ったタイミングが、俺にとってこのライブだった。今までの自分が本当に恥ずかしいとさえ思う。反省文が書ける、マジで。むしろこの記事がそうなのだ。

 でも、さびしいという気持ちを持つことを許してほしい。今まで「応援してきたアイドルが俺たちの及ばない大きな舞台に飛び立っていった」という演出を他の媒体に於いても今まで何度となく受け取ってきた。それと同じ感覚がどうしても、ある。樋口楓、彼女の才能を信じて今まで応援してきて、彼女がその才能を発揮してどんどん思い及ばないような大きな存在になっていくとき、「寂しい」というエゴがどうしても心に残る。

 いくら俺が寂しくっても、それを凌駕するくらいの凄味を今回味わって、最後に残った感情はとてもさわやかなものだった。今まで信じていた彼女の才能は、確かなものだった。そして、今後も俺のおよびつかないほどにでかい存在になっていく。そのうれしさとさびしさがあわさった気持ちというのは、涼やかで心地よいさわやかさがある。今までVに関してモヤモヤと感じていた不満やなんかもすべて浄化されたと思う。たぶん。

樋口楓のソロは最後にやってくる

 「命に嫌われている」が終わると、月ノ美兎は去っていった。「ありがとっ!」と最後に言い放った月ノ美兎は緊張が解けて、いつもの彼女であるように見えたことが、印象深かった。まあ、あれだけ凄まじい演出と歌唱をしたんだから、肩の荷が下りたんだろうな、ってことも思った。

 そして、樋口楓は自らの顔を腕で隠した。これもまた彼女による自らの演出であり、「涙かもしれない、ちがうかもしれない」という仕草に見えた。「ありがとっ」と月ノ美兎が言ったときに、「泣いたか、そうでないか」という仕草をして、樋口楓のソロ歌唱が始まっていく。

楓色の日々、染まる季節

youtu.be

 バラード曲は、結局この一曲だけだった。「涙かもしれない」仕草のあとにこの曲をやるという自然さや、今までの「楓と美兎」の総集編のような演出をしたあとに「今までの日々」のバラード曲をやるということはとても良かったんだけれども、正直俺としては「命に嫌われている」で呆然となってしまったままこの曲を見ていたので、細部までの記憶がなく、ただ「最高だ……」という感触だけが残っている。

イカラ浪漫

www.nicovideo.jp

 この曲あたりで意識が戻りはじめる。ハイカラ浪漫は月ノ美兎の言う通り、「楓ちゃんにぴったりの曲」だし、楽曲のクォリティみたいなものって無知なんでよくわからないけど、この曲はとても仕上がっている感じがしていて好きだ。

 なにより「この曲はきっとライブで聴けたらきっとたの椎名〜!」と思っていたので楽しみだったのだ。まあ「命に嫌われている」で完全にカマされてめっちゃ覚醒しているのに寝起きにいきなりサイリウム振るみたいな感じになってはいた。

 それでも、この曲はめちゃくちゃ楽しい曲だ。「命に嫌われている」で頭ン中が「???」になってるオタクがワケもわからんまま和ロックな曲で踊り狂うみたいな雰囲気はちょっとした祝祭感があってとても印象深いものがあった。

響鳴

 上の小見出し打つときに「鳴り響く」って打ってからひらがなを消そうと「鳴響」と打ったものの、「鳴り響く」の感じ部分を反対にして「響鳴」じゃん!かっこいい~!って思いながら小見出しを打ち直した。

 命に嫌われてから楓色の日々に呆然としてライブの歓びを享受して、ハイカラ浪漫で無心で盛り上がったあとの曲なので、ひたすら最高にかっこよくて楽しかった。

 ライブ一番泣いた曲も、ライブで一番盛り上がった曲も、もちろん心に残っていく曲にはなるのだけれども、ライブ後にずっと繰り返し聞き続ける曲ってのは、ライブで惚れた曲だと思う。そういう求めていたかっこよさが響鳴にはあった。

 ふと思ったけど、音楽系のにじさんじライバーがでろライブを目の当たりして、完全完璧不動なる指標と完全完璧になったの、最高だな。そのライブに参加できてよかった。

Maple Dancer

youtu.be

 俺は、樋口楓という存在に触れ始めて、好きになってからもしばらくは歌を聴く事ができなかった。彼女に絶対にハマりこんでしまうことを、十何年かのオタク生活によって培われた本能が察知していて、ハマり込むことがこわかったのだ。尊すぎて入る†┏┛墓┗┓†

 でも、当然ながらいつまでも聴かないままでいるわけにもいかない。そこで初めて聴いた曲がこの「Maple Dancer」で、そこからこのライブに至るまでのにじさんじに浸かりきった生活は本当に楽しかった。

 「Maple Dancer」のようなシンプルなロックナンバーが彼女の代表曲となっているというのもまた、彼女を形容しているかのようでとても嬉しくなる。嬉しくなる、っていうのもまた後方彼氏ヅラなのか?よくわかんねえな。

 ライブ会場にいる全員が、「最後はMaple Dancerなんだ!」という期待に充ち切って、その喜び、嬉しさがギラギラと煌いたかのような演奏・歌唱だった。当然ライブも終わり間際になってて樋口楓の声は嗄れが入っているんだけれども、彼女は俺の予想では肺と喉が80個あると思われるので、それさえも「良い声」に聞こえるというのもまた嬉しかった。

アンコール WISH!、奏でろ音楽!!

 アンコール曲演奏前にずっと流れていた、さざなみの音、あれが何をあらわしていたのか、俺が勉強不足なせいでよくわかっていない。でも、ライブの最後に残す印象としてぴったりで、WISHとさざなみの音はもはや俺にとって切っては切り離せないものになったような気がする。「さざなみの音が聞こえる」というのと、「WISH!」という曲の相性はとても良いと思う。

 

www.excite.co.jp 当時の俺は知能指数が0.00000013だったので、この記事で「WISH!」が歌いづらかった、と吐露していたことに対して「あ~わかるな~」と思ってしまっていたのだけれども、まあその愚かさはいっそ置いておくとして、俺がそのときに「わかるな~」なんて思ってしまったことがなぜか自分のことながらとても不思議で、この記事は妙な印象が残っている。

 それは俺が「WISH!」を初めて聴いたとき、「一筋縄ではいかない曲だな」と思ったことに起因するのだろう。爽やかで明るく、安心感さえ感じるようなメロディーは「奏でろ音楽!!」を思わせる。でも、歌詞とMVはとても示唆に充ち満ちたもので、それは俺たちがでろに対して「そこらへんにいる普通の活発な女子高生に見えて、実は…」といった感触を表現しているかのように感じた。

www.youtube.com

 一見「奏でろ音楽」が順当に進化したものが「WISH!」であると見せて、実はそうではなく、むしろ対にさえなっているのではないかと思う。

 このライブに冠されたタイトルは「KANA-DERO」で、それはもちろん「奏でろ音楽!!」にまつわるタイトルだし、むしろ安直なようにも思えるが、内容は決してそうではなかった。

 「命に嫌われている」を筆頭として、このライブというのは「樋口楓による、『樋口楓』という作品」を我々に提示したという意味合いがとても強かったように思う。今まで当然だと自分たちのなかで思っていた、「樋口楓は『樋口楓』として日々を送っている」ということを、樋口楓も認識しているということが露になった。

 バーチャルYouTuberならではの入れ子状の「自覚」、それがをライブ演出として使ったのは他の誰でもない樋口楓だった。

 つまり、「パーソナリティとしての樋口楓」と、「キャラクターとしての樋口楓」が存在し、「パーソナリティとしての樋口楓」が解釈する「キャラクターとしての樋口楓」を見せてくれたのがこのライブだったとおもうのだ。

www.youtube.com

 その最後の二曲こそ、「奏でろ」と「WISH!」だったのは、このライブの構造を体現していたようにも思える。

 「奏でろ!」はバーチャルYouTuberとして走り始めた原初の樋口楓で、「WISH!」はこの一年での経験を踏まえた現在の樋口楓あると、そう解釈はできないか。

 原初の樋口楓とは、なにもないまっさらなパーソナリティに「樋口楓」という名前を付けられた存在。現在の樋口楓とは、バーチャルYouTuberであるキャラクターがこれまでのストーリーによって変化がもたらされた樋口楓。

