2018年に読むドラゴンボール

 マンガやアニメやラノベやなんやかんやが好きなまま二七歳になった。日々毎日生活を生きていて、まあ基本的にはツイッターを見ているだけなのだけれども、まあ、オタクにキレている。毎日オタクにキレている。俺もオタクなのだけれども、俺以外のオタクに日々キレ散らかしている。不毛だ。不毛ってハゲのことか?わからん。
でも、俺はドラゴンボールを読んで来なかった。どれだけ脳内で偉そうに他のオタクどもどもにキレていても、俺は所詮ドラゴンボールも読んだことのないオタクだった。かといってべつにそれがコンプレックスになっているとかそういうことではない。俺の性格はむしろ最悪に近いものがあるので、「いやあえて読んでないんですよ」的なスタンスを十年を越えて保っていた。勘弁してくれ。結局なんで読んでなかったのだろうか。パッと思いつくのは「王道マンガだから」かなあ、というところだ。いま現在流行っている・流行ろうとしているようなマンガというのは、結局のところそれまで主流だったものとは対になる要素が含まれている。王道の根本のひとつとしてドラゴンボールがあるとして、流行のマンガというのはその根本から離れていくことになると言える。言えるか?わからん。知らん。
 インターネットのオタクはみんな流行に敏感であるふうに気取っているので、俺もご多聞に漏れず流行のマンガばかりを追ってきた。そのせいか古いマンガを読むことに対しては若干の苦手意識さえ持っている。押安にブチカマされてベルばらを読んだ時でさえ読み切れるか不安だった。(結局おどろくほどスムーズに読み切ることができた)そういうハードルの上がり方もしていたかもしれない。
そして俺はドラゴンボール全四二巻を読んだ。ネカフェで。使い方としては漫画喫茶か。漫画喫茶の方が言い方好き。漫画と喫茶というこの世の救いの言葉が二つも連なっているから。そういうところで読むのって作家さんたち的にはどうなのだろうか。「ブックオフの立ち読みで読みました!」「ド違法サイト村で読みました!」って言われるのと同じように腹立つんだろうか。画太郎先生は怒るだろうか。でも画太郎先生なんとなく漫喫好きそうじゃない?
 なんてったって安かった。まず集英社を代表するレジェンドタイトルなので、読み放題定額サイトではどこもやってなかった(二〇一八年四月現在)。電子書籍で揃えようと思ってもなんか一万五千から二万くらいはかかる感じだ。しかし、長大なタイトルをなんかしら買う場合、「読み返すか?」とどうしても自分に問いかけてしまう。ドラゴンボール。たしかに読み返す可能性はゼロではなかろうが、それよりも喧嘩商売電子書籍で揃えたいし……わたモテも買わなきゃだし……とか考えてると、漫画喫茶二回行って三千弱で済ませるという選択肢になってしまった。そして漫画喫茶のブースに入ると脳がなんかアルファ波的な……瞑想で出るやつ……なんだっけ分からんが……そういう癒しがある。コンビニおでんも漫画喫茶も不衛生だけど癒しがそこにはある。きっと。
だからそんなこんなでドラゴンボールぜんぶ読んだっつってんだろ!読んだんですよ。良かったか?と聞かれたら良かったですね。という感じでした。可能性として全然受け付けないということも考えていて、そうだったらやっぱりなんとなくイヤだな、とも思っていた。理由は、やはり好きな漫画家に当然ながらドラゴンボールから大きく影響を受けたと公言している人が何人も挙げられるので。俺はラブコメを信奉しているから、好きな人の好きなものは俺も好きになりたいんですよ。は?
 杞憂は杞憂のまま終わり俺はおそらくドランゴンボールを楽しんで読むことに成功した。そう、ドラゴンボールは基本的に楽しい作品だ。俺の好きな言い方で言えば、「おもしろカッコいい」線にしっかりと乗る作品だと思う。もちろん熱いバトル、キャラクターの死亡などによる「泣き」の場面などが魅力的なのは理解できる。でも結局基盤にあるのは「おもしろさ」と「かっこよさ」だと思う。バトル性や感動は貴重な副産物という線を出ることはないと思う。とは言ったものの、「おもしろカッコいい」だけでここまでの伝説的な作品になれたわけではないだろう。伝説になるには個性を超えるような特異さがあって然るべきだ。超と書いてスーパーと読むのは当然ドラゴンボールが開拓した語の一つなんだろうけど、実際読んでみないと「マジでそうなんだ」という実感を得ない。松本人志がいくらお笑いの開拓者でも、今の少年少女にはさぞ胡散臭く見えるだろう。俺がかつて島田紳助ぐらい胡散臭い人間がいないと思ってたのと同じように。
 ドラゴンボールは、謂わばホワイトバックに置かれたオブジェクトだ。「ドラゴンボールは、謂わばホワイトバックに置かれたオブジェクトだ。」こんな胡散臭い言い回しあるか?ドランボをもってしてこんな解釈するヤツいたら絶対イヤだわ。自分でも心底そう思うけれども、まあ実際そう思ってしまったのだからしょうがない。一度浮かんだ想念は呪いのようについて回る。そんな感じで俺はドラゴンボールを、大きな空白を背景に持つ作品だと捉えてしまった。バナナでもリンゴでも文化包丁でもバールのようなものでもコンドームでも、ホワイトバックのような大きくて広くて長い写真撮影用の背景布を背にしてシャッターを切れば、象徴的に写る。ホワイトバックにすればそのモノ自体が破損していても求める人には魅力的となる商品になり得る。逆に撮影に際して背景が雑多な場合、もしくは、「背景も」見せようとした場合、レイアウト技術や状況に応じた撮影技術が必要となってくるだろう。多分。俺は別に写真撮影に詳しいわけじゃないんだよな。でもなんとなくイメージとしてこういう感じが伝わってほしい。これがラップバトルだったら三回は「わかるだろ?」って言ってる。
