ブルーアーカイブを見た(実装順:vol.1対策委員会〜恒常イベント〜最終章)

ブルアカをやるに至った経緯

この告知が出た瞬間、シナプスが活性化したから。

その後、

www.youtube.com

この配信を見てから始めた。

 

ブルーアーカイブを見るにあたって

まず自分の感想にあたる怪文書を開陳する前に。

自分がブルアカをプレイするにあたって、

「ストーリーが良いらしいから優先してストーリーを読みたいが、どれくらいの時間がかかるものなのだろう」

というところが気になっていた。

もしそんな人がいれば、以下を参考にして欲しいと思うので書く。

誰だって神絵師の描く二次創作がわかるようになるまでどれくらいかかるか気になるだろう。

 

ブルアカ3周年で、名取さなと卯月コウのブルアカ活動が活性化するにあたって、インターネットも加速していった。

その一環としてあぐすけさんのこのツイートがあり、このチャートに従ってプレイすることとした。

結果、このチャートのおかげでブルアカを満喫することができたのであぐすけさんには感謝の念に絶えない。

⚪︎上記チャートを消化するにあたった期間

2024年1月25日〜2024年2月29日

現行のストーリーを最終章まで走り切るには、1ヶ月必要だった。

⚪︎自分が1日にブルアカに費やす時間について

週5フルタイム勤務で、家を出る前の10〜20分と、家に帰ってからの1〜2時間。休日は適当にプレイ。

⚪︎イベントプレイ

上記期間内にはイベントも開催されていた。周年だし。

『陽ひらく彼女たちの小夜曲』

プレイを始めた時に開催されていた大きなイベント。プレイできるようになるまでは一定以上の進行が必要だったが、2日後ぐらいにはプレイしていたように思う。とはいえ手持ちの育成が間に合わずイベントプレイはしているが、走れてはいない、という感じ

『聖堂のメリークリスマス』

復刻イベ。ボックスガチャを良いところまでは消化した。イベントはできた、という感じ。

『0068 オペラより愛を込めて!』

現在進行中のイベント。これは完全に走って、走り切った状態になっている。むしろ加減がわからなくてやりすぎた。高難度はレベルが足りないため1/4しかできていない。

と、まあこのようにストーリーを消化しながらイベントもやっていた。

ゲーム内容だけの感想としては、はるか昔にやっていたデレステFGOよりは必死にやらなくてもちゃんと消化できる。

『0068』に関しては初めてイベントをちゃんとプレイしようと無課金内でできることは準備して臨んだ結果、イベント終了3日前時点で特にできることがなくなってしまった。

⚪︎ガチャ・課金について

課金は必要ないと思う。周年スタダでガチャにも恵まれたからかもしれない。

所持している最高レアリティ星3キャラ一覧1

参考:所持している最高レアリティ星3キャラ2

とはいえ、ストーリー消化やイベント消化をすれば、3回ほど開催ガチャに臨んでもまだもう2回ほどはガチャに臨める石をもらうことができている。

課金は高難度に臨むにあたって理想のシステムを組むためや、推しへの貢ぎとして引きまくるようなことがないと必要には駆られない。それらがソシャゲの醍醐味ではあるけども。

⚪︎最高レアリティ星3キャラについて

もちろん、ガチャを全く引かずにプレイすることはできない。そも、ソシャゲはどれもそうだろうが、ガチャを引かずに貯めるという行為は育成や成長の阻害となる。

でも、ガチャ運・星3キャラの入手頻度よりも、育成にどれだけリソースが割けるかが最も大事なゲームになっている。

そういう意味では、育成システムは一見しただけではわからない。絶対に調べたり教えてもらう必要がある。どれがどのパラメータに対しての育成アイテムなのかを理解するには時間が必要ではないだろうか。

なんなら、正直石を貯め続けても育成に充分リソースが割けていればゲームプレイには問題がないデザインになっている。

自分は上記のように運がよかったけれども、ブルアカプレイヤーの誰もが言っているように大変なのはキャラの成長と育成だ。

以下、自分が現時点オススメだと思うブルアカを始めるにあたってのキャラについて書く。一意見だ。念のため。

⚪︎初期所持キャラ、ユウカの育成

ユウカに育成のリソースは一旦全て注いでも良い。ユウカと以下に書くコタマとセリナを固定にしてあとはゲームに応じたアタッカーキャラを選択して手動プレイすれば大体のゲームはクリアできそうに思う。

⚪︎最低レアリティ星1、コタマ・セリナの育成

神名と呼ばれる、レアリティを上げられる資材の消費先としてユウカよりも優先して良いキャラ2人だ。最低レアリティのため、初期ガチャ含めて最低回数引けば絶対に手に入る。

上記のユウカ・コタマ・セリナを優先して育成し、その次の優先先として手持ちの評価の高いアタッカーを育成すればゲームクリアには問題ないと思う。

⚪︎ゲームプレイについて

自分はオート機能は一切使っていない。

レベルが足りなくて高難度のゲームに相対し何度か試行するために1時間ほど費やすことは確かにあった。

とはいえ、ある程度の手動プレイで必要程度のゲームクリアは可能だと思う。

「ギリギリできそうでできない」という、日を跨いで多くの時間を費やさせるような設計にはなっていないと思う。

 

やろう、ブルアカ。

ブルーアーカイブ、評価の高いそのストーリー

もちろん、以下はネタバレを含む。

自分はネタバレを多少読んでも気にならないので、自分が気にならない程度の言及にはなるかもしれない。どのみち怪文書であることには変わりはないだろう。

そも、みんな神絵師たちの二次創作をあるていど浴びてからブルアカをプレイする人がほとんどなんじゃないの。

そういう境遇のもとブルアカを始めるのならば、俺の怪文書だって読んでくれたっていい。読まなくたっていい。

 

…………

とにかく、ブルーアーカイブのストーリーは評価が高い。

最近、なんかの賞も獲っていたのではないだろうか。

そのイメージからして、思い浮かぶのはFGOだった。Fateの持つ複雑な背景を活かしたストーリー。そして、ストーリーを読むためにゲームをプレイする必要のあるデザイン。その労力に見合ったカタルシス

そういう期待と不安がブルアカをプレイする前にはあった。ゲームに臨むと広がる遠大な道のり、魅力的な景色、その先に待っているだろう結末に惹かれてゲームに引き込まれていく……期待と不安。

しかし、当然ながらFGOとブルアカは、まったくちがう。思えば、当たり前のことである。

FGOの二番煎じが評価を得るほど、発展してソーシャルゲームの世界は甘くない。

ブルーアーカイブ、そのストーリー道半ばの山小屋までたどり着くことのできた自分の脳裏に浮かんだ言葉は、前評判を覆すものだった。

ブルアカは、ストーリーが良いわけじゃない。

 

「ストーリー」とは、自分にとってストーリーラインのことだ。漫画で言えば、ネーム、映画で言えば脚本だろうか。

だから、自分にとって良いストーリーには驚きや感心が必須だ。

想定を裏切られる快感、伏線の回収される動きの美しさ、それ以前の設定や背景の意外性も含まれる。

そういう意味に限定すれば、ブルーアーカイブは「素晴らしいストーリー」では、ない。

儒教的とも思われるほどに繰り返される、先生と生徒、大人と子供のモチーフ。それをディストピアや終末後世界の設定で彩り、ストーリーラインとしては意外にも『シャーロック・ホームズ』や警察小説的な因習や陰謀の渦巻くミステリ冒険小説に近しい読み応えを感じた。

