生活するバーチャルYouTuber

ユリイカ二〇一八年七月号「特集バーチャルYouTuber」が捉えるバーチャル世界

 ちょっと前、何ヶ月もかけて一万文字の謎の文章を書いた。

 鎧塚みぞれと傘木希美の関係性に月ノ美兎と樋口楓の関係性がダブっていくという文章のはずが、結局怪文書にしかならかったし、今回もです。

loveisalreadyyokujitsu.hatenablog.com  

 別に読まなくてもいいです。

 最後の方に「バーチャルYouTuberは生活をしている」という話を書いていて、今回その話を更に書いていこうと思う。

 やはりバーチャルYouTuberというのは「ナマモノ」であるという結論に至って、我々オタクはどうやって気をつけていきましょうねえ、というと、「人の生活を邪魔してはいけない」という配慮に則ってやっていきましょう、ということになった。

 「生活をしている」とはどういうことか。我々のしている、バーチャルYouTuber鑑賞というのは、昼休みに教室の机に突っ伏して女子たちの会話を盗み聴いていることと変わらないのではないかということだ。「クラスの女子」というものを分解していくと、「クラス」で「生活している」、「女子という属性を持った者たち」ということが言える。「バーチャルYouTuberは生活している」の「生活」というのはこの、「クラスの女子」の「生活」と同義である。言い換えれば、「団体に属し、行動をし、留まっている」とも言えるが、「生活」という概念にはそれだけにとどまらない要素が含まれていると思う。それは場所と時間だ。ある特定の場所で流れている時間をバーチャルYouTuberが生活しているというのは注目すべきことなのだと気づいた。いつ気づいたかというと、ユリイカを読んだ時だ。 

ユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber

ユリイカ 2018年7月号 特集=バーチャルYouTuber

 

 オタクはすぐユリイカを買いがちだが、たいがいは全記事読みきれず、積ん読の地層に組み込まれていくことはよく知られていて、俺もご多聞に漏れない。

 このユリイカではSF視点でVRとARを捉えて、バーチャルYouTuberを考察するみたいな試みがチラホラ見られた。バーチャルYouTuberの過ごす時間軸とバーチャル空間に対し、我々が生活している時間軸と場所を比較して、バーチャルYouTuberの存在する場所を探っていこうというようなことだ。正確には、バーチャルYouTuberの居所を探し当てるというような文脈ではなく、バーチャルYouTuberの居所を探していくことに面白さを見出していこうという感じだった。

バーチャルYouTuberによって、時間軸も場所もそれぞれバラバラになっているとは書かれていたが、総じて「我々の生きるところとは全くの別空間」もしくは「我々の生きるところとは重なりつつもズレている」もしくは「パラレル状態」という表現がされていた。たしかに正しいとは感じたが、何となく「ちがう」というか、「少し足りていない」と俺は思った。「切り離されたバーチャル空間」や「パラレルワールド」には「生活」の要素が足りていないという感触があった。俺にはバーチャルYouTuberは「生活する存在」だという確信がある。

 改めて、「生活をしている」とはどういうことだろう。バーチャル空間やパラレル時間軸でも生活することは可能なはずだ。しかし、SF、サイエンスフィクションとしてバーチャルYouTuberを捉えることにはどうしても違和感が生じる。なぜなら、彼ら・彼女らはフィクションと言えないからだ。生活から確かな文脈を捉えることはできない。それはやはり彼ら・彼女らが予め作られた物語上に存在しないことが理由となる。流動的なものから文脈を捉えようとしても、掬い上げた文脈はすでに変容が始まっている。バーチャルYouTuberは配信を行なっていないときも「生活し続けている」状態であり、提供されている情報が常に全てとは言えない。彼らバーチャルYouTuberの存在している「場所」には絶対的に流動性が存在している。「閉鎖されているバーチャル空間」に何らかの変容がもたらされ、現実との重なりを得たとしても、それは破綻とは言えないだろう。予め作られた物語、つまりは脚本に「閉鎖されている」と記述されているにもかかわらず、開放的な部分ができてしまうような流動性がもたらされると、それは脚本の破綻となり、脚本ごと変えてしまわなければならなくなる。しかし、ある特定のバーチャルYouTuberの設定上の「閉鎖空間」に流動性がもたらされても、そのバーチャルYouTuber自体が破綻し、即座に活動を停止するようなことはなく、彼ら・彼女らの生活は続行されるだろう。つまり、設定上の破綻があっても、バーチャルYouTuberの時間軸が再設定されることはないということになる。

 では、バーチャルYouTuberにおける時間軸について考えていきたい。

老い非実在青少年

バーチャルYouTuber老いるのか?

