東京事変『私生活』中、「あなたの頰の仕組み」について

誰が何を気にしているのか

 樋口楓さんが東京事変の『私生活』という曲を歌っていてよかったですね。

 


樋口楓の夜更かし夏休み(別のタブで開いてくれ)

 

 まあ、それはいい。置いとかないと話が進まない。

 それはそうとして、『私生活』の歌詞のことだ。

 

酸素と海とガソリンと
沢山の気遣いを浪費している
生活のため働いて
僕は都会を平らげる
左に笑うあなたの頬の仕組みが乱れないように

 

追い風よさあ吹いてくれよ
背後はもう思い出
向かい風まで吸い込めたらやっと新しくなる

 

夕日も秋も日曜も
沢山はない出会いも浪費している
行ったり来たり繰り返し

僕は時代によいしょする
あなたの眼には情けな過ぎて哀れに違いない

 

羅針盤よさあ指してくれよ
現在地を教えて
既存の地図を暗記してもきっとあなたへ向かう

 

あなたが元気な日はそっと傍に居たい
あとどれくらい生きられるんだろう?
行かないで


追い付かせて
待ってあと少しだけ
生きているあなたは何時でも遠退いて僕を生かす

 

 この歌詞の中の「左に笑うあなたの頰の仕組みが乱れないように」という箇所からこの歌を解釈していきたい。

 歌詞のそのままに、主観人物は「僕」、対象人物は「あなた」と書く。

 

 「頰の仕組み」ということから、「頰」に「何らかの働き」がかかることが考えられる。

 「僕」は、「左に笑うあなたの頰の仕組み」が「乱れないように」気にしている。

 「頰の仕組み」が何らかの働きをするとして、どのような働きを気にしているのだろうか。

 人が他者の「頰が働いている」ように見える時、それは「動き」を捉えていることがたいていだろう。相手の口腔内の動きを実感するというのはかなり難しい。

 「頰の動き」、つまるところ「表情」のことだ。

 「あなたの表情が乱れないように」、左側から「僕」は気にしている。

 歌詞にあるように、「あなた」はこのとき、「笑う」状態になっている。「笑」の表情は「僕」にとって乱れていない表情なのだ。

 「僕」は笑顔以外の表情になることを気にしている。では、笑顔以外のどんな表情になることが「僕」にとって「乱れている」ことになるのだろう。

 

酸素と海とガソリンと
沢山の気遣いを浪費している
生活のため働いて
僕は都会を平らげる
左に笑うあなたの頬の仕組みが乱れないように

 

夕日も秋も日曜も
沢山はない出会いも浪費している
行ったり来たり繰り返し

僕は時代によいしょする
あなたの眼には情けな過ぎて哀れに違いない

 

 所謂この曲の「メロ」の部分は「僕」の日常が描かれている。

ここから読み取れる「僕」は「繰り返しの毎日を浪費と感じて疲弊している」人物に見える。

少なくとも、明朗ではないだろう。少なくとも「あなた」に「情けな過ぎて哀れ」と思われていると思っているという卑屈さが垣間見える。

 『私生活』という曲の主人公は「生活」に疲れている。

 同箇所のメロ部分の対応として「左に笑うあなたの頰の仕組みが乱れないように」と「あなたの眼には情けな過ぎて哀れに違いない」はある程度の対応を見出してもいいだろう。

 「あなたの眼には情けな過ぎて哀れに違いない」はどう考えても「あなた」の本心とは別の、「僕」の卑屈な思い込みと捉えられる。

 生活の浪費を繰り返していて、「情けな過ぎて哀れに違いない」という展開だろう。

 逆さまから見れば、「情けな過ぎて哀れ」なのは「生活の浪費を繰り返して」いるとも言える。

 この曲はメロ部分に比べてサビ部分に盛り上がりを感じるよう勾配がついている。サビの部分は「追い風」「羅針盤」「地図」など、現在地からの移動を感じさせる言葉が多い。それに加え、1サビには「新しくなる」という変化を期待させる言葉も含まれている。

 「僕」はけっして「生活の浪費を繰り返し」たいわけでも、「あなた」に「情けな過ぎて哀れに違いない」と思われたいわけではない。そのような状況から脱したいという想いがあるのだ。

 そこから考えると、「僕」は「あなた」が笑顔以外の表情になることを恐れているのではないかという予測がつく。このメロ箇所の対応によって、「あなた」が笑顔以外の表情になることは「僕」にとってネガティブなことかもしれないからだ。

メロがネガティブな思考で、サビがポジティブな思考という対称性から、「僕」が危惧する「あなた」の表情とは、ネガティブな表情であろうことが考えられる。

 悲しみ、怒り、無関心、そのような感情があなたの表情に浮かぶのを恐れている。

 と、いうのはこんなにつらつらと書かなくても曲を一回聴けばわかることだ。

 問題は、「対象がネガティブな表情をすることを恐れる」という感情を、「頬の仕組み」から捉えるというのはどういうことか、ということだ。

頬の仕組みを気にする人

 隣にいる人物が悲しんだり怒ったりしないように気にするのはふつうのことで、それはポエジーでもリリカルでもなくそのままでは印象的な歌詞とはなりづらい。

 そこで、「左に笑うあなたの頬の仕組みが乱れないように」とすることで歌詞になり得る。

「隣にいる人物が悲しんだり怒ったりしないように気にすること」と「頬の仕組みが乱れないように気にすること」は、同義と考えても問題ないが、違いが全く無いわけではない。