そう、極めてクラシックな王道要素の組み合わせになっているのだ。

もちろん、ブルアカのストーリーは消化するときに快感がある。しかし、その快感は前述の「素晴らしいストーリー」に因るものではない。

いつか目にした素晴らしいクラシックな名作の美味しいところを組み合わせたにも関わらず、崩壊せずに形になっている。

「素晴らしいストーリー」の持つ驚きや感心とは真逆とも言える、クラシックからなる安心に因る快感がある。

俺は「ブルアカのストーリーは『素晴らしいストーリー』なんだ!」という先入観があった。FGOのプレイ経験があったからかもしれない。

そのせいで、エデン条約2章において、「裏切り者」はきっとヒフミなのだろう、と思い込んでいた。しかし、積み重ねられた伏線通りにアズサが「裏切り者」にあたり、なんだかガッカリしてしまうというような副作用があった。これは俺の固定観念と思い込みの強い性格が悪いのだ。

同時に、思い込みとブルアカのストロングポイントに気がついた。

ストーリーじゃなくて、キャラが良いのだ。

 

キャラクターとストーリーは切って切り離せない。

キャラクターが良くなければストーリーは良いものには成り得ず、逆もまた然りだ。

キャラクターとストーリーは相互関係にある。それにも関わらず、自分が「ブルアカはストーリーじゃなくてキャラが良いのだ」という気づきに至ったというのはどういうことか。

素晴らしいストーリーラインだけがあるとする。その内容を知るとする。「素晴らしいストーリーライン」だけ聞いたところで、感動はできない。「なるほど、すごいことが起きるかもしれない」とは思う。とってもかっこいい革ジャンを見つけても、実際に着てみるまではわからない。

実際に読者の気持ちが動かすためには、キャラクターが必要だ。

別に身長が低いのに、デブなのに、ガリなのに、革ジャンを買っても無駄なわけではない。センスやアイデアさえ必要でなく、その人が革ジャンの着るにあたっての知識があれば良い。中身が必要なのだ。

ブルーアーカイブのキャラクターには中身がある。どこかで見たような見飽きたキャラクターは1人もいない。本当に1人もいないのだ。100人に迫るか越えている全キャラクター。1人くらいはいわゆる「つまらないキャラ」がいたって良いとさえ思う。むしろその方が、たまに食べるカップヌードルが美味いように、安心感があり、いつの間にかそんな「つまらないキャラ」が1番の推しになったっておかしくないのに。それなのに、1人もそんなキャラはいない。

一見はどこかで見たようなキャラクターだと思って触れてみれば、描写と人間性に満ちていて、個として立っている。

嗚呼。本当に、嗚呼という気持ちだ。このままハナコのことに触れてしまいそうになっているからだ。先に言うと、俺はハナコに触れたときにこのことに気づき感動し、惹かれてしまったのだ。しかし、ハナコのことを話すには早すぎる。もっと後半。もっと多くの人が長文に飽きて読むのをやめてしまったあたりに世迷言は取っておこう。

ストーリーの話に戻ろう。

前述のように、ブルアカのストーリーラインは王道な娯楽小説(直木賞的な、ミステリ、SF、恋愛による娯楽小説)といった定番の安心感がある。

そのストーリーを実際に動かしているキャラクターたちがすごいのだ。全員に中身があり、人間性がある。だから定番のストーリーは活き活きと彩られ、結果的に「素晴らしいストーリーのゲームだ」と感じるに至るのだ。

ただ、ストーリーラインとして意外なものがなくても、完成度は高い。なぜなら、神話的ファンタジーとSFとミステリを組み合わせて崩壊しないなんてことはとても難しいことだからだ。

そんな物語を形成しようとすることは、遠大にすぎて誰も理解できないような複雑なことになるか、もしくは穴だらけで納得のいかないものになるか、そんなリスクが非常に高い行為となる。そういう物語にガッカリした経験がある人も多いんじゃないだろうか。

意外だったのは、やはりミステリっぽさがあるということだ。

ブルアカの持つ雰囲気としてSFっぽさはもちろんデザインからも感じられるし、世界の構造もSFの要素がかなりある。そして、少し触れていったところで宗教と神話のエッセンスを感じる。個人的には先生と生徒、大人の子供のモチーフに対する理想が語られるときに儒教などの古くからある思想をも感じられるところだ。

しかし、SF・宗教や神話のファンタジー・思想からなる因習によって巻き起こる陰謀をミステリの要素で語る──、『ドラゴンタトゥーの女』で知られる『ミレニアム』シリーズのような語り方がされているというのは意外だ。もちろん『機龍警察』と比較して語ることも可能だが……思い入れのありすぎる作品を引き合いに出すことは難しい。とはいえ『機龍警察』のことを思い出さなかったかと言われれば否である。それはとても嬉しいことだった。

『機龍警察』の持つSF・因習・ミステリ要素とブルーアーカイブの比較は、思いつけばまた違った記事で書きたいところだ。

キャラクターがみんな銃器を携えている以上、「誰が誰を害したのか」「誰が誰を害そうとしているのか」というような話になりやすいのもミステリを感じさせる一助となっているだろう。「誰があの人を殺したのか」これが語りの中心にある以上はミステリと言ってもなんの問題はないだろう。

組織のセクション分けがしっかり描かれているのもまた、面白いところだ。

組織が数多く描かれ、力関係が生まれるのであれば、ストーリーにもキャラクターにも厚みがグッと増す。

園都市、組織、人間関係

ゲームをプレイするとき、ストーリーの厚みはプレイ感に大きな影響を与える。

基本的な各学園都市には生徒会があり、その生徒会同士の力関係によってストーリーは動いていく。そのおかげで、ストーリーを感じるとき個の動きというよりも集団の動きを感じる。簡単なことだけれど、これだけで読者はストーリーに対して厚みを感じる。

もちろん、生徒会には生徒会長がいる。各組織ごとに、代表者がしっかりと定められている。権力・カリスマ性・実際的な武力──それらを兼ね備えた人物が描かれる。

僻地に存在する隠されたカリスマのホシノ、治安の乱れた大都市の統制を一手に担うヒナ、歴史に裏付けられた陰謀渦巻く連邦都市で未来視の異能を持つセイア、かわいいキャラクターたちはみんな分厚い設定を持っている。

そんななかでも誰しもが銃器を持っているおかげで、「最強」を感じさせるキャラクターは素晴らしい魅力を放ってくれる。前述のヒナがそうであり、散々ヒナの強さを描かれたあと、実は辺境で砂漠化と借金に苦しむホシノに対してある種の憧れをヒナが抱いていると明かされたりもする。

セイアの所属するキリスト教色が感じられる学園都市で「最強」の名を欲しいがままにするのはミカだろう。

ミカは萌えキャラソシャゲでやるには難易度が高そうな、ダークヒーローとしてしっかり描かれている。その強さの描かれ方は最終章までは随一で、本当にミカには誰も敵わないのかとさえ思わされる。加えてミカがゲームキャラとしても性能が異様に高いというのもまた、説得力がある。(とはいえヒナもホシノもイベント衣装として最強の性能を持っている)

強さだけではなく、異能の描かれ方も充実している。

未来視を持つセイアはもちろん物語の根幹に関わるが、廃された学園の生徒のアツコに「王の血脈」を持っているということが今後物語にどういうふうにかかわってくるのかも楽しみだ。

 

このように、ブルーアーカイブの面白さはキャラが根源となっていると言って差し支えない。

ストーリーにキャラが噛み合っているというよりは、キャラにストーリーが噛み合っていると言う方が正しい。

前段で『シャーロックホームズ』シリーズを彷彿とさせると言ったのはそのためだ。

『シャーロックホームズ』シリーズも、主人公ホームズの凄さが全編にわたって描かれる。その才能、能力に読者が舌を巻いたあと、そんなホームズに匹敵する悪人が登場するとき、読者は物語に強く惹き込まれることになる。

たった1人でゲヘナ学園の治安を維持するヒナが一目を置いているホシノに、読者もまた一目を置くこととなる。

そんなヒナは実は生徒会長ではなく、とてつもなく破天荒なマコトが率いる万魔殿が生徒会であることが明かされる。

ゲヘナ学園と正面から相対するトリニティ総合学園には生徒会長が3人いて……というふうに物語に引き込まれていく。

……そうは言うけど、じゃあお前は『ホームズ』をヒナに感じたってことか?