 パーソナリティとしての樋口楓、つまりそれは『樋口楓個人』ということ。今こうしている時も「『現実』というストーリーの中に生きている樋口楓」、つまりそれは『樋口楓というキャラクター』。

 『樋口楓個人』の曲が「奏でろ音楽!!!」で、『樋口楓というキャラクター』を表している曲が「WISH!」であるように俺は思っているし、『樋口楓個人』が『樋口楓というキャラクター』を解釈して成ったのが今回のライブでの「命が嫌われている」だったのではないだろうか。

 「KANA-DERO」、このライブがそう題されたのはそういう構造があったからこそだったようにも思えてくる。

ライブ会場を去り、トリキのマスコットが俺を出迎える

 

f:id:loveisalreadyyokujitsu:20190113235551j:plain

 搾りカスのようになっていた連れを引きずって、梅田の鳥貴族へ。

 俺は当日レポエムをアイパアッドで抽出しながら、話す話題はもっぱら最後に樋口楓が俺たちに手渡してきた手紙についてだった。

 

loveisalreadyyokujitsu.hatenablog.com

  最後にスクリーンに映し出された、樋口楓、その彼女直筆のメッセージ。「みと夏」で彼女の手紙の一通目を見たとするならば、彼女の手紙を見たのはこれで二通目となる。

 そこには、「樋口楓という存在の終わり」について触れられていて、連れてきた友人はそれが心に残ったらしい。

 俺は性質上、バーチャルYouTuberの終わりについてよく考えることがあるので、今回樋口楓がああいうふうに自身の終焉について触れたことに対して、ドキッとはしても自分で想定していたほどの驚きと言うのは無かった様に思う。

 でも、友人はけっしてそうではないだろう。押し付けるようにして見てもらったとはいえ、1人のキャラクターが、1人の人間が自身の「終わり」について言及するというのは、あるていどまじめにオタクをやっていたならばそれはショッキングなことにはちがいないのだ。

 ただ、俺はライブを経てトリキでメガハイボを飲んでいる俺の心境は、あまりにもさわやかで心地よい心象風景に充たされていた。

 そのせいで、あまりにも自然に「いつか終わる時がくる」言った樋口楓の言葉をすんなり受け入れることができてしまった。

 「そうだよな」「その通りだよな」と心の底から受け入れることができたのは、樋口楓が飛び立っていったというさびしさが、高揚とともに合わさって清涼感に変換されたことによるところが大きかった気がする。

 この清涼感というのが本当に無敵で、俺はそれまで「高揚感」「ワクワク・ドキドキ」がオタク体験の中で最強かと思っていたけれど、この清涼感はどの体験にも勝る強度を誇っていて、どちらかというと瞑想や禅に近い。知らんけど。

 前の記事でも書いたが、さよならというのはきっと、悲しいばかりのことではない。

 そして、俺はそのことを樋口楓は伝えたかったのだと信じている。

 Vに浸かることは、ライバーもリスナーも楽しいことばかりではない。

 やめていく人、戻ってくるということ、新しく入ってくるということ、留まっているということ、それぞれに嬉しいことと、つらいことがある。

 でも、一見ネガティヴに聞こえる「別れ」や「終わり」つらいことばかりではないはずなのだ。

 そのことを、このライブで俺は受け取ったし、樋口楓はそのことを伝えてくれたんだと思っているし、そう信じている。

帰宅

 家に帰って、お気持ちポエムを排出したあと、なんとなくライブ後の喫煙所で出会った長野から来たという2人組みのことを思い返していた。

 連れてきた友人に「あの楓と美兎の曲なんて曲やったんやろ」と俺が漏らしていると、「『命に嫌われている』って曲ですよ」と教えてくれた若い男子2人組みのことだ。

 彼らは『命に嫌われている』がそれほど古くも無く新しくも無い曲であることや、他のVが歌っていたのが評判だったこと(ユニちゃんのことだと思う)などを教えてくれたあと、彼らは自分たちが長野から遠征で来ていて、朝から物販に並びに来ていたことを話してくれた。

 そして彼らが別れ際に話していたことが印象的だった。

 ライブ自体がが本当に良くて心に残ったからこそ、深夜バスに乗ったり朝から長い列に並んだりしたのも含めて最高の思い出になった。

 彼らはそう言っていて、俺は今回遠征ではなかったけれど、とてもよく分かる気がした。

 飛行機に乗る、電車に乗る、友達と待ち合わせをする、メシを食う、宿に泊まる。そのすべての行程が「ライブだ」と思えるのが「良いライブだった」と記憶に残すために必要なのだ。

 それは無意識下でなんとなく思っていたことだったけど、今回喫煙所で見知らぬ2人組みと話し、言語化されたときに、かつて自分が体験した「旅を含めてのライブ」という感覚を、第三者が感じているのが無性になぜだか嬉しかった。

 彼らにとって、ライブに旅がそのものが含まれたのが、このライブが大成功だったという証明になった、そんな気がしたのだ。

樋口楓の1stLIVE『KANA-DERO』に行ったその日

Kaede Higuchi 1st Live “KANA-DERO” 

 俺はいったい樋口楓をどんな女の子だと思っていたのだろう。

 自分の想像の中で、型にハメてやしなかったろうか。

 「樋口楓は、裏表がなくて、思ったことを素直に言って、ときどきそのせいで奇想天外なことを言って、友達を常に大切に思っていて、粗暴のように見えて繊細な感性を持ち合わせていて…………」

 そんなふうに、型に当てはめてはいなかったろうか。

 

 でも、そんな杞憂も今回のこのライブで、全てお終いなのだ。

 今回樋口楓はライブの内容に非常に深く関わっていたという。

 セトリや演出は深く関わったと、そう公言していた。

 

 「命に嫌われている」

 この曲は、樋口楓が我々に見せた、ひとつの解釈だった。

 なんの解釈なのか?‪

初音ミク Wiki - 命に嫌われている。 #atwiki https://www5.atwiki.jp/hmiku/pages/36604.html

 単純に言えば、かえみとなんだろう。

 でも、単純なカプの話というだけでは、けっしてないのだろう。

 

 樋口楓の楽曲、それはファンメイドのものが多い。

 ファンがイメージソングを作って、それを彼女が歌い、ライブで披露した。

 ファンが彼女の今までの軌跡を解釈して、作成された楽曲が多い。

 「樋口楓」としての彼女が歩んできた軌跡が彼女自身によって歌われる。

 ファンが作った彼女の像がその楽曲たちにはある。

 

 「命が嫌われている」このライブでの演出とは、樋口楓の樋口楓による解釈の提供だった。

 このライブでの演奏を通して『KANA-DERO』全体を見ると、ライブ全体が樋口楓による樋口楓の解釈の提供にも見える。

 それは、決して二次創作に対して公式が出した「正答」とは、また異なる。

 俺には、樋口楓による樋口楓の二次創作に見えた。

 正答ではなく、樋口楓による樋口楓の1つの解釈。

 それが意味するところとは?

 

 ライブ演出として使用された、「楓と美兎の死生観」

 それと、彼女がライブで最後に語った「自分という存在の終わりの示唆」

 これは全く分離された2つの事柄ではなく、関連性をもった2つの事柄に思えた。

 命ある限り、やり続けるという意志。

 その「命」とは、誰の命か。

 樋口楓の命とは、どんな時どんなタイミングで終わりを告げるのか。

 歌がいつか終わるのと、同じようにして、樋口楓という存在は終わっていく。

 そのことを不意に示唆されたような気がした。

 

 でも、その示唆はまったく暗いものじゃない。

 人ーーー、もしくはキャラクター、その終わりに悲しみはぜったいに付きものだと、そう思っていた。

 でも、いい曲を聴き終わったあと、その終わりを惜しむ気持ちは悲しみではなく、もっと明るい気持ちになりはしないか。

 

それと同じように、樋口楓は樋口楓による二次創作によって、「私の終わりは、この曲が終わる時のようにいつかは終わる」

 と、そう感じた。

 この『KANA-DERO』で見たオレンジ色の光のように、明るい曲を聴き終わったときのように。

樋口楓の1stライブ『KANA-DERO』に行く前日譚 -楓組じゃないでろーんファンのためのでろライブ準備篇-

 このブログ記事はにじさんじバーチャルライバー樋口楓さんの初ライブ『KANA-DERO』ライブに臨むための準備を3つに分けて書いています。

「初心者向け」(コール(声だし)をどうすればいいか) 「心得者向け」サイリウム(ペンライト)をどうすればいいか) 「ガチりたい人向け」(グッズ物販をどうすればいいか)

