ポニテと姫カット リズと青い鳥と楓と美兎

 オタクがオタクと言われ、「俺なんて(他の人と比べたら)全然オタクじゃないのに…」と思うのと同じように、俺が百合おじさんだのなんだのと言われると「俺なんて全然…」と思う。そのような思考パターンもそろそろ限界が近づいたある日、俺は気がついた。「鎧塚みぞれと傘木のぞみ、月野美兎と樋口楓、髪型の組み合わせ一緒やんけ」と。だからどうした、という感じなんだが、気づいたときの衝撃はいかばかり、頭を抱えて何分かは動けなかった。
 とはいえ、鎧塚みぞれと月野美兎はそんなに髪型、似てない。黒髪ストレートってだけだし、傘木希美と樋口楓に至っては髪色が全然ちがう。そうは頭で分かっていても、「リズと青い鳥」を劇場で視聴しているオタクのほとんどが後半に差し掛かると足を組んで手を額にやるという、悩ましいオタクポーズに、もう一度なってしまうのだ。
 「リズ」で「才ある者の特異」が描かれたのが鎧塚みぞれであり、にじさんじ所属配信者の中で特異さをもってして立ち回り始めた存在が、月野美兎だ。集団において特異さを持つ者が複数人いたとしても、特異さを「発揮できる」となるとそうは何人もいないのが常であり、時にそれは「天才」として評され、描かれる。そして、天才の対なる存在として凡人がある。天才は凡人ではなく、凡人には測り難いからこそ天才とされる。しかし天才を天才として捉えるのは常に周囲の凡人たちだ。天才と関係する周囲の凡人たちがいるからこそ、天才は天才として存在しうる。そして俺は、凡人だ。急に俺がインサートで「のぞ俺みぞ」「楓俺美兎」「押俺安」といった感じでとてもつらい。しかし、しょうがない。我々オタクは常に凡人の観測者だ。
 凡人が天才を観測するのは、難しい。「リズと青い鳥」において、傘木希美は鎧塚みぞれに対して「ずるい」と本心を吐露する。抽象と象徴に満ちた「リズと青い鳥」という作品において登場人物の「本心」を見つけようと思ってもそう一筋縄とはいかない。あるひとつのセリフをとってみても、いったいどれが作中人物の感情で、どれが象徴的なモチーフなのかの判断に迷ってしまう。傘木希美が「ずるい」と鎧塚みぞれに漏らして打つけて寄越すシーンは、言葉少なな鎧塚みぞれが珍しく思い切り吐き出した情動に反応するかたちで発生する。一筋縄にいかない思春期の女子高生たちがぶつかり火花を散らす人間関係のなかでも、稀有な炎色反応が起きたシーンと言える。凡人が天才に対して「ずるい」と言うとき、それは凡人が天才の特異さを特権として捉えていることを表す。俺が「リズと青い鳥」を観てて思ったのは、「鎧塚さんめっちゃサボるやんけ」ということだ。吹奏楽部や女子の体育授業というものの通例がどうなのかについては無知だが、鎧塚みぞれは、体育のバスケの人員交代の際、自分の番を無言の圧力をもってして中川夏紀に、プレイ続行してもらうかたちで代わってもらい、傘木希美がパート練をしてるときも生物化学室でフグの赤ちゃんにエサをやっている。この作品で鎧塚みぞれは「サボってもなんとなく怒られず、なんとなく特別扱いされている」というふうに描かれているように見えた。俺はそれに対して怒っているわけではない。「まあそういうこともあるだろうな」と思っている。たしかに、実生活においてもそういう特別な能力を持つ人間が特別扱いされている場面には何度か出くわすことがある。それに対し、傘木希美はどうだろうか。傘木希美という女性はパートチームの子たちとも盛んに交友を持ち、顧問の言うことにはハキハキと返事をし、冗談を交えながらも部の会計係として責任を持ち、それでいてマイペースで浮いている鎧塚みぞれとの深い友人関係を保持している。そりゃ「ずるい」とも言うわな、と思う。