そう問われれば、「ちがう、浦和ハナコだ」と俺は答える

浦和ハナコから見る、ブルーアーカイブのキャラクター

youtu.be

俺はインターネットをやっているので、ブルアカをやる前から知っているキャラたちがいた。

それはヒナであり、ホシノでもある。何より陸八魔アルに惹かれて俺はブルアカを始めた節もある。

アルはきっと、理想に邁進しているけれど失敗ばかりで……それなのにいつも仲間たちの中心には彼女がいる。きっと彼女はやるべきときにはやる人間なのだ。

そう思ってブルアカを始めて、実際にその通りであったことがとても嬉しかった。

俺はホーム画面はアルだし、絆ランクも優先して上げている。

でも、浦和ハナコ、彼女は違った。

俺はブルアカをやる前からハナコを知っていた。

彼女は「あらあらうふふ、と持ち前の露出癖で主人公を誘惑し、必要なサービスカットも充分に埋めてくれるそんな人なのだろう」「だからこそ登場が多く、ファンからも面白く愛されているのだろう」そう思っていた。

卯月コウに言わせれば、「平成に取り残された古き良きお色気キャラ」だと、俺だって思っていた。

youtu.be

しかし、実際は露出癖ではなかった。嗜好でもなく、思想さえ超えて、もはや理念だった。

「そんなことある?」俺はそう思った。俺の今まで見てきた脱ぎたがりのキャラクターたちはみんな、大した理由もなくただ脱いでいた。それで充分だと思っていた。実際にかわいく、エロく、面白くもあり、充分に楽しませてくれている。そこに、理念を持たせるなんてことがまさか、あるなんて思いもしなかった。どんなアイデアなんだよ。いや、たしかにideaではある……もはや、彼女が脱ぐのはイデオロギーでさえあるんじゃないか……俺は今も混乱の最中にいる。

主人公である「先生」は、トリニティ総合学園を水着姿で闊歩するハナコと出会う。

彼女はいつも言う「水着で歩くのは、とっても解放感があって素晴らしいんですよ? あなたもどうですか?」

彼女は学園の治安維持組織である「正義実現委員会」に逮捕されていた。

素行も悪く、成績も悪い彼女を、トリニティに相応しくなるよう教育することを先生は求められる。それが素行も成績も悪い生徒を集めた補習授業部の一員にハナコが入ったきっかけとなった。

しかしそれは、全部嘘だった。

彼女は目の前に出された問題全てに解答をすることができた。彼女の能力を求めて、多くの人が彼女に近づいた。求められた要請や振る舞いに対して、ハナコは完璧に応えた。次第に彼女は思うようになる。「みなさん、何を求めて私のもとにいらっしゃるのでしょうか」

ハナコは全てを辞めた。いや、辞めたということにした。実際に辞めることなどできない。彼女の高い能力は持って生まれたからこそ、手離すことなんてできない。まるで呪いのように。

ハナコは思えば自分の大好きな下ネタの話題に興奮したときでさえ、礼儀正しい言葉遣いが崩れることはない。礼儀正しく丁寧な常に相手に尊敬の心がある言葉遣いは糊塗したものではなく、ハナコの根本的なものだからだ。

テストは全て間違って答えを書き、自分の好きな格好でやりたい振る舞いをすることにした。この自棄になった行為でさえ、暴力を振るったり規範を犯すような、人を傷つけるようなことは選ばなかった。倫理を犯さないギリギリの露出行為として水着で学園を徘徊しているのだ。自分に嘘をついてやりたくないことをしてまで自棄になったアピールをする必要もない。ただ、自分のやりたいことの中から、今まで能力を求めてきた人たちが失望してしまうことだけを選んで行うことにした。きっと、それでも自分を求める人が現れたとき、その時は心を開いても良いとも思っていたのではないだろうか。

その上での選択が、「何にも縛られないあるがままの姿でいること」だった。そうできないからこそ、理想足りえる。やりたいことになり得るのだ。

彼女は、素肌で自然を感じることを好んだ。

水の流れ、風の流れが素肌を撫でているそのときだけは、「ああ、今自分はあるがままの姿でいられているんだ」と、肯定されたような気持ちになれるからだ。

トリニティという高貴と規範を重んじる環境だからこそ、定められたルールの中でできるだけ裸に近い格好でいることが、自分の能力しか見ていない人に失望を与え、またそれで自分にとって理想となる状況を作ることができる。それが彼女が脱ぐ理由だ。イデオロギーと言っても差し支えないのではないかと思えてしまう。

そんな彼女が補習授業部の仲間たちで、プールを掃除しながらみんな水着で水をかけ合いながら遊んでいるとき、彼女はどう思ったのだろうか。

今軽く調べると、ハナコの考察を深めている文章は意外と多くあった。検索上位にさえ出てくるくらいに。きっと、ハナコの考察はファンの中で深められて一定の答えが出ているのかもしれない。でも俺はもう、自分が同担拒否だと認識してしまっている。だからあえてすでにある考察は読みたくない。ハナコのことをわかっているのは、俺の中では俺だけでいい。

俺の中でのハナコの解釈は、最終章までのストーリーと通常ハナコと水着ハナコのモモトークからなるが、ブルアカは最終章以降も話がすでに出ているし、モモトークは開放しているところまでしか読んでいない。あえて各wikiハナコのページも読んでいない。自然に絆ランクを進めていきたいからだ。

とはいえ、この俺の解釈が大きく外れるような展開は今後ないのではないかと思う。

彼女は先生と2人きりのとき、まるで年頃の少女のような悩みを垣間見せる。

親に対しての納得の行かなさを吐露することもあれば、「自分だってみんなみたいな女の子らしいことがしたくなるときだってあるんですよ」と漏らすことがある。

ハナコは、自分の振る舞いによって人を驚かせたとき「……なーんて、冗談ですよ」と後から付け加えるときがけっこうある。先生に迷惑がかかりそうだと思うやいなや、帰りそうになって先生が引き留めるというシーンさえあった。自分を守るために、自分の好きなことをしているが、自分の振る舞いによって人を傷つけることを人一倍気にしているからこそ、そんな後付けが多い。

これらは俺がハナコに対して好意的であるからそう感じているところもあるような気がする解釈だ。でも、これらの発言や振る舞いが、俺の解釈への助けとなっているようにも感じる。

 

ハナコは補習授業部との出会いによって「ありのままの自分でも大切に思ってくれる友達」を知り、「自分の能力で大切な人たちを守れる」のだと気づく。

物語が進むにつれてより強く渦巻いていく暴力と陰謀に、ハナコの能力は存分に活躍する。

自分の高すぎる能力に対して屈託があり、変人然として振る舞うことで、取るに足らない人間を遠ざける。だが、大切な仲間ができてからは懸命に持ち前の能力を活かして問題の解決に取り組む。

俺はそんなハナコのキャラクター性に惹かれてやまない。世界で最も有名な探偵のキャラクターも同じ理由で、また然りだ。

 

ブルーアーカイブのストーリーに、意外性も、驚かされる伏線回収もない。

ここまで書いた今でさえ、俺はそう思う。

でも、ブルーアーカイブのキャラクターには意外性も、驚かされる伏線回収も数多く存在する。

「良いストーリーとは何か」ということの奥深さへの造詣が深まる、良い機会をブルーアーカイブというゲームからもらったように思う。

 

『ルポ ネットリンチで人生を壊された人たち』を読んだ

www.kobunsha.com

 

この記事を読んでいるあなたはどんな人だろう。

この本に興味があって記事を開いたのかもしれないし、

インターネットの炎上について調べていてこの記事に辿り着いたかもしれない。

または僕のことを知っていて、僕がこの本についての記事を上げたからリンクを開いたのかもしれない。そもそも僕の友達だったり、僕の書いた文章に興味あって記事を見つけたのかもしれない。