 もし俺が「お前が漫画を作らないと地球に隕石が衝突する」と言われたら、とりあえず作ってみようとする。その時、おそらく俺は設定やキャラクターや起承転結やそういった「背景」から作ろうとすると思う。ドラゴンボールを読んでいて思ったのは、どうもそういう作り方をしていないな、ということだ。作者の好きな要素を思いつくがままに積み重ねていったような、そんな自由さを感じた。そのせいか、ドラゴンボールの序盤は実際に旅をしながら撮影したロードムービーのようだ。人は物語を作る時、どれだけ偶然に任せて作ることができるだろう。迷っていては偶然に任せて作ることなんてできない。大胆に思い切りよくエピソードを積み重ねていかないと偶然に任せた物語は出来ていかない。
 そしてドラゴンボールの作者はその思い切りの良さで、背景を消した。比喩的な意味で言ったが、実際に消してもいる。バトル前に人気のいない場所に移動するという展開がドラゴンボールには何回かあった。味方が提案し、敵も律儀にそれに乗ってくれるのだが、大抵がグランドキャニオン的な岩場に移動して戦う。それによって背景の要素は極端に少なくなり、読者はバトルに集中することができる。ドラゴンボールがバトル漫画の代表作として名を馳せているのは読者がバトル場面に集中して読むようにミスリードされた結果とも言える。
このような効果はバトル場面だけではなく、ドラゴンボールという作品全体にも適用されている。現代のマンガを評する時よくポイントに挙がりやすい要素である伏線やキャラクターの相関関係などは、ドラゴンボールにおいて特に重要な要素とは言えない。そこを突き詰める行為は、ひたすら俺らが楽しいだけであって、伏線回収や相関関係を新たに発掘したところでドラゴンボールの評価がガラッと変わるようなことはないだろう。これは現代のマンガたちとは大きく違う点のように思える。
「おもしろさ(作品全体の明るさとも言い換えることができる)」「カッコよさ(主にバトルの演出)」を際立たせるために、現代のマンガで評価点となるような要素は、ドラゴンボールという作品において極力薄められている。売りとする要素を際立たせるのではなく、売りとする要素以外を排していくことでドラゴンボールは伝説的な作品として名を馳せた。しかも作者はそれを意図としてやってはいない。ただ自分の思うまま感じるがままに、そして迷いなく逡巡なくやっていくことで、そうなったのだ。長期連載で偶然性に重心を全て預けてしまうということは、狂気すら感じる。「人間がなーっ」「ゆるさーん!」って言われた少年が昆虫の六肢をすべて千切ってしまうような無邪気さだ。
なんかたまに集英社の偉い人が「我々は真なる少年漫画を求めている」みたいなことを言ってる時ありませんか。俺はそれを聞いて「はあ?」と思う。その「はあ?」の理由が自分でやっとドラゴンボールを読んで判った。「少年漫画を書けよ!小難しいことなんて考えるな!」とか言う集英社の人たちは結局ドラゴンボールを求めてるんでしょ、ということだ。ドラゴンボールが、いや、かつての鳥山明が持っていた偶然性に全てを任せる狂気の手綱を編集者たちは握りたい、と言っているのだ。ドラゴンボールの編集があの集英社のメチャ偉い人だったのかどうかは分からんけど、ドラゴンボールを読んでいて思うのは、「編集が五割に近い割合で物語を作っているな」という感覚だ。偶然性に任せた物語を商品として完成させるためにまさに「編集」するのは、編集者の仕事だった。現代の漫画は決してそうではないが、ドラゴンボール連載時はたしかにそうだったのだろう。それをこの現代で再現しようと夢想するのはいささか無茶すぎるように思う。
 たしかに、「ドラゴンボールをもう一度」の理想を掲げたままにワンピースは大ヒットをカマしたのかも知れない。でも、ワンピースはドランゴンボールとは全然全くちがう。ワンピースは完全に「レイアウト力」の作品だ。無数の要素を設計図通りに配列していってできたのがワンピースという作品のように思える。鳥山明の才能と尾田栄一郎の才能は全く違うものだし、狂気の種類もまた全く違う。鳥山明はもはや「無私の狂気」といえるだろう。自分の意思すら介在させないようなレベルで物語を作っていく。物語作りをキャラクターたちに全て任せてしまうようなやり方だ。それに対して尾田栄一郎の狂気は高層ビルを一人で組み立てて行く狂気に近い。細かな設計、凄まじい施工技術、そして自らの持つ全ての時間をそこに集約させるかのような時間管理。編集の仕事は尾田栄一郎が一人でビルを組み立てていっているのを邪魔にならないように手伝うといったような種類の仕事になる。ドラゴンボールの連載において活躍した編集の仕事とはまったく違う種類の仕事だろう。
 なのに、少年漫画界は常にドラゴンボールを渇望しているように見える。編集がそう志向するのなら、漫画家志望者もまた、その要求に応えようとするだろう。しかも、その志向が至高であるかのように認識し、その至高の志向以外を排している。だから時折「ジャンプ連載を目指さないヤツは負け組」といったような言説が跋扈する。しかしその至高は三〇年も前の至高だ。ヴィンテージという価値は、現代では再現できないからこそ価値が生まれる。ヴィンテージレプリカは三〇年経ってもヴィンテージレプリカに過ぎない。三〇年後にヴィンテージと成りうるようなピースを作ろうとしているはずが、実体はそうではなく、精巧な贋作を作ることになるというのは、なんとも間抜けだ。すでに神は死んでいて、ただの石と化したドラゴンボールを探し続けているような少年漫画界は、なんだか虚しいと思う。