 各リンクからそれぞれの章に飛ぶことが出来ます。

間違った情報を伝えていたため、1/11 17時に記事を修正しました。

修正事項におきまして修正後のサイリウムの所持を再考しました。

1/12 6時 「けろっくふろっぐ」の公認家虎について追記しました。


event.nijisanji.app 俺は、樋口楓を愛している。

 でも、自らを「楓組」と称すことはないし、Twitterのbioに書くこともできないし、公式の配布画像であってもアイコン画像を彼女のものにすることはない。

 頭ではわかっている。「楓組」と名乗ることで所謂同じ「推し」を持つファンたちと交流が盛んになり、自分のオタクライフをより色鮮やかに彩ることできる。彼女、樋口楓にとっても、きっとファン視認できることによって生まれるモチベーションもあるだろう。

 それでも、自分は「楓組」を名乗ることはないだろう。そして、「楓組」を名乗る者たちと友人関係を持ちたいと思うことも無いだろう。これはただの俺のエゴなんだろう。

 これは、そんな者のための樋口楓、彼女の初ライブ『KANA-DERO』参戦記だ。ちなみにライブは決して戦場でも戦争でもない。コミケもそうだ。

はじめに

 この記事は、ライブを楽しむためにどんな準備が必要かを「初心者向け」 「心得者向け」 「ガチりたい人向け」に分けて書く。

 ただし、こんな記事を読んでいる時点でその人はきっと初心者などではない。「自分でちゃんと調べてからライブに臨む」時点でもうだいたい大丈夫だと思う。

 だから、最初に「ガチりたい人向け」から書いていく。俺がそうだからだ。

 

ガチりたい人向け

 

  要するに俺がライブでどうすんのかという自分語りで悲しいね。

 俺は生まれてからずっと大阪に住んでいて、そんな自分に降って沸いた話が「推しの初ライブが地元大阪」ということだった。

 なので、物販の前乗りもわりと気楽ではあるのだが、今回物販の開始は14時だ。アリーナやドームなどの大規模ライブだと物販は午前中からだったり正午だったりするのだけれど、今回の大箱ライブハウスだと14時開始は妥当と言える。問題は、始発で行くのかどうかということだ。現地で7時から待機したとしてこの真冬に7時間の待機になる。それはどうか。

 14時物販開始 16時入場開始 17時ライブ開始 https://event.nijisanji.app/kanadero/#info

 このスケジュールが意味するところ、それは「一度家に戻って荷物を置く」ことが会場の立地的にもだいたいの人間に不可能であることを意味する。シッティングの指定席ライブであれば、ライブ開始直前に滑り込んでもいいだろうが、オールスタンディングライブで良い位置を確保しようと思った場合は、整理番号があったとしても入場時間前に余裕を持って待機しておくのが無難だろう。

 そして、ZEPP OSAKA BAYSIDE周辺のロッカーは全く持って期待できない。

www.zepp.co.jp 会場のロッカーは言わずもがなとして、ユニバーサルシティ駅USJの最寄であり「土曜のユニバ」ということもあいまってロッカーは全埋まりしているだろうし、主要乗り換え地点の西九条はそもそもとしてロッカーが少ない。絶対にロッカーが確保できる地点。それは「大阪・梅田」だ。

 梅田まで戻って荷物を置き、着替えてライブに望める格好でそのまま会場に向かうのが安パイだが、開場前待機時間を考慮するとそれでもギリギリのラインだと思う。でも俺はそれでいくと思う。

 俺は何が1番欲しいのか。それは、「限定ライブパーカー」 https://event.nijisanji.app/kanadero/#goods

 これはおそらくグッズの中で最も値段が高く、嵩張るため弾数も少ないだろうことが予想される。やはり始発コースか、というところだ。

f:id:loveisalreadyyokujitsu:20190110165901p:plain
 たぶん大体おそらくこういう動きになるだろうことが予想される。

 この動きに合わせた装備が必要になってくるわけで、物販のための大きなカバンと、会場に持ち込む貴重品だけを詰めた非常に小さなカバン、トイレを最小限に抑えつつエネルギーを補給できる食糧、待機時の防寒具、ここらへんは必要不可欠だろう。

 そして、装備が必要なのはライブ前だけではない。ライブ中の装備をどうするかも前例がない初ライブという環境においては自分で考えていかなければならない。

 

 心得者向け

 まずは禁止事項の確認。

event.nijisanji.app

 

 

  ライブによっては可・推奨とされているもので今回禁止されているのは見たところ以下2点だろう。

 ・オタ芸、ケチャ、両手グルグルを含めたサイリウムを持ったうえでの激しい動作

 ・UOウルトラオレンジ)の使用

 ウルトラオレンジの例

ルミカライト 大閃光 arc 極【全1色】【1本入り個別包装】penlightstore.com 主に「アイドル現場」において上記2点は盛んに行われていることもあるが、今回は禁止されている。

 ただ、でろライブは公式物販にサイリウムがある以上、ほとんどの客はサイリウムを振ってのライブ鑑賞となるだろう。

 実際のところは、サイリウム持込可能のライブにおいて、UO使用をこの周知だけで完全に防ぐことはできないだろうし、サイリウムを持つ以上、曲中はほとんどの人が断続的に腕を上げた状態での鑑賞となるため、光る棒を持った腕の動きによってライブの様子が見えないというのは避けられない状況であると思う。

 しかし、この記事を読んでいるひとだけはせめてUOを持ち込まず、上に上げた両手の動作は最小限に抑えよう。

 重要なのは、この「最小限」という点だ。

 腕は周りに配慮して最小限の高さしか上げず、サイリウムも公式のもの1本で最小限に抑えて、声もあまり全力で張り上げすぎないようにする。

 そのようなライブ参加姿勢が本当に「正しい」のか?そうとは言えないと思う。

 では、日々の鬱憤を現場で晴らし、自分の情動の赴くままに、全力でサイリウムを光らせ、持てる体力の限り腕を振り、あらん限りの声を張り上げる。

 そのようなライブ姿勢が本当に「正しい」のか?そうではないのではないか。

 「最小限」の基準とは自分が生歌を集中して聞くことでも、全力で声を張り上げることでもない。

 腕は周りに配慮して最小限の高さしか上げず、サイリウムも公式のもの1本で最小限に抑えて、声もあまり全力で張り上げすぎないようにする。

 

 この最小限の基準とは、決してライブに参加する「客」のための基準ではない。

 この最小限の基準とは、すべて樋口楓、彼女のために最も良いと思う行動をするという基準だ。

 サイリウムの位置も低く、動きも乏しく、コールアンドレスポンスも遠慮がちであれば、彼女はきっと残念に思うだろう。

 2000人超が全力で声を出したらライブ音響が損なわれ、彼女はリズムの把握に手間取ってしまうかもしれない。

 オタ芸やサイリウムの振りでケガ人が出るなんてもちろんもってのほかだ。

 掲げられたサイリウムの光は、たしかにライブの客にとっては邪魔でしかないかもしれない。

 しかし、公式グッズにサイリウムがあるということ。それは樋口楓、その当人がオレンジ色に染まったZEPP OSAKA BAYSIDEを見たいと、そう望んだということだ。

 我々ライブ参加者が、「最低限しなくてはならないこと」それは樋口楓、その彼女の今までの軌跡が正しかったと証明すること。彼女の未来が眩く明るいものであるということを伝えるということだ。

 サイリウムはまぶしすぎてもいけないが、暗すぎてもだめだ。サイリウムの動きは彼女のことを心から考えればどれくらい振れば、どのタイミングで振れば良いかきっとわかるはずだ。コールアンドレスポンスで生歌が聞こえないこともあるかもしれない。

 しかし、樋口楓、その当人が望む声を返すために我々はライブに来たはずなのだ。

1/11 17時追記 あけおめ!ライブ前の配信だよ! - YouTube こちらの動画にて公式サイリウムが12色替え機能付きであると告知されていました。見落としていて申し訳ありませんでした。

ruifan.co.jp

修正事項詳しくはこちら

 