そんなあなただって、人を罰してやりたいという気持ちになったことはきっとあるだろう。

毎日、凄惨な事件が起こる。

記憶に新しいところでは、京アニ放火事件があり、東池袋自動車事故があり、

精神科で起きた放火事件も、カラオケパブ刺殺事件もある。

それらの報道を目にすれば、青葉被告や飯塚受刑者に対して、

「被害者と同じ目に遭えばいい」「遺族のためにも厳罰に処されればいい」

一瞬そんな思いがよぎった人もいれば、強く感情を掻き立てられた人もいる。

多くの人が、「罰せられてほしい」と、彼らにそういう感情を抱いた。

なにも人命がかかった事件だけじゃない。

児童に対して性的な被害を行った者たちも毎日のように報道される。

そんな事件の加害者に対しても、不快感とともに「どうにか重く罰せられてほしい」と感じただろう。

それは当たり前のことで、多くの人間が同じだ。

でもきっと、あなたのようにこのタイトルの本に関心が少しでもある時点で、

きっとあなたは事件の加害者に対しての怒りや処罰感情をSNSやブログで露わにしたりはしていない人が多いだろう。

それは、そこに対して自分を脅かすリスクがあると知っているからだ。

知っているから、この本のタイトルが気にかかって、このブログの記事をあなたは読んでいる。

いくら正しい処罰感情だとしても、感情のまま露わに表明すれば、

もはや現代のインターネットではいつ炎上の標的にされてもおかしくない。

はっきり言って、この本はそんなリスクを承知しているあなたには必要がないだろう。

僕がこの本を読んで、「読んで欲しい」と強く思ったのは、

インターネット上でさも当然のように人を批判している人たちだ。

あなたのように、「人を大ぴらに批判するなんて、そんな恐ろしいことがよくできるな。」

程度の差はあれど、少しでもそんな思いがあれば、この本はその恐怖を感じさせてくれ、恐怖が一体どこから来るものなのか、実体を明らかにしてくれる。

すでに知っている恐怖をより深く知ることになる。

人によってはより恐怖を深めることになるだろうし、恐怖の仕組みを知り、薄まることにもなるかも知れない。

しかし、「声を大にして人を批判している人」と、私たち、それに恐怖を感じている人。

どちらにも共通しているのが、「こんな人は酷い目に遭えばいい」という気持ちだ。

人は誰しもに嫌悪があり、嫌悪対象が弱まれば自分が助かる、と考えるのは当然のことだ。

 

だから、おそらくは人間は皆、「罰してやりたい」と思っている。

それは、実際に「人を罰すること」を仕事にしている人も同じなのだ。

警察官、弁護士、検察官、裁判官、看守……入国管理局や税務署員だって違反した人間を取り締まる。彼らの多くは「こんなことをする奴は酷い目に遭えばいい」と思って仕事をしている。むしろ、それが正義感でその仕事を志しているくらいだろう。

もちろん、彼らは法律に則った罰しか与えてはならない、という教育を長年にわたって受け、

試験に合格したり、ふるいにかけられて残った者だけがその仕事に就いている。それは間違いない。

でも、そこに「人間は皆、罰してやりたいという気持ちを持っている」という価値観は考慮されているだろうか? 果たして、難解な試験や検査にかけられたからといって、私的な処罰感情を完全に除外できるだろうか?

できないと思う。

僕たちが「こんなやつ、酷い目に遭えばいい」と思って実際に取り締まられた人たちは、

おそらく全員、実際に僕たちの思う酷い目に遭わされている。

それは、「酷い目に遭わせる人間」も、僕たちと同じ気持ちだからだ。

青葉被告が実際に火炙りの刑に処されることはないだろう。

しかし、極刑になるにせよならないにせよ、これからの人生、会う人間全員にこれ以上ない嫌悪の感情を向けられ、死ぬまでその嫌悪通りの扱いしかされない。

そうなれば尊厳は完全に破壊されるだろう。それは、火炙りの刑とどちらが人間にとって辛いことだろうか?

勘違いしないで欲しいが、僕はこの記事で「極刑に反対している」とか「加害者にも人権がある」と言いたいわけではない。

遺族の感情、遺族のこれからの人生を思えば、重大な罪を犯した加害者の人権を守るべきだなんて僕には言えない。

しかし、事実として加害者たちは僕たちの思う通りの「酷い目」に遭っているという事実。

この本を読んで自分はそのことが実感できたように思う。知っていたようで、知らなかったのだ。

 

最近、毒マフィンだとか言ってイベントで腐ったマフィンを売って炎上した人がいる。

あの人は、罰せられた。多くの人間によって。

それは「腐ったマフィンを多くの人に売って、多くに人に健康リスクを与えたから」だ。

多くの人間が批判し、怒りを向け、一挙手一投足に関心を払った。

誰かの電話に答えるたびに、インタビューに答えるたび注目され、

その発言や考え方は否定され、怒りを向けられた。

僕は毒マフィンを売った人を擁護している人なんて見たことない。

「そういうこと、起こったっておかしくないよね」と言ってる人さえ見たことない。

僕だって「バカじゃないのか。なんて甘い考えなんだ」と唖然とした。

あの人は、日本中の人間に否定され、怒りを向けられ、呆れられた。そしてその記録が残った。本名だって顔写真だって残った。

すでにある人間関係、これから会う人たち、全員に「自分はあの時炎上して、日本中の人間に否定され怒りを向けられた」ということ込みで接していかなきゃならない。

これは、重大な法律違反を犯して罰せられている人間たちとあまりにも罰の重さが近しすぎやしないだろうか。

何度も書くようだが、僕は加害者への罰を軽くしろとも、毒マフィン屋はこんなに叩かれるようなことしてないだろ、とも言いたいわけじゃない。一歩間違えば集団食中毒事件で、重大な罪に問われかねないということは分かっているつもりだ。

伝えたいのは、事実として人なら誰もが「人を罰してやりたい」という気持ちがあり、

実際に「人が罰せられている」ということ。

そしてそれはどこででも起こっているということだ。

重大な法律違反だろうと、出来心で人のイラストを自分のイラストだと偽ろうと、

一度多くの人に「罰の対象だ」と思われてしまえば、等しい罰を受けるということだ。

それが「ネットリンチ」であり、この本のなかで「羞恥刑」つまりは「恥によって尊厳が失われる罰」だと書かれていることだ。

 

この本の良い点は、実際に書かれているインターネット内外の事件が10年ほど前であることだ。この本が書かれたのが10年ほど前なのだろう。

現代はSNSの発達や、フェミニズムLGBTへの考え方が発達し複雑化している。

10年前は現代に比べると、その点では理解がしやすく単純に感じることができる。

既知の考え方や情勢が多く、理解しやすい。

反面、現代においてはこうはならないだろうな、ということも多く書かれている。

 

人が「こんなやつ、酷い目に遭えばいい」思うことはこれからも絶対に無くならない。

常に僕たちは多くの人の目に晒されて、穏当に平和に過ごすことを強いられている。

そして多くの人間が「穏当に平和に過ごしていない奴には罰を与えろ」と思って生きている。

あなたもそうかも知れないし、または窮屈に感じているかも知れない。

この本はそんな思いに対して、理解を深めるのにぴったりの本だ。

ぜひみんなに読んで欲しいと思う。

 

この本を僕に薦めていただいた方に感謝を。ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

KZNB VCRGTA 20230718完全版

youtu.be

どのような方たちに向けての動画と記事なのか説明

 自分は葛葉と桜凛月の関係性についての同人作品を書いています。

 2人が恋愛をすることを中心に書くことは最近なくなりましたが、書きたい物語を表現するうえで2人が恋愛関係になっていることがあります。

 自分は、いわゆる「CP」ということを前提とした考えを持っています。この記事もまた、そのことを前提として読んでもらうものになっています。

 「くずンボ」はその名を冠して公に動画や配信が提供されているユニットでもありますので、もし「くずンボ」は好きだけどCP要素は苦手だなと思われる方には非推奨の記事になっています。