 しかし、傘木希美の吐いた「ずるい」という台詞はけっして正しいものではない。鎧塚みぞれという女性は「特別だから特異に振舞っている」人間ではなく「ただ、自然にそうある」だけだ。青い鳥が同じ色を持つ青空に溶けていくように羽ばたく、まさにそのさまを人として切り取ったような女性が、鎧塚みぞれである。傘木希美の「ずるい」というセリフは、青い鳥が棲む鳥かごに鍵をかける行為でしかない。『リズと青い鳥』という仮想の児童文学が深層に流れる思春期の少女たちの青春は、その物語の流れに沿うかたちで描かれていく。鳥かごの錠前は解き放たれ、青い鳥は空に溶けていく。「ずるい」という傘木希美の気持ちは、聞き届けられることなく、二人はそれぞれ別の進路を歩んでいく。それでも、傘木希美は鎧塚みぞれを受け入れて生きていくのだろう。嫉妬はくすぶり、後悔を引きずり、なりたかった自分を諦めきれないまま、それでも、傘木希美は鎧塚みぞれを受け入れる。一人の女性が一人の女性をひとまず受け入れることができたことはたしかに描かれている。
 そんな傘木希美の矛盾しながら成立するような感情、その葛藤を推し量ることで、俺は鎧塚みぞれという女性を観測できるのではないかと考えている。天才は数多くの凡人がいるからこそ成り立つ存在で、天才の数が凡人の数より大きければ、凡人が天才になってしまいかねない。そして俺は、凡人だ。「のぞ俺みぞ」「楓俺美兎」「押俺安」という話ではなく、やはり物語があるところには、消費者が同調できる登場人物がいる、ということだ。「傘木希美は俺だ!」なんてことを往来で叫ぶことはできないが、俺はポタクなのでぽシャケ飲んで曖昧になってしまえば、「まあ〜傘木希美の言ってること分かるわ〜とかは言えないけどさ〜、ま〜、分かるよね(笑)」くらいは言ってしまうだろうことは想像に難くない。天才が起こす現象を凡人が観測することは可能でも、天才そのものを観測することはとても難しい。凡人が想像し得ない手順を踏むからこそ天才の起こす現象は奇跡のように見えて、我々凡人を楽しませてくれる。むしろ、想像し得ないからこそ観測するのが楽しいのだ。手品のタネが初めからわかっている見世物は面白みに欠ける。
 では、人間関係を描く物語において天才が登場したとき、我々オタクたちはどう鑑賞すべきか?当然ながら人間関係を描いた物語において重要視されるべきは、人間が起こす現象よりも人間そのものだ。「リズと青い鳥」はたしかに「響けユーフォニアム」の外伝ではあるが、本編を見なくても全然楽しめるとされているし、実際「リズを青い鳥」を鑑賞した時、俺は「響けユーフォニアム」をすべて視聴済みではなかった。しかしけっして俺はそれを後悔しなかった。もちろん、「ユーフォ」は見るべき作品だし、見たほうが楽しめる小ネタはシリーズファンのためにいくつも用意されていた。しかし、俺はむしろ本編を見なかったことによってより傘木希美と鎧塚みぞれの関係が際立ったような錯覚さえ感じた。そのような錯覚が生じるほどに「リズと青い鳥」は人間関係とそれにまつわる心象風景の物語なのだと感じ入った。「響けユーフォニアム」シリーズとして吹奏楽の演奏シーンは重要な演出として使われてはいるが、あくまでそれは演出だと思っている。なんのための演出か?それは傘木希美と鎧塚みぞれの人間関係のための演出にほかならない。鎧塚みぞれの演奏は部員たちの心を打ち、笠木希美にいたってはその演奏によって打ちのめされるまでに至った。まさに特異な人間の特異な行動によって起きた奇跡的な現象だ。(あんなにサボってたのに…だ)この時奇跡的演奏を為したのは鎧塚みぞれだが、鎧塚みぞれだけを観測したところで「この演奏がどれだけ凄まじいものだったのか」「なぜそんな奇跡的演奏ができたのか」を理解することは難しい。傘木希美という存在を通すことで我々オタクはようやく理解の入り口に立つことができる。鎧塚みぞれの演奏によって傘木希美は打ちのめされてしまい、部活の途中だというのに部室を出て行ってしまう。その先は鎧塚みぞれの拠り所である生物化学室だった。そこで前述の感情と感情のぶつかり合いの火花が起こる。責任をもって部活動に従事し、楽曲に対して人一倍思い入れがあったはずの傘木希美が全員練習中に部室を逃げ出し、鎧塚みぞれの拠り所へと行き着いて、鎧塚みぞれに普段押し潰していた感情を吐露するほどに、鎧塚みぞれの演奏が凄まじかった、という解釈が可能になる。傘木希美の行動が鎧塚みぞれの特異さを象徴する。この構造こそが「リズと青い鳥」という作品の根幹であると俺は思う。