 結局のところ、答えはYESだろう。田舎のバス停の青いベンチがやがて白くくすんで朽ちていくように、年齢を持たない無機物もやがては色あせていく。十年前、二十年前の懐かしいデザインのキャラクターたち。彼らが設定上の年齢を保っていたとしても、観測者からの認識としてはその年齢に則した「若さ≒新しさ」を感じることが出来ないことに対応して「老い≒古さ」を感じてしまう。そういう意味では架空のキャラクターたちに当てはめられることがことが多い「サザエさん時空」も、十年単位の時間経過には耐用できていないことがほとんどだ。「昔のキャラクター」という認識が観測者から払拭されない限り、「現代のキャラクター」と比較した時の「老い」は避けられない。

 しかし、一歳、二歳という加齢となるとどうなのか?バーチャルYouTuberを含めた「キャラクター」達の、一年ごとの加齢は結局のところ、彼ら・彼女ら自身の裁量に任される。物語上で加齢するならば一歳年を取り、物語上で加齢しないのならば年齢は一定のままだ。バーチャルユーチューバーも同じく、彼ら・彼女ら自身が「一年経つと一歳年を取る」と規定した時に加齢することが決定し、逆も然りとなるだろう。しかし、予め決められた物語にいる架空人物とちがって、バーチャルYouTuberは常に流れていく時間軸の上に存在している。脚本があるキャラクターに比べて「サザエさん時空」の耐用力はより弱いものとなるだろう。

 ということは、「生活している」/「ライブ感」/「視聴者との身近さ」を重視するバーチャルYouTuberが自然に振る舞うためには「一年毎の加齢」を採用する方が異常なく盛り上がりも損なわないでいられるだろうことは想像に難くない。しかし、それが最適か?と考えたならば、俺は決してそうは言えないと思う。

 「一年毎に加齢し」「視聴者と同じスピードで流れる時間軸の上に存在し」「ほとんど我々の存在する場所と変わらない場所に存在している」ならば、そのバーチャルYouTuberはほとんどの割合で「配信者」という属性だけを持つ存在となってしまう。つまりは、「バーチャル」YouTuberではなく、「キャラクターというガワを持った」YouTuberになってしまうことになりかねない。ライブ感を重視するバーチャルYouTuberが「一年毎の加齢」を採用したとき、「バーチャル」という勢いがあり、尚且つ活かすべきはずの特性がかなり薄まってしまうのだ。

バーチャルYouTuberはYouTuberである前に「架空のキャラクター」であることを視聴者に一定の割合で期待されている存在だ。「リズと青い鳥と楓と美兎」でも述べた通り、鑑賞者の憧憬からの自己投影が魅力の一つとして大きな存在感だからだ。バーチャルYouTuberの「画面の向こうで確かに生きている」という強いライブ感。そのライブ感を保ったままに発揮される彼ら・彼女らの自由さ。ライブ感と自由さが合わさることによって起きる反応で、多大な憧憬を視聴者にもたらし、バーチャルYouTuberの魅力は発生する。

 「俺が自由に生きることができなくても、バーチャルYouTuberには自由に生きて欲しい。」その想いは俺の中に少なからず存在しているし、「自由になりたいが故に自らバーチャルYouTuberと化す」者も、のじゃおじショック以降珍しくなくなりつつある。これは、「バーチャルYouTuberは加齢など気にせず自由に生きて欲しい」という想いに分節することもできるだろう。

 「バーチャル」という架空さと「画面の向こうに生きている」という現実感が、バーチャルYouTuberの中に相反した状態で内包されている。我々の期待というのはえてしてどうしてもミスマッチによって起こる反応に期待してしまっているという感が否めない。そのような期待に応える必要は、まったくない。しかし、現状ミスマッチによって起こる反応が魅力を大きくしているのは事実だ。いわば、「画面の向こうに生きている」がしかし、「仮想現実(バーチャルリアリティ)」であるので、現実的でない期待を寄せることができる。また、「現実的でない期待を寄せることができる」が、「画面の向こうに生きている」という実感が捉えどころを与えてくれる。悪く言えば「適度に刺激的」で、良く言えば「新しいバランス感覚がある」と言える。陳腐な言い回ししかできないのが歯がゆいが、その微妙な加減が魅力なのだ。