 とはいえ、恋愛要素に関するものを詰め込んだという記事ではなく、「自分はそのような生業をしていて、くずンボの記事を書くとどうしても性質が出てしまいます」というていどに考えていただければ良いかと思います。

 

概要

 なんにせよ、葛葉と桜凛月の関係性をやっていく者として今回の爆発的供給であるVCR GTAに関して、まとまった資料が自分には必要です。

 この動画と記事はそんな自分用ではあるのですが、くずンボが好きな人は自分だけではないですし、くずンボのまとまった資料が欲しいと思っているのもまた自分だけではないはずです。

 しかしながら、このような爆発的供給の前で感情を排して記事を書けるほど自分は人間ができていません。

 オタクの気持ち悪い妄言をともなっての解説となることどうかご容赦いただきたいと思います。

解説と感想

 以下、動画を再生しながら読んでください。

 

0:00 初邂逅
0:28 全ゲームタイトル屈指の複雑なシステムを持つGTAに流石に苦戦

1:41 向こうから近づいてくるが、お互いに音声設定が上手くいっていない。当時、現地民はこれだけで大喜びだった。
1:53 初邂逅 同じくGTAの設定に苦戦中
2:23 葛葉の垂れ流しVCにつられて「よくわからない」と思わず口にして笑ってしまう。今度は自分が「どれだ?」と言うと葛葉が「どれが…」と言い出す
3:08 VCRGTAで最初に話しかけるシーン(聞こえていない)
4:21 ローレン、渋ハル、ゼロスト、スタンミ、居合わせた全員が葛葉と桜凛月2人ともに関係性がある
4:46 バランスを崩して思わず手が当たる、みたいな殴りモーションが偶然出ている
5:20 ローレンが「Bを押して」と指差しモーションで遊んだことで勢いがついて自ら話しかけることができた。葛葉が桜凛月に直接話しかけるのには、このシーンまでに長い時間があった
5:48 ゼロストにとって、葛葉はある意味「悪い先輩」(LoL)桜凛月は「社長」(VCRRUST)
7:04 「えーっと」とか言って大人しく殴られ待ちをしている
7:15 アルスの呼び方はあれだけ安定しないのに、ここでの連呼によって「TVさん」→「りつきんさん」呼びへの移行が自然と確定的に
7:37 「4倍だ、俺」このセリフ。夜中に古い友達と集まってじゃれあってるうちに2人で夜の中に飛び出して印象的なやり取りを交わす。これが怒涛の供給、その最初の爆発だった。
8:05 葛葉、ローレン、ゼロストのやり取りを見る桜凛月の気持ちを考えてみよう
9:30 いくらなんでも緩急効きすぎだろ
10:22 自分が殴られると思っているゼロスト。でも教えてあげる
11:10 いい感じってなに?
11:40 桜凛月の勤務先が桜モチーフなのが偶然なのヤバすぎるだろ
12:20 「ネコを撫でる」ってことがかわいいだけと見るか、それとも…
12:38 ノーリアクションのまま大人しく言う通りにする葛葉。この独特の距離感こそが醍醐味
12:53 桜凛月もこの独特な距離感を当然のように受け入れながら、SNSを楽しんでいる
13:35 GTAの音響仕様によって、葛葉の配信枠が桜凛月の擬似ASMRみたいになっているシーン
14:03 すばらしい
14:25 黛灰と葛葉2人がゲーム配信をしていた際にコーヒーがお互いに飲めない共通点を見つける。それを知った桜凛月は2人に勝った、と喜ぶ。pixivリンク先『葛の青葉〜』からツイート参照。
15:24 葛葉はこういうとき絶対反応しないが、好きにはさせる
16:13 言い聞かせるような口ぶり
17:35 桜凛月ASMR@葛葉枠2(ツー)
18:12 友達がバイト先に来て、くだけた感じと接客モードが入れ替わり立ち替わり出ちゃう感
18:43 「4倍返し」を思い出したが、勤務の最中っぽい店内の様子に引き返した可能性がある
20:15 「特に了解を得なくても葛葉がネコを撫でている様子はインターネットに公開していい」と思っている桜凛月
20:52 桜凛月視点だと、2人が同じ動きをしていることがわかる
21:10 別にリアクションしなくてもいいところには反応して言葉を返す葛葉
21:22 桜凛月視点だと押しまくっていることがわかる。葛葉もお返しにオノを構える
21:36 葛葉がコーヒーが飲めないことを思い出して嬉しそう
23:44 葛葉も桜凛月も子どもっぽいところがあることがわかる同時リアクション
24:15 マザーさんの「バイト先の頼りになるベテランさん感」すごすぎだろ。さすが役者。
24:54 え……? 葛葉の個人情報を嬉しそうに小さく口の中で繰り返すの、なに? もしあなたが葛葉だったら、どう思うでしょうか? おうちのひとと一緒に考えてみよう。
25:09 友達がバイト先に来ててもちゃんと接客をする桜凛月
25:39 夜のお店で働いていることが自分でわかっていないキャバ嬢みたい
25:52 のばまんさんは同じ木こりとして山で葛葉と会っている
26:08 「オノと言えば……あ!」
26:20 葛葉が店に来てくれたことを話す桜凛月の口もとはいつの間にか綻んでいた。外は眩しいくらいの日差しで、満開の桜をつけた枝々からは日の光が花びらと一緒にこぼれ落ちて来ていた。

改めて、感想

 私たちにとっての狂乱ともいえる今回のくずンボの供給は全てここから始まりました。

 市役所でのシーンは偶然立ち会った人がみな葛葉と桜凛月それぞれに関係があるという奇跡的なワンシーンです。

 このシーンは2人ともに全力で楽しんで、視聴者としてはただでさえ2人の本当に永遠とも思える長い期間を経たうえでのやり取りであるのに、それを抜きにしたってすごく面白い。

 大きなうねりのその始まりとして相応しいワンシーンでした。

 そして2人は夜の外へ駆け出して「倍返し」「4倍返し」のやり取りを交わします。

 あの夜の約束が今後どのような巡り合わせを生み出すのか、今後も動画として、言葉として残していけたらなと思います。

「メタバースは『いき』か?」(難波優輝・現代思想2022年9月号)に対して

 

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 上記巻号中に書かれた難波優輝さんの「メタバースは「いき」か?」に対して思ったことがあるので書く。

 

メタバースは「いき」か?」について

 この評論は、VRChatにて男性が美少女のアバターでコミュニケーションや自己表現をしていることを主として書かれている。のじゃろりさんのVRChat上での考え方を基にして、現実での自分を拒否するかたちで美少女アバターをかぶっていることに対して、それは「いき」ではないという主張が為されている。

 「いき」ではない理由として挙げられていることは、葛藤や苦悩する人間の美しさがそこには見出せないからだ、と私は読んだ。現実世界で理想に少しでも近づけるように努力をすること、または執着しているさまこそが、人間らしく美しいのではないかと語られ、それが「いき」であると定義づけられている。それに対し、美少女アバターをかぶり、美しい声色に変質させてコミュニケーションや自己表現を行うということは、現実世界で美しくありたい、でも上手く行かない、それでも何とか理想に近づけるよう試行錯誤するという行為から逃避しているとされ、「いき」ではないと筆者は書いていた。

疑問点

 私は、美少女アバターをかぶるということや美声に変声するという行為が、論中において力を持ちすぎているように感じた。私にとって、美少女アバターをかぶるということや声を加工する行為は、おしゃれをすることと変わらないように感じるからだ。