1/11 19時追記 各キャラクターのサイリウム色について

https://youtu.be/DB1KKMM0t_s?t=1349

 この配信で周知された情報についてです。

f:id:loveisalreadyyokujitsu:20190111194419j:plain

月ノ美兎→RED

・樋口楓→ORENGE

・静凛→PURPLE

・える→LIGHT PINK

 KING BLADE X10は公式サイリウムと同じと考えられるサイリウム

「LIGHT PINK」はPINKよりも明るい色。動画曰く「サンゴ色」 

 初心者向け

 まったく完全にどうしたらいいのか判断もつかず困っている人へ

(そういう人は上のリンクで飛んでください)

 

 コール(ライブ中の参加者の発声)は、絶対に自分のストレス発散のために張り上げてはならない。しかし、サイリウムを振ることに拒否感がある人にとっては、演者にその応援と愛を伝えることの出来る数少ない機会のひとつだ。

 ちなみに、散々サイリウムの良さを書いたあとで真実味が薄いかもだが、周りがみな手にサイリウムを持っているにもかかわらずサイリウムなしでライブに臨んでいる人対して「サイリウムを持て」とは思わない。

 サイリウムを持つということのハードルは絶対にある。そのハードルは越えなければならないようなものではないし、このほかに用途が全く存在しない光る棒はオタク専用品の権化とも言える存在であり、市民権を得られるようなものではない。

 いわば、サイリウムは煙草に近い嗜好品だ。

 煙草を嫌がる人の前で煙草を吸う行為は愚の骨頂である。しかし、「煙草が似合う場面」というのはたしかに存在し、サイリウムにおけるライブ現場がそういう場面であるというだけだ。

 周りがいくら喫煙者だらけの場所でも、吸っていない人に煙草を勧めるのはやめたほうが良い。

 しかし、俺はコール(声出し)はライブにほぼ必須なのではないかと考えている。これは「拍手」のような発音行為も含めて、という意味とする。

 演者のパフォーマンスに対して感嘆の声は思わず出るものであるし、それは我慢するよりは出してしまった方がよりその感動に浸ることができると感じる。クラシックにおけるスタンディングオベーションもその発露ではないか。行ったことないのでしらんが。

 演者もまた、客に反応を求める。演奏後の感動の声に怒りを発する演者というのはただの風変わりなパフォーマンスにしか見えない。

 樋口楓は、その性格上きっと我々ライブ参加者の感嘆の声を心底楽しみにしているだろう。

 しかし、彼女にとっては初のライブであり、また、ファンにとっても初のライブだ。

 そこで、アンケートを取った。

  しかし、俺のフォロワーは35人しかいない。票は12しか入っていない。俺の貧弱窮まる拡散力ではこのアンケート結果は信憑性がないにもほどがあるのだけれども、それでも、俺は30人ほどのフォロワーとこのツイートに辿り着くためにTwitter検索した諸氏を信じている。愛してるぞ、ふぉろわぁ。

 やはり、コールは「周りに合わせて」という気持ちの人が多いように思う。

 こんなことを言うとアンケートを取った意味が全く無いのだけれども、声は出せる場面で最小限の基準を踏まえて出来る限りの声を出した方が良いと考える。

 曲が始まる前と、曲が終わった後に、歓声は絶対に上がる。その2箇所は出来る限りの声を全員が出すべきだ。

 それは、参加者である自分たちのためではなく、樋口楓彼女のために出すべきなのだ。「周りに合わせて」をルーティンにしてしまって曲始まりと曲終わりにもおなじようにしてしまうと、声が控えめになったり遅れて機を逃したりする。そうなると樋口楓はその声によってパフォーマンスの出来を判断してしまう。厳しい評価を与えたいのならば好きにしろという感じだが、樋口楓は曲前の期待に満ちた歓声と、曲後の満足に満ちた歓声をきっと望んでいる。

 声は、樋口楓のために出すと思って出せば良い。

 曲前はイントロ始まった途端出してしまっていいが、曲後の歓声のタイミングは焦り必要はなく、たいていが1拍置いた後に巻き起こるはずだ。

 コールアンドレスポンス、これはもう動画を見て予習するしかない。

 参考になりそうなリンクを以下に貼る。

youtu.be(コールアンドレスポンス練習部分) https://youtu.be/DB1KKMM0t_s?t=1170

 

live.nicovideo.jp(有料タイムシフト

 ただ、直前放送を見る限り、樋口楓はコールアンドレスポンスを求めているが、「パフォーマンスを鑑賞することに集中できない」というのはれっきとした事実だし、その思いを否定するつもりもないので、ファンである俺からしても他のファンに「絶対したほうがいい!」と勧めることはできない。

 彼女の想いにどれくらいの精度で応えるのかはもう人それぞれという域だし、コールアンドレスポンスの正確性という話までいくと、もはや最小限の基準以上のものではないかとも感じる。

 それこそ、コールアンドレスポンスは「周りにあわせて」くらいでもいいかもしれない。

 樋口楓から事前に発信の無いコールも、ライブ中絶対に起こる。

www.youtube.com それはこの月ノ美兎が「ハイ!ハイ!」と煽った後に発生した「oi(オイ)!oi(オイ)!」とも聞こえるコールだ。

 このコールに事前予告はなく、演者の煽りや会場の盛り上がりによって場当たり的に起こるものだ。

 このコールについては「Hi!Hi!」「oi!oi!」を一定間隔で繰り返すだけのため非常に乗りやすい。

 なので、乗れるなら乗ってしまってもいい。しかし始まりが急で曲を覚えていないと終わりが分かりにくいので注意は必要だ。「演者が煽って促してくる可能性がある」ということを頭に入れておけばいいという程度が適切だろう。

 注意したいのが、アンケートにもあった家虎だ。

 「イェッタイガファボワイパ」「タイガー」「ファイヤー」などが家虎にあたるコールだ。

 これは歌詞に組み込まれたりしない限り、ほとんどの場合ファンが考案してコールを打つ。つまり、「たいていの場合『家虎』を演者側から求めることはない」ということになる。

 意味が分からない言葉の羅列に見えるのもそのはず、「Hi!Hi!」「Yeah!」などと同じく「掛け声」が発展したにすぎないものだから意味はとくに見出すことができない。

 「サイリウムグルグル」「サイリウム投擲」「オタ芸」などと並ぶ、厄介の代名詞という側面が家虎にはあるが、厄介行為もすべて元をたどればファンが推しを応援したいという気持ちが発展しすぎたものだ。

 そのため、地下アイドルなどの現場によっては盛んに行われ、ライブの見所として成立している場合もある。

 そして、ラブライブに詳しい樋口楓その人が配信内などで「家虎」に言及したこと、エルフのえるがネタとして樋口楓の楽曲にコールをしたことなどから、おそらくリンク先のツイートは作成されたのだろう。

 しかし、今回樋口楓のライブは初ライブとなる。

 ましてやUO禁止を公言したライブである。

 何度かライブを重ねるうちにファン考案のコールが醸成されて公式に採用されることはあるが、ファン考案のコールが全く定着していない初ライブで家虎などの公式要素が限りなく薄いコールを打つことはほとんど厄介行為となるだろう。

 俺としては演者からの発信のないコールは絶対にやめるべきだと思っている。

 

 1/12 6時追記 けろっくふろっぐ、家虎やるそう。

 やはりというか樋口楓さん自身は「他の曲で家虎はだめ」とのこと。

youtu.be

 

 ラブライブの家虎問題などから、他の曲ではやってほしくないけれども、えるがやりたがって許可したとのこと。

 この曲以外で家虎は控えよう。

 

 最後に、

「コールもサイリウムもグッズもどうしたら良いか全く判断できない。したいのかどうかさえもよくわからない。」

という場合。

 そんな人はこのブログ読まなさそうだけれども、まとめるならこうだ。

 ・コールというか、声は曲始まりと曲終わりの歓声だけ一生懸命出そう。他の場面で声を出せなくてもしょうがないことなので切り替えよう。

 ・サイリウムに拒否感が全く無ければ、ないよりはあった方がいい。事前に1本買うのであれば、でろーんのテーマカラーであるオレンジに加えて、ゲストのテーマカラーや曲のイメージカラーのために多色切り替えの市販品2本を買ったほうがいい。