そして、この「天才の為す奇跡を受けた凡人の行動こそが天才の特異さを象徴する」という構造こそ人間関係に生じる物語の根源とさえ言えないだろうか?もちろん言い過ぎなのだが、こと百合においてこの構造は多くに採用されているということは確実だろう。「人間関係に生じる物語」、それはけっして創作作品にばかり起こることではない。我々オタクが観測してしまえば、それはもう物語となってしまうことがある。そう、「ナマモノ」だ。それは時に実生活におけるトラブルの元となってしまう。物語は偏在し、現在も産まれ続けている。
物語を物語足らしめるには、「キャラクター」がどうしても必要である。虚構として生じた存在が行動することによって物語は物語として形を保つことができる。しかし、絶対に「虚構として生じた存在」でなければならないのではない。単に、我々オタクたちが「それ」を「虚構」として捉えてしまえばいいにすぎない。しかし、これは詭弁であり欺瞞であり、だからこそ悪意ある犯罪的行為として時に扱われる。ここで死して尚もインターネットに漂泊するダイアローグの一片を引用しようと思う。

 

  ––––それでは一生恋愛はできないですね。恋はお互いがその関係を結ぶことに合意した甘い犯罪なのですから。

 キラーワード。結論からいうと、今から所謂「ナマモノ」を肯定するようなことを言おうと思う。しかし、前提としてあるのが「甘犯」というインターネット概念である。重要な前提として、「甘犯」が持つ本来の意味と、「甘犯」がインターネットにおいてどのように扱われているかを念頭に置いてこの「ナマモノ」の話をしようと思う。「甘犯」分からんしお前には倫理というものがないのか、とお怒りの諸氏はしょうがないのでDMとかそういうので殴りに来てください。
 人と人があれば、なんであれ関係性は生じる。「無関係」という関係が生じるというような解釈さえ可能だ。「かつて彼女たちは無関係だった」という説明があったとして、その「かつて」が現在だとすれば、電車の向かい側の席で寄り掛かって眠っている女子高生とOLでさえ関係性を見いだすことが可能であり、関係性があるところには物語は必ず生じる。全ては観測者次第なのだ。
 前述した「リズと青い鳥」における、「傘木希美という同調可能な凡人を通して、鎧塚みぞれという異質を観測することが可能となり、その二人の関係における物語を見出す」というパターンは、いわゆる「リアルさ」を持ったパターンだ。我々オタクがかつて中学生・高校生だったとき(注:この文章を読んでる奴等を俺は全員三十代前半のオタクの男性だと思っている)、部活であったりクラスであったり、きっとなんらかの団体には属していたことだろう。団体というものは、個々の寄せ集めであり、厭が応にも個と個の比較という現象が生じるものだ。個と個の比較が生じれば、個ひとつひとつの特性が見えてくる。目立つもの、目立たないもの、バランスを崩すもの、バランスを保とうとするもの。それぞれの特性と特性が相互に干渉し合う現象こそが団体だともいえるだろう。部活であれば、部長があり、副部長があり、エースがあり、マネージャーがある。これらは部活においての役職にしかすぎないが、適合不適合にかかわらずそれぞれがその役職を任されるべき特性を持っていたと言える。「部長なんて絶対やりたくないのに部長になったしまった部長」は、そのような特性を持っている人物だし、「誰もが彼を部長にぴったりだと思っていたし、自分も部長になると信じて疑わなかった部長」は、そのような特性を持っている人物だということだ。我々オタクは団体において何にもなれなかったしならなかったと思っている思い込んでいる観測者でしかなかったので、こういう観測はとても容易なことだった。しかし、当時はけっしてそこに物語を見出そうとはしなかったはずだ。