 筆者は、「おしゃれは自己実現のために試行錯誤する『いき』な行為」だとしているが、「仮想現実におけるバ美肉は『いき』な行為ではない」としている。

 たしかに、筆者の定義に間違いはないようにも私は感じる。現実では変更し難い生まれ持った要素を仮想現実ではまったく変えてしまう事ができるというのは、事実だからだ。

 それでも私が疑問を感じている理由は、「バ美肉をしても、コミュニケーションを重ねるたび、また、表現を様々なパターンで目にするたび、その人のもつ性格や性質が透けて見えることが多い」と感じることが多いからだ。評論の最後段には、未だメタバースは未熟で今後もっと発展していくにつれてバ美肉はもっと変わった存在になっていくだろう、とは書かれていた。私は結局いくら技術が発展したところで「中身が透けて見える」ということは変わらないのではないかと思ってしまう。

 ここまで書いておいて、これは私の主観における感想でしかないのでいまいち正確性に欠けることを書いているとは思う。私はファッションが好きであり、なんなら中毒に近く、血液型占いを信じ込んでいる人のように、その人の好きなブランドで性格を測ってしまうような悪い遊びさえ癖になってしまっているくらいなのだが、それでもその人の容姿で人間性を測ってしまうということは難しい。結局はその人の性格や志向性を測ろうと言葉や声色や表情などで判断しようとする。容姿はその人の人間性に対して中心を担うことはない。人間性通りの容姿をしていれば、「筋の通った人だな」「面白みのない人だな」と感じ、人間性にそぐわない容姿をしていれば「ギャップがあって良いな」「期待しすぎてがっかりしたな」などと勝手に思うだろう。容姿はその人を判断する時に、確実に影響を与えはするが、それだけで判断することは出来ない。

 それは、バ美肉においても同じことではないか。結局はその人の性格で自分に合っているのか、合っていないのかを判断するということはメタバース上でも変わらない。アバター(=容姿)はその人を判断する材料ではあっても、すべてではない。いわゆる「お砂糖」も、決してバ美肉技術の良し悪しだけで決まるものではないと思う。きっかけとして確実な影響を与えていても、性格や志向性が合わない人とは「お砂糖」関係になって恋愛には発展しない。

 「メタバースは『いき』か?」においてバ美肉は少し力を持ちすぎているように感じる。乱暴に言えば、「整形をして体型さえ完璧に整い、それが完全に自分の好みと一致していればその人には確実に恋に落ちることとなる」と書いているように感じてしまった。「おしゃれ」と「バ美肉」を比較している論なので、人間性による相性については書かれていなく、決してそのようには書かれていないのだと思うのだが、読んでいて「バ美肉」はそこまで万能ではないし、これからも万能足りえないのでは、と思ってしまう。

仮想現実だからこそ強く感じる事が出来るもの

 ここから書く事が、今回この記事を書いている理由となる。

 自分は普段、バーチャルYouTuberを見て暮らしている。ここ5年間、ずっとそうだ。そして、『メタバースは「いき」か?』を読んで、自分がなぜここまでVtuberに惹かれているのかが言語化されたように感じたのだ。

 私は、仮想現実のアバターをかぶったVtuberに「いき」を感じているから、惹かれているのだ、と思った。

 VRCにおけるアバターと、Vtuberはありようが異なるため、重なるところがあっても、全く同じものとして語ることはできない。しかし、「バ美肉は『いき』ではない」と書かれるこの評論に対して、同じく仮想の美しいアバターをかぶって活動するVtuberに「いき」を感じるのはどういうことなのか。

 それは、さきほども書いた「人間性が透けて見える」という感触から来ているものだ。活動者が、美しい仮想のアバターをして、そのキャラクターであろうとしながらも、やはり自ら持ちえる性格や経歴が透けて見える。それでも、Vtuberであろうとみんなを楽しませるために、自己表現をするために活動し続ける行い。それは「生まれ持った要素をおしゃれをして理想に近づこうと試行錯誤する行為=「いき」な行為」と全く同じように私は感じている事実がある。

 Vtuberは生身を晒しているゲーム配信者やアーティストと比較される。活動内容としては、「そのキャラクターであろうとしている」以外同じであるからだ。今や、表現活動においての単純なクォリティとしてもVtuberは遜色ないレベルまで発展しているが、Vtuberに惹かれる私としては、同じクォリティの表現をしていても生身の人間よりもVtuberの方に魅力を感じる。それが「いき」な行為を経ているか否かにあるのではないか、とこの「メタバースは『いき』か?」を読んで感じたからだ。

 ゲーム配信者やアーティストはただ真っ直ぐに視聴者に対して自らの魅力を伝えようと表現する。それはそれでもちろんすばらしく感動のできるコンテンツであることは間違いない。ただ、美しいアバターであろうとし、美しいアバターとして表現しようとしてくれるコンテンツは、私にとってより「いき」な努力を思わせて、その人の人間性に想いを馳せさせる。

 私は、「いき」な試行錯誤を経ているからこそ、より強くたしかに活動者の人間性が感じられる。「そのキャラクターでありたい、でも、現実世界で自分はそのキャラクターではない」そこから感じる感動は上手い演技をみたときに役者に与える喝采かもしれないし、複雑なトリックを経た手品師のマジックに対しての驚きかもしれない。その役者の稽古などの努力に対して想いを馳せることで、オリジナリティのあるトリックに対して考察を深めることで、表現者人間性に感服する。ただ、その表現者と相対して会話を交わすこととは全く違った感動がそこにはある。それは表現者が自ら技術に対して持っている愛さえ美しく感じられる。

『ドラキュラ紀元』を読んだ

 この小説はどれくらいの知名度なんだろうか。

 漫画『ヘルシング』はもちろん、Fateシリーズにも大きな影響を与えているんじゃないかとどうしても勘繰ってしまう。誰もが耳にしたことあるような怪物や偉人が物語狭しと活躍、字の通りまさに活き躍る作品。

 自分は一応はオタクとして生きていると自覚はしていても、各種評論や作家同士の対談など、手軽に読めるものしか目を通せていない。設定集とか、高いからね……作家の座談会とか、全部東京だしね……。

 そのために自分の記憶では、定番の質問やトピック「この作品に影響を与えた作家や作品は?」という事項に対してこの『ドラキュラ紀元』を目にした記憶がないのが不思議に思える。

 それほどまでに、ファンタジー小説として、伝奇小説としての読み味は充実している。

 

 『ドラキュラ紀元』に類する物語作品は今や数多くあるかもしれない。Fate、特にFGOの隆盛以降、恐ろしいことに二次創作でも資料と考察が練られたものであればこれくらいの情報量の作品を目にすることは、2023年現在簡単なことかもしれない。

 でもそれは結局、現在になって書かれた物語であり、この小説の魅力のひとつとしてあるのは、確実に90年代前半に書かれているということが挙げられる。

 物語の構造、そして何より文体が30年近く前に作られたものであると読者に訴えかけながらも、16歳の少女のまま400年近く生きるヴァンパイアの少女と、英国秘密結社の闇を抱えた男という、鮮やかな関係性が映えている。

 

 『ドラキュラ紀元』は紛れもない冒険小説だった。もちろん作者は独自に調査した資料と同志たちと練った考察を読者に伝えるために、物語を作ったのだと思う。

 切り裂きジャックの無惨な犯行は、ヴァンパイアが跋扈する世界にあって現実にも増してグロテスクで、異形が支配するロンドンは退廃を極め陰惨に描かれている。

 そのような環境下にあっても、この小説は読んでいて楽しい。読者の身に馴染む鮮やかさを湛えた登場人物が、陰謀渦巻く殺人事件の真実に近づいていく展開は、次々と気持ちよく物語の続きを読みたくさせる。その欲求に自然と従えば、グロテスクなはずなのに読んでいて爽やかにも思えるほどの冒険を感じることができる。

 

