『ミッドサマー』を観た


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 小さな頃から白という色が好きで、本能として白を基調としたデザインに落ち着きを感じるし、自覚的に白を好きでありたいと思ってもいる。白についてこだわりのあるデザイナーたちを尊敬して止まないことも、私が白への思いをたしかにする大きな理由だ。

 私が白を好きな理由は、まずもちろん白の持つポジティブな印象が好ましいからということがある。清潔感、明るさ、シンプルさ。そういった要素が身近にあると安心する。白がよっぽど嫌いでなければ、多くの人が白を基調としたデザインを目にしたとき、同じように感じることだろう。

 しかし、自分を見つめようとしたなら、私が白に惹かれてやまない理由は、ポジティブな理由がけっして中心を占めない。白が持つネガティブな要素に私は惹かれている部分が大きいと感じている。「漂白」という言葉が持つ本来の意味としても、また、比喩として使われるときにも、彷彿させるネガティブなイメージ。あったはずなのに、失われてしまった、というような。白ということは、黒ということよりも「なにもない」「無」を思わせる。

ja.wikipedia.org 人間が周囲すべて、白に塗りつくされると、感覚を失ってしまうという現象がある。それがホワイトアウトだ。視野における方向感覚はもちろん、付随して聴覚や触覚の麻痺を引き起こすとパニック状態になることもある。ホワイトアウトに代表される現象への恐怖と、白に対して想起される恐怖は、同調している。

 私は白の恐ろしさに惹かれてやまない。白いことへの安らぎに恐ろしさが表裏一体となっているから私は白が好きだ。ただひたすらに心地良いだけでは説得力も拠りどころもなく、心の底から安らぐことはできない。白への恐怖が安らぎを下支えしている感覚が、私にはたしかだ。そして、白への安らぎが誰にも平等で、享受が容易であるからこそ、人は白への恐怖を思い出し、強く恐れるのかもしれない。

 

 映画『ミッドサマー』は「画面は常に極めて明るいにもかかわらず、だからこそ怖ろしいということが画期的だ」という評判が記憶にある。私はホラーに明るくないので、それがどれほど画期的なのかを測ることはできなかったが、そのとき私は嬉しく思った。白く塗り込められた恐怖を描いた作品が出来、しかも高い評価を得ているのであれば、私にとってそれはたしかに喜ばしいことだからだ。

 前もって思い描いていた通り、この映画は白と、白く飛ばされたような明るさに、花々が常に散りばめられていた。私たちが過ごしているような日本では、常に白飛びするほど明るい画面で映画を撮ることは普通のことではないだろう。私たちには毎日、夜がやって来るから。『ミッドサマー』は北極圏に近い土地の夏至祭、白夜が最も長い時期のスウェーデンが舞台だ。私は、時々白夜の夢を見ることがある。いつまで経っても夜が来なくて、ずっと夏のように日差しが明るいまま時間が流れていくという夢だ。私にとってこれは悪夢だ。夜がいつまでも来ない夢は、理由のない焦燥感に駆り立てられて、怖ろしい。

 白への恐怖や、白夜への恐怖が元来私のなかには色濃いため、『ミッドサマー』という映画は私にとって新鮮な意外性があるというよりも、共感を誘われる画面演出が多かった。「そうそう、こういうのって怖いよね、こういうのが観たかったんだ」といったような。いつ目が覚めてもいつまでも明るいままの空、幸せと安らぎを象徴する草原と花々、笑顔の人たち、色鮮やかな刺繍が施された清潔な衣装、ひたすらにそんな明るい世界がいつまでも続いていきそうな悪夢。作中出てくる薬物の効果と演出にも助けられて、感覚がホワイトアウトによって麻痺していく恐怖を感じられるのは、『ミッドサマー』ならではの魅力だろう。

 

 私が個人的にお気に入りだったシーンは物語の導入、起承転結の「起」、妹が両親と無理心中するシーン。それともう1つ。最後主人公が異常に大量の花々にくるまれ、花でできた着ぐるみをまとってずるずると引きずりながら泣き叫ぶシーンだ。