 部活動において、どんな部長と副部長がいたにせよ、その二人に関係性が見出せないということはない。必ず「部長と副部長という関係」を見出すことが出来る。そして、部長副部長の持つそれぞれの特性を踏まえてしまえば、もうそれは物語である。たとえば「部長になりたくなかった部長」と「部長になれなかった副部長」の間には物語性が介在するし、部長副部長それぞれの特性は真逆であっても構わない。特性さえ捉えてしまえば物語を見出すのは容易なことなのだ。
 つまり、極端な話、お前は「会社がつまらないつまらない仕事を辞めたい」ばかり言ってないで、部長と課長のBL妄想くらいしてみたらどうなんだ、ということにもなる。それをやってから仕事は絶対に辞めろ、ということだ。
 これが、おそらくは「ナマモノ」の成立過程になるのだろう。人であれば誰でも現実の関係性に物語を見出すことは可能だし、物語がないところなんてどこにもないということになる。正常か異常かの境界なんて対象がアイドルなのか会社の上司なのかという些細な差しかない。推しのアイドルの握手会で推しのカップリングを描いた同人誌を渡すのも、朝出勤した途端に課長のデスクへ部長×課長の同人誌を叩きつけるのも、なにも変わらない行為だ。
 だからこそ、「ナマモノ」には禁忌が付きまとう。現実に関係性の物語を見出すことには倫理が係わってくる。しかし、わかってはいても我々はやめることができないでいる。「半分」虚構で「半分」現実の月野美兎と「半分」虚構で「半分」現実の樋口楓の関係性に物語を見出すことは「半分」禁忌だ。我々は「半分」の禁忌だって確かな禁忌である、といまさら自覚し直したところで、倫理を無視して禁忌に手を染めざるを得ないのだ。手がかりのない真っ黒な穴を落ちていくように。
 まず、大意のバーチャルユーチューバーを「完全に虚構の存在である」と定義することは可能なのだろうか?確かに論理立った定義が可能であるならば、我々の禁忌は赦しを得ることが可能になるだろう。結論を先に言うと、無理だと思う。俺はバーチャルユーチューバーを完全な虚構だとはどうしても思えない。
 まず考えられるのが、「バーチャルユーチューバー概念」と「アニメキャラ概念」の差である。ここで言う「アニメキャラ」とは非オタクの人間がバラエティ番組なんかで口にする「アニメキャラ」と同意だとする。つまり、ゲームやライトノベルのキャラもまとめて「アニメキャラ」と称しようという例の雑な括り方である。オカンがプレステをも「ファミコン」と呼ぶ古き悪きアレである。
アニメキャラとバーチャルユーチューバーの違いとはなにか?虚構の像があり、声を吹き込む者がおり、それらを目論み通りに動かそうと試みる運営者が背後に控えているというところまでは同じだろう。
 バーチャルユーチューバーは生活をしている。VR空間であったり、虚空であったり、バーチャル世界に存在すると定義された関西や関東やエルフの森で生活を行なっている。それを垣間見るかたちで我々は鑑賞を行う。身体測定であったり、アプリやゲームのプレイ実況であったり、生放送であったり、それら全てはバーチャルユーチューバーたちの生活そのものであり、我々が糧とするのは彼らの生活である。アニメキャラが生きる場は生活とは言えない。アニメキャラは予めつくられた物語の上でしか生きることができない。それとちがってバーチャルユーチューバーの物語は予めつくることができない。その差は、いわばドラマ番組とバラエティ番組の差である。いくらドキュメント形式を取ったとしてもドラマはドラマであり、いくら筋書き通り進んだとしてもバラエティ番組はバラエティ番組だ。その差を埋めることはできない。