 以下、こんなことを書くと、アナログ主義なのかとか、結果よりプロセス派かよとかいう感じだが。

 30年前に資料と考察を存分に詰め込んだ伝奇を書くとなると、インターネットが発達した現在とは情報のインプット・アウトプットが変わってきて、それにより物語の形成も30年前当時特有になって読み味に現れるということもあるんじゃないかと感じさせる。

 それはある種小説に酔わされたロマンチックな想像かもしれないが、血と霧に酔わされるというのは、『ドラキュラ紀元』に上手く浸ることができた証拠にもなるんじゃないかと、悪い気はしない。

『世界最先端の研究が教えるすごい哲学』を読んだ

horei.com

 図書館で司書として働いていたとき、私は中高生向けの本に関する業務が多かった。叫ばれる「中高生の読書離れ」に向けて各出版社たちは数多くの中高生向け書籍の出版に挑戦していた。それらを目にするたびに、どうしても穿った考えをしてしまう。「中高生が『中高生向け』と銘打たれた本を手に取るだろうか?」

 前提として「図書館を利用する」中高生がそもそも少なく、なんらかの目的意識を持つ機会がないと、多くの中高生は図書館を利用することなく大人になっていく。学校図書館さえ授業以外で一度も利用せずに卒業するのは当たり前ではないだろうか。部活動に邁進している生徒や、受験に向けて勉学に打ち込んでいる生徒が、誰もが目指すべき理想像としてある以上、そんな忙しい生徒たちが「わざわざ図書館を利用する」という選択をして、あまつさえ「本を手に取って読む」という行為に至る暇はない。本当に図書館を中高生に利用をして欲しいなら、「周辺で行われた部活動の全試合のスコアがまとめられた資料がある」とか「受験勉強に必須な模試などの書籍を数多く所蔵している」とか、そういう公共図書館としては現実的でない手法を取らざるを得ないだろう。

 私は図書館にわざわざ来るのは元来本が好きな中高生だけだと思っている。環境や教育の影響で読書に慣れている中高生が「読書経験が浅い中高生でも読めるような本だよ!」と書かれた本をわざわざ手に取るだろうか。絵本や児童書を経て、大海原のごとく広がる一般書に臨んで、「ようやく読めるようになって来たぞ!」と意気込んでいる本好きの中高生があえて一般書を平易にした書籍を手にとることに私は共感を持てない。もちろん中には一般書へと上手く橋渡しするような中高生向け書籍もある。しかし多くは名著と呼ばれる本を薄めただけの本ばかりだ。それでも公共図書館の中高生向け担当や、学校図書館脳死で選書するのだから出版社としては正しい。

 だから私は司書であったとき、あえて大人向けの本を選書することが多かった。専門知識や学問に向けてガイドになってくれるような一般書で、装丁やデザインやレイアウトが洗練されてカッコよかったり可愛かったりするようなものを選んで中高生に向けた棚に置いていた。しかし図書館というのは予算に限りがあり、予算が豊かな館でも棚に置ける本には限りがある。そういう良書は一般書が並ぶ書架にも欲しい本であり、結局「そんな大人向けの本を置いて中高生が読むとは思えない」という意見に晒され続けた。実際、私のこんな「中高生向けと銘打たれた本どれもおもんなさそうすぎる」という意地の悪い考えで選書された書架を作ったところで来館者が増えるわけでもなんでもないので、意味はなかったのかもしれない。その思想を捨てきれなかったために結局こうして私は司書として働き続けることができなかったわけだし。

 『世界最先端の研究が教えるすごい哲学』、この本を手に取ってまず思い出したのが、前置きに長々と書いた当時の気持ちだ。当時の私が司書としてこの本を手に取ったとき「読書が好きな中高生に向けてピッタリの本だ!」と喜んだことだろう。

 この本は題打たれている通り、哲学研究の中でも新しい論考が多く取り扱われている。そのため、中学生には意味が捉えづらい言葉や表現も数多くある。でも、読書が好きな人間はみんなそうであると勝手に思い込んでいるが、わからない言葉に出会った時にこそ知的好奇心が刺激されるというものではないだろうか。そしてその知的好奇心こそ、読書が好きな中高生の数多くが持っている気持ちではないだろうか。

 わからない言葉が延々と続けばその先読了ならず本を置くこととなるだろう。知っていることやわかって当然だと感じる表現が延々と続けばそのうち飽きてスマホを片手にし本を置くこととなるだろう。重要なのは、知らない文章と、意味のわかる文章がバランスよく書かれていることだ。この本はまず記事冒頭に共感を得やすいトピックを置いて、哲学的な専門知識で噛み砕いて説明してくれる。

 YouTubeにおける学問チャンネルとしては「言語学ラジオ」が巷では人気だ。言語学ラジオを旗頭として数学や哲学など、さまざまなYouTubeチャンネルが立ち並び盛んに活動を行っている。私も視聴者の一人だが、ついつい途中で視聴を止めてウェブブラウザの検索窓に動画タイトルにあるトピックを投げ込んで検索に耽ることがままある。パラドックスだとか超弦論だとか、込み入った内容を人の解説の声を聴くに任せるより、結局はネット記事を読んだ方が手っ取り早い時があるからだ。せっかく途中まで動画を視聴したのに、堪え性なくもどかしくてインターネットの記事頼るということは、多くの人も経験しているかもしれない。

 それで言えば、『すごい哲学』内の目次に並んだ記事一つ一つが、私にはまるでYouTubeの動画タイトルが並んでいるようにも見える。

 

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 多くの人が関心を持つトピックスが並んで、専門知識を持つ人が解説をしてくれる。YouTubeの視聴をやめてついつい検索をしてしまう人間にとってこういうのが一番いい。YouTubeと違って出版されている本なので専門家は出自は明らかで、情報の参照先の論文タイトルまで明記されている。どこで何を研究している人なのかよくわからない人間が、一体何を基にして語っているのかよくわからないことを延々と聞く羽目になるという、動画視聴における不安も、当たり前だがない。

 私としては、「レアグッズの転売は道徳的に問題なのか?」「死んだ人をバーチャルキャラとして「復活」させていいのか?」という記事はオタクとして活動していると日々感じる疑問のすぐそばにあり、気を引かれた。その行為を不快に感じて何らかの問題があるとわかっていても、どういう点がどのように問題とされているのかまでなかなか考えることができない。ただ友達に「転売ってカスだよね」「Vtuberだからって何してもいいわけじゃないよね」と日々愚痴る程度のことだ。転売という行為は経済活動として人にどんな影響を与えるのか、ファンはグッズをどのように扱うべきなのか。人は死んだ後にプライバシーがあるのか、人は死んだ後にもキャラクターとして存在し続けるのか。さまざまな問いについて具体的な研究結果が示されていて、私は自分の中での理解を前進させる良いきっかけになった。

 この本の「あとがき」にもあるように、哲学研究者が日々論文を読むなかで、「面白いけど研究成果にはつながらない」となってしまった経験をそのまま捨て置くには勿体無い、と本にまとめてくれたものだ。一応は章立てされていても本を通してはっきりとした流れがあるわけでもなく、集まった各著者の文の調子などもバラエティに富んでいる。だからこそ飽きが来なくて楽しいとも言えるが、まとまりに欠けるとも言えるかもしれない。本当にYouTubeで「意外と身近な哲学」と検索したときに、偶然良さそうな動画がずらりと並んで、そこから拾って視聴していくような読み味だ。研究者が日々作業を行うその様を表すためなのか、重要な箇所は太文字になって蛍光ペンでラインを引いたようなレイアウトが為されているが、これも私にとっては該当箇所が目を引きすぎて読みづらかった。