 前述の通り、終始明るい画面が続くために、妹が両親と無理心中するシーンは記憶に残りやすい。なぜならこのシーンは夜の暗闇のなか、ガレージの車から排気ガスを粗末なホースで家の中へ取り込んで銀色のダクトテープで密閉して酸欠状態を作り出しているからだ。自然豊かでスピリチュアルな描写が占めるこの映画で、生活感に溢れインダストリアルな小道具を使って怖ろしさを演出している心中シーンは対比をはっきりと感じて印象的だった。

 序盤にこの印象的な心中シーンがくるために、実は私は以降のホラー描写を弱く感じてしまった。この心中シーンは脚本の引きも、カメラワークや演出も凝られていてとても質を高く感じた。それゆえに、以降の薬物による幻覚効果や、コミューンの異常さも、心中を越える怖ろしさに思えなかったし、コミューン内のアルカイックスマイルで常にフレンドリーな住人よりも、主人公の妹の方が怖く感じてしまった。ただでさえ精神が不安定な主人公だと描かれてから、妹が両親と無理心中するのはあまりにもショッキングすぎる。不快ということではなく、ホラーを観るためにこの映画を観ているわけだから、そういう意味で妹がホラー映画の登場人物として良すぎるのだ。ホラー的な価値観で、倫理観を抜きに言うと、排気ガスを引き込んだホースをダクトテープで直接自分の口に接着している妹の死に方は映画的にあまりにもかっこよすぎた。

 第2に、花まみれの異常な着ぐるみとなってしまった主人公が泣き叫ぶシーンは、『ミッドサマー』に出てくるさまざまな異形たちのなかで1番造形が好みだった。映画を見た人たちが口々に語るように、人間がグロテスクに損傷されているシーンがいくつかある。ただグロテスクというよりも、制作者たちがさまざまな趣向を凝らして工夫して人間たちをグロテスクな造形にしている。人間の顔面の潰し方が演出がかっていたり、死体が分解して再構築されていたり、『ミッドサマー』らしく花や草木で死体が飾りつけられていたり、人間の死体でなくても、様々な異形がこの映画には登場してくる。さきほども言ったが、ホラー映画を観ようとして観ているわけであるから、こういうものを観るために観ているわけだ。だからこそ、独特の価値観で私は映画を観てしまった。コミューンの異常さを演出するために、ここまで死体の造形に手が込んでいると、面白みを感じてしまう。コミューンの異常さというよりも、制作者たちのアイデアに感心してしまうのだ。今まで誰も作ってこなかったような死体を作って、このコミューンの異常さを描こうという意思よりも、その造形の凝りようとアイデアのほうが面白くなってしまった。私がホラー映画を見慣れていないせいで上手く入り込めなかったのだろう。

 そんななかでも、花の着ぐるみ状になった主人公はよかった。顔以外すべて大量の花で覆われて、花でできた巨大ななめくじか、スライムのようになって泣き叫ぶラスト。制作者の意図通りなのか、『ミッドサマー』を象徴しているかのような造形だと感じた。手足も出ないほどに花に埋め尽くされて、這いずり回るしかない異形と成り果てても、主人公の顔だけは狂気に侵され泣き叫んでいるというという壮絶さ。ここだけ切り取れば、どこか神話か伝承の一部のような、示唆に満ちたシーンにも見えるほどに象徴的であるところが好ましい。主人公は精神的にも不安定で泣き叫びパニックになるシーンも多く、その演技にも最後は磨きがかかっていたからこそかもしれない。

 

 『ミッドサマー』という映画は、物語に意外性や落としどころがあるわけでもなく、全体的にどこか示唆に満ちていて、詩的な雰囲気があった。スウェーデンの白夜も、草原に咲く花々も、衣服や内装に施された装飾も、その詩的な雰囲気とマッチしていた。脚本に展開や結末への納得があると、いまいち舞台と合致しなかったかもしれない。それゆえに、何度も観るとそのたびに発見がある映画かもしれないと思う。

 またいつか私はいつまでも夜が来ない白夜の夢を見るだろう。または、花々に埋もれて身動きが取れない夢も見るかもしれない。そんな夢を見て目覚めた朝、私はきっとこの映画を思い出す。