1/11 17時追記 あけおめ!ライブ前の配信だよ! - YouTube こちらの動画にて公式サイリウムが12色替え機能付きであると告知されていました。見落としていて申し訳ありませんでした。

ruifan.co.jp

修正事項詳しくはこちら

公式サイリウムの多色版最新型

ruifan.co.jp

筆者オススメ 

focus.lumica.co.jp

 ・グッズが欲しい場合、始発で行って何時間も待機する労力と、体力と物欲を天秤にかけよう。

 この3点に尽きると俺は思っている。公式サイリウムはグッズ的要素が強いと考えていて、JK組3人の曲もあることから、多色2本を勧めた。

 ライブ中に声を出すこと、サイリウムを振ること、それは絶対に樋口楓のために行われなければならない。声を全く出さず腕を組んで直立不動でライブを見ることも、ストレス解消や興奮を抑えきれず異常な発声や動作をすることも、樋口楓を困惑させることになりかねない。

 長々と書いたが、要はそれだけを守ればいいというだけの話でもある。

まとめ(俺が考える)

・コールについて

 曲の始めと終わりの歓声は全力で。

 演者が求めるコールアンドレスポンスに正確に応えられれば一番だが、決して必須ではない。

 演者が単調な「Hi!Hi!」コールを煽ってくる可能性を頭に入れておくべき。

 家虎は打つな

> 1/12 「けろっぐふろっぐ」のえる考案家虎

・サイリウムについて

 公式グッズとしてサイリウムが採用されている以上、ないよりはあったほうがいい

 キャラグッズ的要素が強い公式サイリウムよりは、多色切り替えが2本あればゲストにも対応できる。事前に買うなら多色2本。

 しかし、UOウルトラオレンジ)は絶対に使用しない。

 手の振りは周りを気にするよりも樋口楓が喜ぶ程度が目安。

1/11 17時追記 あけおめ!ライブ前の配信だよ! - YouTube こちらの動画にて公式サイリウムが12色替え機能付きであると告知されていました。見落としていて申し訳ありませんでした。

ruifan.co.jp

>

 

 公式サイリウム、12色切り替えだった。にじさんじは有能。

 これにより、個人的にベストとなるサイリウムの持って来方が変わった。

  ・公式サイリウム(12色) ペンライト-KING BLADE(キングブレード)|ルイファン・ジャパン

  ・多色切り替えサイリウム ペンライト-KING BLADE(キングブレード)|ルイファン・ジャパン

 使いやすさや持ちやすさ的に同じキンブレにしておき、片方は最新型にするのがベストとなった。申し訳ありませんでした

・グッズについて

 始発から行って14時まで待機はかなりしんどい。

 でもグッズを買い逃して後悔するくらいなら始発待機する。

 パーカーが真っ先に売切れる。公式サイリウムも同程度の速さ。(金額が高いため)

 CDだけ買いに来る人もいるかもしれないので、CDも危ない。

 着替えと荷物預かりはいっそ梅田まで戻ったほうがいい。

 いい場所を確保したいなら入場前も待機したほうが良い可能性がある。

さいごに

 なんのためにライブに行くのか。

 日々の抑圧から解き放たれるため、推しの勇姿を目に焼き付けるため、好奇心に駆られて、友達に誘われて、一緒に行く子と良い仲になるため。

 じっさいのところ、さまざまな欲求がライブ参加者のなかには渦巻いている。

 でも、ライブは俺たちのためにあるのではなく、お前たちのためにあるのではない。

 ライブとは、すべてそのステージの真ん中に立っているその人のためにある。

 楽しめなくても、トラブルに見舞われても、隣のオタクが臭くても、となりのリア充が騒ぎ散らかしても、ステージの真ん中にたつその人が、笑顔でステージから降りる。そのために俺たちはライブに行く。

 それだけは絶対に忘れてはならない。

セカイ系ぽんぽこ24:ぽんぽこ24をライブ配信で見て、そのあとアーカイブで補完して

 みんな!ライフ、楽しんでる?

 ライフ、楽しんでる、ってなんなんでしょうね。人生じゃなくって、ライフ。直訳的な感じなんだろうけど、人生じゃなくてライフって言うことによってちょっとニュアンスが変わってくる感じもしないでもない。

 ライフといえば、俺はまずスーパーマーケットが思い浮かんでくるけれども、まあ、コンピューターゲームにおけるライフポイントの「ライフ」というのが、一般的にも通用している「ライフ」であるように思う。

 ライフポイントがなくなると、プレイヤーキャラはその時点で途絶する。ライフポイントを消費しながらプレイキャラクターのライフは進んでいくわけだ。ライフポイントが消費されなければ、もしくは回復されればプレイキャラクターのライフは終わることなく続いていく。その点で、人生とライフはちがうものように思う。人生とは、消費していくばかりだ。

 つまり、伏見ガクくんは我々が「人生を送っている」のではなく、架空のキャラクターである自分と同じように我々も「ライフを送っている」と思っている可能性がある。怖いな。

 ▼

 ぽんぽこ24を見た。

 甲賀流忍者ぽんぽこという女の子のキャラと、ピーナッツくんという豆のキャラが2人で24時間にわたってYouTubeにおいて配信をし続けるというものだ。ぽんぽこちゃんと、ピーナッツくんのご主人様は兄妹関係にあたり、2人同じ場所で配信を行う。

▼ 

 架空の存在が現実世界の我々に向かって、24時間番組を送る。

 漫画やPC機器やゲーム機、物だらけの雑然とした部屋の片隅、架空のキャラクターたちの配信を、机の上の小さなスマートフォン端末が24時間にわたって受信し続けるということ。いつの日か幻視した妄想が自分の生活に侵入してくる感覚。

 配信がある1日のあいだは、タオルケットにくるまって寝ている間も、電車に乗ってやっと座れたと思ったら隣の席で眠るおっさんの寝息が激しくて辟易する間も、授業前の教室で次々と登校してくる生徒たちの嬌声に自分の居所が追いやられている感覚を味わっている間も、授業中の居眠りが見つかって怒鳴られる1秒前も、この煙草の火が消えたら仕事に戻らなくてはならないと火を見つめて心臓の動悸と戦っている瞬間も、放課後に302円のカフェオレだけで数時間ものあいだ友人と笑い続けている時も、仕事が終わった帰宅中の電車で仕事から離れられる開放感でじんわりと身体が温かくなる感覚で眠りに落ちていく時間も、ずっと、ぽんぽことピーナッツくんは配信を続けていた。

 配信が見られない時間も、「今もぽんぽことピーナッツくんは配信をし続けているのだ」と、そう考える。

 この世界にいないキャラクターの配信が、自分の手に収まるこの端末に、届いたり、届かなかったりする。

 まあ俺は無職なので、寝てる時間以外はぽんピー配信見て、配信終わってからアーカイブで見てなかった部分補完しただけなんですけども。そういうことを考えながら配信を見てました。

 そういう、良さがあるなあ、と思いながら。

 伏見ガクが「ライフ、楽しんでる?」と、伏見ガク自身が生きる世界と視聴者の世界は同じなのだ、と呼びかけるように、ぽんぽこ24も、キャラクターの生きる世界と視聴者の生きる世界の境界を揺るがす。

 しかし、本人たちにそのような意図は全くない。ただ、面白いことをしたい。その想いだけで番組を進行し続けただけだ。

 24時間にわたって配信をし続けることの魅力というのは、そういうところに俺はあると思う。

24時間配信というのはなんと素敵なことか

 「24時間」と言えば、「1日中」と取ることもできる。「24時間配信しますよ」と言えば、「1日中配信しますよ」とも捉えられる。「1日中配信が行われている」というのは、「自分が1日生活しているあいだ、ずっと配信が行われている」ということになる。これは、「30分配信」や「2時間配信」では得られない感覚だと思う。

 「20:30〜21:00のあいだ、配信をしますよ」と言われても、「自分が過ごすこの1日の中の20:00〜21:00に配信が行われるのだな」とは、思わないだろう。そのため、「30分配信」や「2時間配信」を視聴する際、自分の生活を意識しながら見ることは少ない。むしろ、生活とは切り離しさえする。それは、自分の生活における清涼剤や現実逃避として配信を見ることが多いからだ。せめて配信を見る時間だけは、仕事のことなんて忘れて、宿題のことなんて忘れて、というふうな意識だ。じっさい、俺も無職なので自分自身という存在そのものから逃避して毎日なんらかの配信を見ているぞ。