 彼らバーチャルユーチューバーは生活を生業とし、我らオタクはその生活こそを糧とする。決して我らを「カプ萌え」させるために予め作られた物語ではない。ここに我ら百合を糧とする者の赦しは存在しているのか?存在していない。しかし、彼らバーチャルユーチューバーは「カプ萌え」が予め禁止された法の上を生きているわけでもない。バーチャルユーチューバーの生きる世界に我ら百合豚を断罪する法は現状存在していない。ただ、彼らは生活しているだけなのだ。
 まず禁忌以前に、人の生活は、邪魔されるべきではない。残業続きの先にへとへとで辿り着いた週末に当日いきなり灼熱の河川敷でBBQに誘われてお前は意気揚々と向かうことができるか?俺はできない。「勝手に楽しくお前らでわいわいやっといてくれ」と思う。それと似たように、どんなに美しくとも我々は彼らに百合の花束を贈るべきではない。知らない人間から唐突に贈られる花束は祝福とは言えず、事件の前触れでしかない。不必要なものを贈ることは彼らの生活を阻害することになりかねない。それゆえに「ナマモノ」はトラブルの元となりやすく、古くから生業とするものが静かに花を愛でるに留めるはそれゆえである。
 しかし、なぜ我々はわかった上でも関係性を愛でることをやめられないのだろうか?なぜ我々はワイワイと騒ぐ者たちを横目に爪を噛みながら関係性に物語を見出し続けては静かに自己を慰め続けるのか?それは何にも代え難い魅力がそこにあるからだ。
リズと青い鳥」中に見出すことができる前述の「天才の為す奇跡を受けた凡人の行動こそが天才の特異さを象徴する」という構造は、「のぞみぞ」に適用することもできるが、「かえみと」にも適用することができる。
 月ノ美兎の魅力とはなんだろうか?まさに枚挙にいとまがないとはこのことで、世間の評価が裏付けるようにいくらでも挙げることができるだろう。俺はバーチャルユーチューバーを、今までの様々なコンテンツたちよりも、より人間性が評価に直結するものだと考えている。その人そのものが持つ善性、特異性、可能性が評価され、誤魔化しが効きづらかったり、作為が入り込む余地が少なく、人間性が露呈しやすいと感じる。作者そのものが作品ゆえに、作者の作品さえ良ければ良いという判断基準が介在しないのだ。だから、俺が月ノ美兎の魅力を一言で大雑把に表すのならば、「彼女の人間性」と応えるだろう。「特異さを持つ人間性が善性を保っていて、様々な可能性を見出すことができる」この状態を人は「才能がある」と評する。才能が際立った場合、「天才」とさえ呼ばれることがある。鎧塚みぞれの演奏に感動した吹奏楽部部員たちのようにただその演奏に感じ入ることも可能だが、「リズと青い鳥」が我々にみせた演出はそうではなかった。傘木希美の受けた衝撃を通して鎧塚みぞれの演奏の凄まじさを我々はまざまざとみせつけられ、また、その展開に満足した。それと同じように、月ノ美兎の面白さだけを楽しむだけなら彼女単体だけをみせればよく、彼女と関係する者たち、つまりは「にじさんじ」という団体は必要なくなってしまう。「にじさんじ」はほかの「ライバー」との関係性の提供を積極的に行うことはしなくてよいことになる。しかし、「にじさんじ」は「ライバー」と「ライバー」が干渉し合うことによって生じる関係性にこそ目をつけ、言って仕舞えばそうすれば盛り上がって儲かると思ったから現在のように積極的に関係性を売りとしているのだ。「プロジェクト美兎」ではなく「にじさんじの美兎」を継続し続けている所以がそこにある。
 もはや言うまでもなく俺の言いたいことが察せられると思うのだけれども、あえて明言しよう。「傘木希美は樋口楓である」と。そして才ある者を真に際立たせるのはその傍にある者なのだと。際立った才能を我々凡人が深く解しようとおもったならば、才ある者の傍に立つ者の苦悩と想いの深さに同調することで感じ入ることが最適解だ。もちろん、「傍に立つ者」にも、豊かな才能があることが多い。「傍に立つ者」でいるには、「傍に居ようとしている」必要がある。重要なのは、想いなのだ。常にそうである。重要なのは、常に想いだ。才能をもち、事を為すことによって世を彩る稀有な存在。その傍に立とう想うことは決して容易なことではない。