 この「生活感」と「仮想現実」という二つの要素は魅力ではありつつも、問題を引き起こしやすいように思う。微妙なバランスというのはどうしてもどちらかに傾いたときに問題が起きやすい。我々が「生活感」に期待を寄せすぎたとき、「バーチャルYouTuber」独自の魅力を消し潰してしまうことになりかねなく、我々が「仮想現実」に期待を寄せすぎたとき、行き過ぎた愛情表現によって彼ら・彼女らを傷つけてしまうことになりかねない。例えば、生活感を重視しすぎる者–––要は我々CP厨だが–––が、「企画ばっかやってないで雑談配信してればいいんだよ」みたいなことを言えば、折角「バーチャルYouTuber」として新しいことに挑戦していこうという意志を減退させることになりかねない。また、過度な表現の二次創作–––要はエロとかケンカとかの表現だが–––は、蔓延して仕舞えばイメージ悪化につながりかねない者も多く、彼ら・彼女ら自身にショックを与えることもあるだろうから、配慮が必要だ。

 微妙なバランスを、保つ必要がある。微妙さが崩れたとき、誰かが傷つくことがある。

 バランスを保つために、「加齢」はどう扱うべきか?

 もしかしたら、グループ内でも「加齢する者」と「加齢しない者」が混在するのがある種の折衷案として最適なのかもしれない。微妙なバランスは保たれる上に、さらに曖昧さを補強できる。前述のように、結局のところはバーチャルYouTuber自身の裁量に加齢するのか否かは委ねられている。最近になって、チームやユニットとして動くバーチャルYouTuberも増えてきた。では、加齢含めた設定要素はチームやユニットで統一するべきなのかと言えば、決してそうではないだろう。さまざまな行動における裁量の多くが個人に依っていることが各々の個性になっていくことこそバーチャルYouTuberアイデンティティを守るために大事なことなのだ。

 「自分のことは自分で決める」ということが難しい場面が、現実にもインターネットにも多い。環境や背景や出自が自分の意思を、意志を、固く縛りつける。俺はまた、期待しているのかもしれない。バーチャルYouTuberが「自分のことを自分で決める」のを見て、勇気付けられたがっているのだ。自縄自縛の現実にどっぷり浸かった我々を。

仮想と幻想

 現実的であり、幻想的。生きていて、存在していない。年老いつつ、変化しない。捉えどころがあり、捉えどころがない。

 そのバランスの微妙さこそバーチャルYouTuberの「生活」を解釈するのに重要な点だ。なぜなら、生活は決して現実的ではないからだ。生活という言葉と、現実という言葉は、全く違う意味を持つ。

 

現実 - Wikipedia

現実(げんじつ、: Reality, Actuality)とは、いま目の前に事実として現れているもののこと。あるいは現実とは、個々の主体によって体験される出来事を、外部から基本的に制約し規定するもの、もしくはそうした出来事の基底となる一次的な場のことである。現実と区別されるのは、嘘や真実を組み合わせてできたものである。

生活 - Wikipedia

生活(せいかつ)とは、広辞苑(第五版)によれば「生存して活動すること、生きながらえること」「世の中で暮らしてゆくこと」である[1]

 

 現実が「今」という瞬間的な時間指定があるのに対して、生活とは「生き『永らえる』」「生き『続けていく』」「暮らして『ゆく』」ことであると記述があるように、未来の不確定要素を含めたものが「生活」なのだ。バーチャルYouTuberを構成する要素として、「絶対に流動的であること」「確定的な要素が存在しないこと」があると書いた。

 今はキズナアイが真っ白なVR空間に閉じ込められていても、明日起きたら目の前にいるかもしれない。今乗っている通学電車に、次の駅で月ノ美兎が乗り込んでくるかもしれない。今座っているデスクの隣の同僚と次に喫煙所で顔を合わせたとき、「VRChatって知ってる?俺実はさ…」と言い始めるかもしれない。それでも、生活は破綻しないまま、続いていく。

 そんな有り得ないようで有り得るかもしない未来を含んだ「今」が生活なのだ。そして、その生活こそが、バーチャルYouTuberの魅力の根源なのだと思う

 「生活感」は「現実的だ」と感じさせるにもかかわらず、「現実」とはまったくちがうものだ。俺はこれから先も、ずっとバーチャルYouTuberに生活感を感じていきたい。

 あ、そういえば、さっきランニングしてたら淀川の河川敷でランニングしてる樋口楓さんとすれ違いました。