 「24時間配信をしますよ」と言われれば、そういうわけにはいかない。働いてたり学生だったり専業主婦/夫だったりするならば、どうしても「24時間配信!?1日の○○時から××時はどうしても見れないよ!」となることが多い。24時間配信を視聴しようとした瞬間、24時間配信は急に自分の生活に食い込んでくることになる。自分の生活との兼ね合いを計算しなければならなくなる。24時間視聴をし続けようとしても、同じだろう。自分の普段の生活サイクルをなんとかやりくりして24時間視聴をすることになる。「視聴してたらいつのまにか24時間経ってた」なんてことはまず考えられない。ギルザレンⅢ世なんかはそうかも知れないが。

 そして、1度視聴し、それを中断して自分の生活に戻れば、その生活は配信を含んだ生活となりやすい。ただの1日が、ただの1日ではなくなる。いわば、その1日は「24時間配信裏の1日」になる。

人を惹きつけるぽんぽこ24

 じゃあ、例えば俺が24時間ダークソウル2のプレイ実況を配信し続けるので、視聴者のみなさん、「俺のダークソウル2実況24時間配信の裏の1日」という意識で今日1日を過ごしてくださいね。

 と、言っても誰もそんな意識を持ってくれはしないだろう。視聴者の1日を「配信裏の1日」にするためには、その配信自体の魅力が強くなければならない。

 魅力とはなにか。まず、視聴者数だろう。もっといえば、その配信の知名度だ。より多くの人が配信のリアルタイムで感覚を共有することがまず必要不可欠だ。ぽんピー2人の知名度、コーナーゲストの知名度、サプライズによるSNSでの実況感想の拡散、更には共鳴する裏番組の存在、さまざな要素がぽんぽこ24の知名度を補強した。もちろん、今回のぽんぽこ24が2回目であることも大きく影響している。

 つまるところ、番組自体の構成が豊かでないといけないということだ。ゲストの多様さ、企画の意外さ、コーナーごとの緩急などがなければいけない。今回のぽんぽこ24には、それらがたしかに存在していた。前回よりも知名度も豊かさも確実にグレードアップしていたのだ。

 視聴者の1日にバーチャルYouTuberが食い込んで行こうと思った時、その配信は視聴者自身が送る1日の生活におけるバラエティを凌駕していかなければならない。視聴者の1日より劣る盛り上がりなら、生活サイクルをやりくりするという選択肢は生まれてこないからだ。ゲストが、企画が、SNSの新鮮な感想が、人を惹きつける盛り上がりが、リアルタイムに起こったからこそぽんぽこ24は視聴者の1日に食い込んでいくことができた。

境界に立つぽんぽことピーナッツ

 今回、ぽんぽこ24がただの「配信者の24時間配信」ではなく、「架空のキャラクターが行う24時間配信」だと強く感じさせた要因の大きなものに、「CM企画」があった。

 コーナーとコーナーの間に必要なインターバル。インターバル中に兄妹は次のコーナーの準備を行う。そのインターバル時間にCMとして、他のバーチャルYouTuberたちの動画を何本も挿入した。30秒に満たない動画もあれば、10分を超える動画もあり、それらを複数個繋げ、15分のインターバル時間を埋めた。これは今回のぽんぽこ24の最も特筆すべき点だと思う。

 まず、番組にはCMがつきものだという認識が私たちにはある。NHKにはコマーシャルがないってのがあるけど、まあ、番宣とかはあるじゃん的。俺は特にCMタイムというのが好きで、幼い頃はドラえもん本編中はゾイドを手許で戦わせ、CMタイムになると画面に釘付けになるという日々を経て現在無職となった。つまりはある種の刷り込みによって、CMタイムが存在すると番組の番組らしさが増すと感じる効果が起こるのだ。

 ぽんぽこちゃんのもとには400本を超えるCMが集まり、その中でも視聴できた150本の中からCMが配信された。コーナーとコーナーとの境界は20程度あるので、境界1つにつき平均5本のCMが流されたとしても、100本であるので、それ以上の本数が配信されたことになる。100本という数がすごい、と言いたいのではなく、100種以上ものバーチャルYouTuberが1つの配信に現れたことに注目したい。

 100種以上、1つの動画で何人ものバーチャルYouTuberが出る場合もあるので、百数十人ものバーチャルYouTuberが1つの配信に現れるということ。これはもう「バーチャル世界そのもの」が画面に映し出されたように俺には見えた。もちろん5000人を超えるというバーチャルYouTuberの総数に比べれば1部分に過ぎない。それでも、1つの配信に百数十人ものバーチャルYouTuberが現れるところを俯瞰すれば、それはもう1つの世界の有り様が見えてきてもおかしくはないのではないか。正しい比較とは言えないが、この汚い現実世界の総人口が70億人で、150/5000を掛ければ、2億1千万人になる。これはブラジルの総人口を超える人数だ。え?ブラジル?いや、ピンと来んな。まあ、ピンと来ないが、日本の総人口は1億3千人に全然満たないので、ゆうに超える人数比になっとるんや。なっとる。

 現実世界で例えるなら1つの国の人々を1人ずつザーッと見ていくことになるのが、ぽんぽこ24のCM企画だと言えなくもない。いや、言える。1つの国の人々を1人か2人ずつザーッと見ていけば、その国の概要を理解するには充分だろう。それゆえに、100種以上のバーチャルYouTuber紹介をぽんぽこ24のCMとして使うことで、ぽんぽこ24を通してバーチャル世界を通覧するという感覚に至っていくのだ。

 1つの世界をまるごと実感するというのは、なかなかにできることではない。Wikipediaを詳しく読み込んでその世界の概要を学習しても、その世界の存在自体を実感することはできない。異なる世界から発信された24時間番組という枠組みのなかで、CMという現実感をともなって、百数十人を超えるという数のバーチャルYouTuberがそれぞれに制作した動画を視聴するというかたちで、世界の通覧を可能としている。

 ぽんぽこ24のCMタイムというのは、「番組としての説得力」と「バーチャル世界そのものを感じる」という2つの効果が相乗していた。だからこそぽんぽこ24の中でも特筆すべき点となり得たのだ。

気合いでまとめるぽんぽこ24視聴完了後の感想

 一言でまとめるなら、「ぽんぽこ24、マジかっこいい」なんですけど、それは散々ツイッァアtーで言ったので、もうちょっと書いておこう。

 まず、ぽんぽこちゃんとピーナッツくん、2人の資質と努力があった。

 コミュニケーション能力が優れているなどと言えば簡単だが、2人はそれぞれに人の惹きつけ方が違うように思う。ぽんぽこちゃんは人なつこいキャラクターで、ピーナッツくんは相手の好奇心を唆るキャラクターで、ゲストを惹きつける。それゆえに多彩なゲストとCMが集まった。そしてぽんぽこちゃんは自身のその人なつこさで他者への興味を高め、ピーナッツくんは持ち前の冒険心で、コーナーを作り上げた。

 次に、24時間配信という枠組みと視聴者との関係に特別なものがあった。ゲストからキャストまで人を惹きつけることができる能力を持った兄妹が作った番組が24時間配信されるとなると、その番組によって視聴者の生活が「ぽんぽこ24裏の生活」になる。

 そして、その現実生活にバーチャル世界が干渉してくる感覚を、CM企画がさらに強める。番組の説得力もさることながら、バーチャル世界の存在感がこのCM企画が大きく補強された。

 このCM企画は今回のぽんぽこ24の象徴といってもよい。兄妹2人のゲストとキャストを惹きつける力、「もっとバーチャルYouTuberの存在を拡げていきたい」という意識、24時間配信という特異な枠組み、それらが相乗することによって浮かび上がる、バーチャル世界の全体像。今回のぽんぽこ24で顕著だったさまざまな効果のどれも、CM企画が大きく係わっている。

 そして、結局はぽんぽこ24の魅力とは、かっこよさに至ると考える。2人の縦横無尽の活躍や、視聴者が感じる、ちがう世界と関わっているという感覚、もしかしたらぽんぽこ24が配信されていたそのとき、ぽんぽこ24がどこか知らない場所で、でも確実に配信をしているという事実がどこかの誰かを救ったかもしれない。これはまるでよくできた作品を鑑賞しているようだが、実のところ実際に起こったことなのだ。この感覚をかっこいいと言わずにどう言おうか。それとも単に俺の語彙がないだけか。