才あるものが自分と同じ事を為すために同じ団体に属していたならば、傍にある者は一層の苦難を重ねるだろう。先にも言ったが、団体とは個と個の比較が、特性と特性の差異が際立つことによって成立し得る概念だ。才あるものの為すことと、自分の為すことの差異、比較。それによって生じる感情はけっしてきれいなものばかりではない。憧憬、嫉妬、尊敬、自虐、心配、理解、不理解、数々の感情が湧き上がっては沈んでを繰り返すことだろう。その感情の渦巻く混沌の末に、傘木希美のように感情が噴き出すことは、むしろ正しいことのようにも思える。しかしその苦難こそが才あるもの為すことの彩りそのものなのだ。
 樋口楓は、月ノ美兎の傍に立っている。月ノ美兎の眩い輝きはその眩さゆえに色を測ることが難しいが、輝きによってできる影は樋口楓だが、その影はけっして暗く単調な色彩ではない。それは我々の眼が見開かれるほど鮮やかに出色している。
傘木希美が部内において活発に働く様子と、樋口楓が様々なバーチャルユーチューバーと積極的な交友に奔走する様子。鎧塚みぞれが担当教員に音大受験を薦められるほどの演奏技量が認められていることに対して傘木希美が抱くやるせなさ、月ノ美兎だけがにじさんじで突出したチャンネル登録数を持つことに対して樋口楓が感じる引け目。アニメ映画作品のキャラクターたちに、二次元と三次元の境界に立つキャラクターたちがオーバーラップしていく感覚。俺はこの感覚を自覚して、オタクポーズで何分も動けなくなったのだ。
よく現代異能バトルなんかで創作が現実に侵入してくるみたいな表現があるけれども、現在それが起こりかけているような、もう起こっているような感覚を、バーチャルユーチューバーの席巻によって感じた者も多かったのではないだろうか。俺もその一人だ。その感覚を一番鋭敏に感じたのは、趣味バラバラノリちぐはぐ性格真逆の二人をツイッターで頻繁に同衾させて大いに笑顔になっていた我々や絵師たちが、月ノ美兎と樋口楓が同衾していくさまを見せつけられた一夜だった。鎧塚みぞれと傘木希美を同衾させるのは、我々の妄想もしくは二次創作であり、「原作にはあり得そうにないこと」として「のぞみぞハッピー同衾ライフはよ」とか言っていたフシもあった。しかし、月ノ美兎と樋口楓は現実の生活の延長線上として同衾を行い、しかもそのさまをリアルタイムで放送した。あれはたしかに現実だった。妄想が現実として襲いかかってきた時、我々は支離滅裂なことを言うしかできないことがあのときよくわかった。同衾同衾言うな。
 今まで起きるはずがなかったことが起きている。明確なルールさえいつできるのかわからないような現状において、結局は個々の倫理観に治安は委ねられる状況になっている。課長の机に置かれた部長×課長の同人誌は然るべき方法を以て静かに処分されるべきだが、それをわざわざ手に取って「こんなことが許されて良いのか」とオフィスで叫び出す者もいる。今一度我々は先人がどのようにして「ナマモノ」を愛でていたのか学び直す段階に来ているように感じる。未知の店の暖簾をくぐったならば、食事を注文する前に先客の様子を観察することも時には必要だろう。この店はどうやらすきやばし二郎、もしくはラーメン二郎相模大野店のどちらかのようだ。
 どうだったろうか。樋口楓の正体が傘木希美であることがこの文章でよくわかったと思う。本当によくわかった人がいたら怖いので、言い訳や言い逃れなどを最後に書いて終わろうと思う。
 結局この文章で完全に正しいことが書かれている部分は、一箇所だけだ。「バーチャルユーチューバーはただ生活しているだけだ」ということ。それだけだ。彼らは、ただバーチャルユーチューバーとして、キャラクターとして、現実に生活している。それは尊重されるべき存在であるし、気安く話しかけられるべき存在でもある。我々人間と何ら変わらない。つまり、我々には喜ぶことしかできないのだ。「俺の嫁」が、「推し」が、「自担」が、画面の向こうで本当に生きているんだと、そう実感できる日がやっとやってきたのだから。