 「頬の仕組み」が気になるということは、前述の通り、「頬の動き」の方が先に気になるということだ。先に「頬の動き」が気になって、その結果として対象の感情が気になっていく。「僕」はこのとき、感情を捉える際に先に頬の動きを捉える。

 これは、いきなり人間の内面を見ようとするのではなく、実際の人間の動きを注視するということで、「僕」は人間に対していきなり踏み込んだ解釈をしようとしない、またはできないのだろうと考えられる。

 なぜ、先に感情を把握する前に表層の動きを先に捉えるのか。「僕」は対象の感情に関心があるにも係わらず、感情自体を先に推測することをしない。それは実際に動く頬の動きしか信じられないということを表しているのではないだろうか。

 他人の感情を測るとき、それは推測にしかならないことがほとんどだ。推測の域を出て、事実となるとき、それは時に流れる涙であったり、真っ赤に染まった耳であったりする。そのような「乱れ」が起こる前に、「頬の動き」を見つけようとするのが「僕」なのだ。

 「僕」は現実に起こることしか信じない人物だとすることもできるが、それだけではないと思う。

あなたの眼には情けな過ぎて哀れに違いない

 これは、「あなたの頬の仕組み」と対応したメロ箇所。

 それに、

あなたが元気な日はそっと傍に居たい
あとどれくらい生きられるんだろう?
行かないで

 唐突な死への不安の吐露。これは決して裏設定のようなものから来るのではなく、日々生きていてふと急に来る死への不安を描いていると考える。

 この歌詞のうちの二箇所は、「僕」の自信のなさや卑屈さ、不安さなどが歌われている部分だ。

 僕の人物像とは、「あなたの感情を機微を気にし」ているのに、「自分は情けないのであなたに哀れだと思われている」と考え、「ふと死への不安を覚える」ような人物像だ。

 その「僕」が「頬の仕組み」を気にするとき、それは実際に起こってもいないことを信じるのが酷く不安だから、「頬の仕組み」から感情を捉えようとするのだと考えられる。

恋と不安

ところで、恋に不安は憑き物だ。むしろ、不安に思うことこそ恋であるとも言えるだろう。

 結局のところ恋とは、人間関係における距離が、非常に近づいた状態のことを言う。人と人が関係を持つ時、比較や対照を抜きに考えることはできない。比較や対照によって生まれる感情として恋があり、比較や対照によって生まれた恋が人と人との関係を接近させる。

 『私生活』における「僕」が何をそんなに不安に感じ、恐れているのかいうのは、そこに起因があるように感じる。

そもそも、『私生活』は恋の歌だ。

羅針盤よさあ指してくれよ
現在地を教えて
既存の地図を暗記してもきっとあなたへ向かう

 この箇所は「羅針盤はきっとあなたへ向かうだろう」というふうに取れる。これは「僕」が感じている内なる情動の比喩であり、羅針盤とは常に一定の方向を指すことからも、その情動は固くブレないものなのだ。

 「僕」は「あなた」にそれだけ強く焦がれている。

 『私生活』の歌詞は、強く「あなた」に焦がれる気持ちと、「僕」の持つ不安と恐れがない交ぜになっている。

 「あなた」に焦がれるからこそ、「僕」は卑屈になり、「あなた」に恋する余りに、「僕」は感情の乱れを恐れている。

左に笑うあなたの頬の仕組みが乱れないように

 「左」とは、どういう意味だと考えられるか?

 人が真横にいて、わざわざ「左にいる」と表現するとき、それは二人並んで歩いているときではないか?

 日本において市街地を歩く時、たいてい自分の右側には車道がある。これは2018年に於いては古風な風習と言えるだろうが、「道を歩く時、男性は女性の左に立って歩くことがエスコートである」という言説がある。「あなた」が左にいてともに歩いているということは、「僕」はエスコートのために右に立っていると取ることも可能だ。

 「僕」は男性の代名詞だが、この際「僕」と「あなた」が男性か女性かは考える必要はないように思う。ただ、代名詞の性がちがうために、「僕」は「男性的立場」で、「あなた」は「女性的立場」であると考えざるをえない。

 これだけ日々に不安を感じ、卑屈にさえなっているが、「僕」は「あなた」をエスコートしようという意志がある。一見、卑屈な人物がエスコートしようという意志を持っているのはそぐわないように見える。しかし、頬の動きから感情を捉えようとするような慎重さを持つ「僕」ならば、あなたをエスコートするために左側に立つことを忘れたりはしないだろうとも考えられる。卑屈だからこそエスコートを忘れない慎重さがあるのだ。

 この歌は、『僕』の恋の形を描いた歌なのだろう。

 そして、『僕』の恋の形をわざわざ歌い上げるというのは、ある種の赦しであるような印象も受ける。それは、『僕』の不安や恐れや卑屈こそが、『あなた』への想いを裏付けているのだという、赦しだ。