 兄妹は、いわゆる個人勢と呼ばれる。

 企業勢と個人勢の、戦い方はちがう。まるで極地法とアルパインスタイルの差異のように。基本的に、全ては兄妹の2人だけでぽんぽこ24は準備された。慎重さで言えば、その内容は企業勢では考えられないような方式だったことは想像に難くない。

 このぽんぽこ24を語るとき、少し踏み込んだ視聴者は、「ぽんぽこ24はけっして完璧とは言えなかったが」と接頭に付けるだろう。

 象徴と言えるCM企画だが、ぽんぽこちゃんは放送内でこう言った。「決して真似を推奨できるようなものではない」

 ぽんぽこ24配信中、ぽんぽこちゃんのチャンネルにはYouTubeからの警告が鳴り止まなかったという。それは、YouTubeには、「全く同じ動画が複数の配信者によって存在することは許されない」というルールがあるからだ。ぽんぽこ24のCMというのは、その企画の趣旨から、他のバーチャルYouTuberが作った動画である。その動画が作成者のチャンネルに存在することは当然だろう。企業勢ならばそれを許しはしなかっただろうが、ぽんぽこちゃんは論理を優先した。「作成者のチャンネルに作成者の動画があるのは当然である」と。既に作成者のチャンネルに存在している動画をぽんぽこ24の配信で流すとどうなるのか。それは著作権の侵害になりかねない状態になる。YouTubeはそれを警告したのだ。

 著作権。いったい誰の権利かは知らないが、それは現代においてさまざまなモノを守り、さまざまなモノを縛り付けている。

 CM企画の内容も、決してそれを完全に遵守したものが全てではなかった。むしろ、その「ノールールさ」は兄妹の特徴であるとされ、多くの人間がその特徴に惹かれて集まったのは事実だろう。

 ある時間にある1つのCMが流れたとき、コメント欄は現代日本において最も醜悪な様相を呈した。その動画は、誰にでもわかるように著作権が破られていた。「放送停止」「BAN」などという語がコメント欄に次々と流れ続ける。親切心と悪意はとても仲が良いことが知られている。

 済まんこ、とは、決して下ネタで片付けられるような言葉ではなく、殊、ぽんぽこ24においてその言葉は神が宿ったとされている。

 君に兄がいたとして、君に妹がいたとして、2人で何万人もの人間を相手にするようなモノを作れるか、それはわからない。

 何万人もの人間を相手にするモノを作ろうとしたとき、何万人もの人間を実際相手にしているときよりも、そのモノを作っている最中の方が明らかに、苦しい。

 しかも、兄妹はアルパインスタイル。たった2人で準備をしなければならない。完璧な下準備などという、国民的行事の際にも存在しない幻想は、望めやしない。

 ぽんぽこ24の準備段階、そこには多くの綻びがあったのだろう。それは配信中の兄妹2人の言いざまの端々にも顕れていたことだ。

 後日、1つのタンバリンが地面に落ちて、大きな音がした。親切心と悪意はとても仲が良いとされている。タンバリンを落とした者も、拾おうとする者も、とても親切な人間だったらしい。

 狸はその配信で関係した人間、一人一人に謝辞を送り続けていた。では、豆は何をしていたのか。おそらく、“火”と対峙していたのだ。狸が人と係わることを好むのなら、“火”と対峙するのは彼の役目だった。

 タンバリンは自らが燃えることに嬉々としていることが常だが、決してその“火”が燃え移らないとは、誰も言っていない。

 “火”と対峙するとき、多くの人間は水をかけるが、バーチャル/インターネット世界でそれをやって無事に戻ってきたものはいない。俺はずっと、“火”はただ目の前で燃え尽きるのを待つのが得策だと考えていた。しかし、彼の豆は待たなかった。彼はその“火”の中に自ら飛び込むことを得意としていた。“火”に対するならば、自らも“火”となる。

 現代の最も醜悪な人間は、人間が“火”に焚べられるのを見るのをとても楽しみにしている。現代において、最も醜悪な人間とは、現代を生きる殆どの人間のことを指す。この俺にも、その欲求が全くないと言えば、嘘になるだろう。

 “火”に“火”が焚べられれば、それはたしかに大いなる“火”になる。それを見て楽しむ人間もいよう。しかし、その楽しみに「人間が“火”に焦げる匂い」は存在しない。だから、彼は自らが“火”となることで解決としたのだった。

 問題はなにか?

 問題は、「最も醜悪な人間たち」だ。

 最も醜悪な人間たちとは、先ほども言ったようにこの世のほとんどの人間のことだ。

 彼らの発言は、目を惹く。無視できないようなものに見える。その内容に関わらず。

 本当に、ぽんぽこ24を見ていた人間たちみんなが、「この配信を捨てて、別の枠に絶対に移るべきだ」と思っていただろうか。

 本当に、Vtuberのオタクはみんな「パンディはぽんぽこちゃんの頑張りをなんとも思わずに兄妹を貶めようとしている」と考えていたろうか?

 この世の殆どの人間が最も醜悪な人間だったとしても、みんながそうなふうに考えていたのではない。いつどこの誰もがそういう発言をしてもおかしくない、という事実が恐ろしいのだ。

 殆どの人間は何も考えてはいない。ただ、目の前に出されたぽんぽこ24を楽しんでいるだけだ。「著作権侵害BAN」も、「ありもしないパンディの敵意」も、ほとんどの視聴者は考えもしないことだ。ランダムなどうでもいいどこかの誰かがその時の気分でそう言っただけに過ぎない。根源的に“火”で人間が焦げる匂いを知っている我々は、どうしてもそういう発言にばかり目がいくだけなのだ。

 俺はこの世界でたった1人だけ、「ぽんぽこ24はなんの問題もなかった」と思っている。だから、最も醜い人間のコメントに惹きつけられる眼球には、どうか抵抗して欲しいと祈り続けている。

 


【24時間生放送】1枠目 ぽんぽこ24 リターンズ #ぽんぽこ24


【24時間生放送】2枠目 ぽんぽこ24 リターンズ #ぽんぽこ24


【24時間生放送】3枠目 ぽんぽこ24 リターンズ #ぽんぽこ24


【24時間生放送】3.5枠目 ぽんぽこ24 リターンズ #ぽんぽこ24

 


【24時間生放送】4枠目 ぽんぽこ24 リターンズ #ぽんぽこ24


【24時間生放送】5枠目 ぽんぽこ24 リターンズ #ぽんぽこ24


【24時間生放送】5.5枠目~FINAL ぽんぽこ24 リターンズ #ぽんぽこ24

東京事変『私生活』中、「あなたの頰の仕組み」について

誰が何を気にしているのか

 樋口楓さんが東京事変の『私生活』という曲を歌っていてよかったですね。

 


樋口楓の夜更かし夏休み(別のタブで開いてくれ)

 

 まあ、それはいい。置いとかないと話が進まない。

 それはそうとして、『私生活』の歌詞のことだ。

 

酸素と海とガソリンと
沢山の気遣いを浪費している
生活のため働いて
僕は都会を平らげる
左に笑うあなたの頬の仕組みが乱れないように

 

追い風よさあ吹いてくれよ
背後はもう思い出
向かい風まで吸い込めたらやっと新しくなる

 

夕日も秋も日曜も
沢山はない出会いも浪費している
行ったり来たり繰り返し

僕は時代によいしょする
あなたの眼には情けな過ぎて哀れに違いない

 

羅針盤よさあ指してくれよ
現在地を教えて
既存の地図を暗記してもきっとあなたへ向かう

 

あなたが元気な日はそっと傍に居たい
あとどれくらい生きられるんだろう?
行かないで


追い付かせて
待ってあと少しだけ
生きているあなたは何時でも遠退いて僕を生かす

 

 この歌詞の中の「左に笑うあなたの頰の仕組みが乱れないように」という箇所からこの歌を解釈していきたい。

 歌詞のそのままに、主観人物は「僕」、対象人物は「あなた」と書く。

 

 「頰の仕組み」ということから、「頰」に「何らかの働き」がかかることが考えられる。

 「僕」は、「左に笑うあなたの頰の仕組み」が「乱れないように」気にしている。

 「頰の仕組み」が何らかの働きをするとして、どのような働きを気にしているのだろうか。

 人が他者の「頰が働いている」ように見える時、それは「動き」を捉えていることがたいていだろう。相手の口腔内の動きを実感するというのはかなり難しい。

 「頰の動き」、つまるところ「表情」のことだ。

 「あなたの表情が乱れないように」、左側から「僕」は気にしている。

 歌詞にあるように、「あなた」はこのとき、「笑う」状態になっている。「笑」の表情は「僕」にとって乱れていない表情なのだ。

 「僕」は笑顔以外の表情になることを気にしている。では、笑顔以外のどんな表情になることが「僕」にとって「乱れている」ことになるのだろう。

 

酸素と海とガソリンと
沢山の気遣いを浪費している
生活のため働いて
僕は都会を平らげる
左に笑うあなたの頬の仕組みが乱れないように

 

夕日も秋も日曜も
沢山はない出会いも浪費している
行ったり来たり繰り返し

僕は時代によいしょする
あなたの眼には情けな過ぎて哀れに違いない

 

 所謂この曲の「メロ」の部分は「僕」の日常が描かれている。

ここから読み取れる「僕」は「繰り返しの毎日を浪費と感じて疲弊している」人物に見える。

少なくとも、明朗ではないだろう。少なくとも「あなた」に「情けな過ぎて哀れ」と思われていると思っているという卑屈さが垣間見える。

 『私生活』という曲の主人公は「生活」に疲れている。

 同箇所のメロ部分の対応として「左に笑うあなたの頰の仕組みが乱れないように」と「あなたの眼には情けな過ぎて哀れに違いない」はある程度の対応を見出してもいいだろう。

 「あなたの眼には情けな過ぎて哀れに違いない」はどう考えても「あなた」の本心とは別の、「僕」の卑屈な思い込みと捉えられる。

 生活の浪費を繰り返していて、「情けな過ぎて哀れに違いない」という展開だろう。

 逆さまから見れば、「情けな過ぎて哀れ」なのは「生活の浪費を繰り返して」いるとも言える。

 この曲はメロ部分に比べてサビ部分に盛り上がりを感じるよう勾配がついている。サビの部分は「追い風」「羅針盤」「地図」など、現在地からの移動を感じさせる言葉が多い。それに加え、1サビには「新しくなる」という変化を期待させる言葉も含まれている。

 「僕」はけっして「生活の浪費を繰り返し」たいわけでも、「あなた」に「情けな過ぎて哀れに違いない」と思われたいわけではない。そのような状況から脱したいという想いがあるのだ。

 そこから考えると、「僕」は「あなた」が笑顔以外の表情になることを恐れているのではないかという予測がつく。このメロ箇所の対応によって、「あなた」が笑顔以外の表情になることは「僕」にとってネガティブなことかもしれないからだ。

メロがネガティブな思考で、サビがポジティブな思考という対称性から、「僕」が危惧する「あなた」の表情とは、ネガティブな表情であろうことが考えられる。

 悲しみ、怒り、無関心、そのような感情があなたの表情に浮かぶのを恐れている。

 と、いうのはこんなにつらつらと書かなくても曲を一回聴けばわかることだ。

 問題は、「対象がネガティブな表情をすることを恐れる」という感情を、「頬の仕組み」から捉えるというのはどういうことか、ということだ。

頬の仕組みを気にする人

 隣にいる人物が悲しんだり怒ったりしないように気にするのはふつうのことで、それはポエジーでもリリカルでもなくそのままでは印象的な歌詞とはなりづらい。

 そこで、「左に笑うあなたの頬の仕組みが乱れないように」とすることで歌詞になり得る。

「隣にいる人物が悲しんだり怒ったりしないように気にすること」と「頬の仕組みが乱れないように気にすること」は、同義と考えても問題ないが、違いが全く無いわけではない。

 「頬の仕組み」が気になるということは、前述の通り、「頬の動き」の方が先に気になるということだ。先に「頬の動き」が気になって、その結果として対象の感情が気になっていく。「僕」はこのとき、感情を捉える際に先に頬の動きを捉える。

 これは、いきなり人間の内面を見ようとするのではなく、実際の人間の動きを注視するということで、「僕」は人間に対していきなり踏み込んだ解釈をしようとしない、またはできないのだろうと考えられる。

 なぜ、先に感情を把握する前に表層の動きを先に捉えるのか。「僕」は対象の感情に関心があるにも係わらず、感情自体を先に推測することをしない。それは実際に動く頬の動きしか信じられないということを表しているのではないだろうか。

 他人の感情を測るとき、それは推測にしかならないことがほとんどだ。推測の域を出て、事実となるとき、それは時に流れる涙であったり、真っ赤に染まった耳であったりする。そのような「乱れ」が起こる前に、「頬の動き」を見つけようとするのが「僕」なのだ。

 「僕」は現実に起こることしか信じない人物だとすることもできるが、それだけではないと思う。

あなたの眼には情けな過ぎて哀れに違いない

 これは、「あなたの頬の仕組み」と対応したメロ箇所。

 それに、

あなたが元気な日はそっと傍に居たい
あとどれくらい生きられるんだろう?
行かないで

 唐突な死への不安の吐露。これは決して裏設定のようなものから来るのではなく、日々生きていてふと急に来る死への不安を描いていると考える。

 この歌詞のうちの二箇所は、「僕」の自信のなさや卑屈さ、不安さなどが歌われている部分だ。

 僕の人物像とは、「あなたの感情を機微を気にし」ているのに、「自分は情けないのであなたに哀れだと思われている」と考え、「ふと死への不安を覚える」ような人物像だ。

 その「僕」が「頬の仕組み」を気にするとき、それは実際に起こってもいないことを信じるのが酷く不安だから、「頬の仕組み」から感情を捉えようとするのだと考えられる。

恋と不安

ところで、恋に不安は憑き物だ。むしろ、不安に思うことこそ恋であるとも言えるだろう。

 結局のところ恋とは、人間関係における距離が、非常に近づいた状態のことを言う。人と人が関係を持つ時、比較や対照を抜きに考えることはできない。比較や対照によって生まれる感情として恋があり、比較や対照によって生まれた恋が人と人との関係を接近させる。

 『私生活』における「僕」が何をそんなに不安に感じ、恐れているのかいうのは、そこに起因があるように感じる。

そもそも、『私生活』は恋の歌だ。

羅針盤よさあ指してくれよ
現在地を教えて
既存の地図を暗記してもきっとあなたへ向かう

 この箇所は「羅針盤はきっとあなたへ向かうだろう」というふうに取れる。これは「僕」が感じている内なる情動の比喩であり、羅針盤とは常に一定の方向を指すことからも、その情動は固くブレないものなのだ。

 「僕」は「あなた」にそれだけ強く焦がれている。

 『私生活』の歌詞は、強く「あなた」に焦がれる気持ちと、「僕」の持つ不安と恐れがない交ぜになっている。

 「あなた」に焦がれるからこそ、「僕」は卑屈になり、「あなた」に恋する余りに、「僕」は感情の乱れを恐れている。

左に笑うあなたの頬の仕組みが乱れないように

 「左」とは、どういう意味だと考えられるか?

 人が真横にいて、わざわざ「左にいる」と表現するとき、それは二人並んで歩いているときではないか?

 日本において市街地を歩く時、たいてい自分の右側には車道がある。これは2018年に於いては古風な風習と言えるだろうが、「道を歩く時、男性は女性の左に立って歩くことがエスコートである」という言説がある。「あなた」が左にいてともに歩いているということは、「僕」はエスコートのために右に立っていると取ることも可能だ。

 「僕」は男性の代名詞だが、この際「僕」と「あなた」が男性か女性かは考える必要はないように思う。ただ、代名詞の性がちがうために、「僕」は「男性的立場」で、「あなた」は「女性的立場」であると考えざるをえない。

 これだけ日々に不安を感じ、卑屈にさえなっているが、「僕」は「あなた」をエスコートしようという意志がある。一見、卑屈な人物がエスコートしようという意志を持っているのはそぐわないように見える。しかし、頬の動きから感情を捉えようとするような慎重さを持つ「僕」ならば、あなたをエスコートするために左側に立つことを忘れたりはしないだろうとも考えられる。卑屈だからこそエスコートを忘れない慎重さがあるのだ。

 この歌は、『僕』の恋の形を描いた歌なのだろう。

 そして、『僕』の恋の形をわざわざ歌い上げるというのは、ある種の赦しであるような印象も受ける。それは、『僕』の不安や恐れや卑屈こそが、『あなた』への想いを裏付けているのだという、赦しだ。