 ただ、『世界最先端の研究が教えるすごい哲学』という本のタイトルがこの本がどんな本なのかを表しているとも言える。これはまさに簡潔さや意味深さをかなぐり捨てて「人の目を引く」ことに特化している。YouTubeでおしゃれな動画をたくさん作りたい、変わった動画を作っていきたいと意気込んだクリエイターが回を重ねるごとに黒枠赤太文字ドーン!なサムネになっていくことは珍しいことじゃないと耳にしたことがある。だから、もしかしたら「世界最先端の研究が教えるすごい哲学をまとめた本がないかな」と考えているある程度読書経験があるような人の一部は、このタイトルというだけで黒枠赤文字ドーン!な気配を感じて手に取りづらく感じるかもしれない。だからと言って、もっと簡潔だったり、意味深いタイトルをつけるべきだろう、とは私は思わない。この本は紛れもなく『世界最先端の研究が教えるすごい哲学』をまとめた本であり、このタイトルが持つもしかすると俗っぽいとも思える雰囲気は、親しみやすさと知的好奇心を刺激するバランスが上手く取れている本だということがしっかり表れているからだ。

『ミッドサマー』を観た


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 小さな頃から白という色が好きで、本能として白を基調としたデザインに落ち着きを感じるし、自覚的に白を好きでありたいと思ってもいる。白についてこだわりのあるデザイナーたちを尊敬して止まないことも、私が白への思いをたしかにする大きな理由だ。

 私が白を好きな理由は、まずもちろん白の持つポジティブな印象が好ましいからということがある。清潔感、明るさ、シンプルさ。そういった要素が身近にあると安心する。白がよっぽど嫌いでなければ、多くの人が白を基調としたデザインを目にしたとき、同じように感じることだろう。

 しかし、自分を見つめようとしたなら、私が白に惹かれてやまない理由は、ポジティブな理由がけっして中心を占めない。白が持つネガティブな要素に私は惹かれている部分が大きいと感じている。「漂白」という言葉が持つ本来の意味としても、また、比喩として使われるときにも、彷彿させるネガティブなイメージ。あったはずなのに、失われてしまった、というような。白ということは、黒ということよりも「なにもない」「無」を思わせる。

ja.wikipedia.org 人間が周囲すべて、白に塗りつくされると、感覚を失ってしまうという現象がある。それがホワイトアウトだ。視野における方向感覚はもちろん、付随して聴覚や触覚の麻痺を引き起こすとパニック状態になることもある。ホワイトアウトに代表される現象への恐怖と、白に対して想起される恐怖は、同調している。

 私は白の恐ろしさに惹かれてやまない。白いことへの安らぎに恐ろしさが表裏一体となっているから私は白が好きだ。ただひたすらに心地良いだけでは説得力も拠りどころもなく、心の底から安らぐことはできない。白への恐怖が安らぎを下支えしている感覚が、私にはたしかだ。そして、白への安らぎが誰にも平等で、享受が容易であるからこそ、人は白への恐怖を思い出し、強く恐れるのかもしれない。

 

 映画『ミッドサマー』は「画面は常に極めて明るいにもかかわらず、だからこそ怖ろしいということが画期的だ」という評判が記憶にある。私はホラーに明るくないので、それがどれほど画期的なのかを測ることはできなかったが、そのとき私は嬉しく思った。白く塗り込められた恐怖を描いた作品が出来、しかも高い評価を得ているのであれば、私にとってそれはたしかに喜ばしいことだからだ。

 前もって思い描いていた通り、この映画は白と、白く飛ばされたような明るさに、花々が常に散りばめられていた。私たちが過ごしているような日本では、常に白飛びするほど明るい画面で映画を撮ることは普通のことではないだろう。私たちには毎日、夜がやって来るから。『ミッドサマー』は北極圏に近い土地の夏至祭、白夜が最も長い時期のスウェーデンが舞台だ。私は、時々白夜の夢を見ることがある。いつまで経っても夜が来なくて、ずっと夏のように日差しが明るいまま時間が流れていくという夢だ。私にとってこれは悪夢だ。夜がいつまでも来ない夢は、理由のない焦燥感に駆り立てられて、怖ろしい。

 白への恐怖や、白夜への恐怖が元来私のなかには色濃いため、『ミッドサマー』という映画は私にとって新鮮な意外性があるというよりも、共感を誘われる画面演出が多かった。「そうそう、こういうのって怖いよね、こういうのが観たかったんだ」といったような。いつ目が覚めてもいつまでも明るいままの空、幸せと安らぎを象徴する草原と花々、笑顔の人たち、色鮮やかな刺繍が施された清潔な衣装、ひたすらにそんな明るい世界がいつまでも続いていきそうな悪夢。作中出てくる薬物の効果と演出にも助けられて、感覚がホワイトアウトによって麻痺していく恐怖を感じられるのは、『ミッドサマー』ならではの魅力だろう。

 

 私が個人的にお気に入りだったシーンは物語の導入、起承転結の「起」、妹が両親と無理心中するシーン。それともう1つ。最後主人公が異常に大量の花々にくるまれ、花でできた着ぐるみをまとってずるずると引きずりながら泣き叫ぶシーンだ。

 前述の通り、終始明るい画面が続くために、妹が両親と無理心中するシーンは記憶に残りやすい。なぜならこのシーンは夜の暗闇のなか、ガレージの車から排気ガスを粗末なホースで家の中へ取り込んで銀色のダクトテープで密閉して酸欠状態を作り出しているからだ。自然豊かでスピリチュアルな描写が占めるこの映画で、生活感に溢れインダストリアルな小道具を使って怖ろしさを演出している心中シーンは対比をはっきりと感じて印象的だった。

 序盤にこの印象的な心中シーンがくるために、実は私は以降のホラー描写を弱く感じてしまった。この心中シーンは脚本の引きも、カメラワークや演出も凝られていてとても質を高く感じた。それゆえに、以降の薬物による幻覚効果や、コミューンの異常さも、心中を越える怖ろしさに思えなかったし、コミューン内のアルカイックスマイルで常にフレンドリーな住人よりも、主人公の妹の方が怖く感じてしまった。ただでさえ精神が不安定な主人公だと描かれてから、妹が両親と無理心中するのはあまりにもショッキングすぎる。不快ということではなく、ホラーを観るためにこの映画を観ているわけだから、そういう意味で妹がホラー映画の登場人物として良すぎるのだ。ホラー的な価値観で、倫理観を抜きに言うと、排気ガスを引き込んだホースをダクトテープで直接自分の口に接着している妹の死に方は映画的にあまりにもかっこよすぎた。

 第2に、花まみれの異常な着ぐるみとなってしまった主人公が泣き叫ぶシーンは、『ミッドサマー』に出てくるさまざまな異形たちのなかで1番造形が好みだった。映画を見た人たちが口々に語るように、人間がグロテスクに損傷されているシーンがいくつかある。ただグロテスクというよりも、制作者たちがさまざまな趣向を凝らして工夫して人間たちをグロテスクな造形にしている。人間の顔面の潰し方が演出がかっていたり、死体が分解して再構築されていたり、『ミッドサマー』らしく花や草木で死体が飾りつけられていたり、人間の死体でなくても、様々な異形がこの映画には登場してくる。さきほども言ったが、ホラー映画を観ようとして観ているわけであるから、こういうものを観るために観ているわけだ。だからこそ、独特の価値観で私は映画を観てしまった。コミューンの異常さを演出するために、ここまで死体の造形に手が込んでいると、面白みを感じてしまう。コミューンの異常さというよりも、制作者たちのアイデアに感心してしまうのだ。今まで誰も作ってこなかったような死体を作って、このコミューンの異常さを描こうという意思よりも、その造形の凝りようとアイデアのほうが面白くなってしまった。私がホラー映画を見慣れていないせいで上手く入り込めなかったのだろう。

 そんななかでも、花の着ぐるみ状になった主人公はよかった。顔以外すべて大量の花で覆われて、花でできた巨大ななめくじか、スライムのようになって泣き叫ぶラスト。制作者の意図通りなのか、『ミッドサマー』を象徴しているかのような造形だと感じた。手足も出ないほどに花に埋め尽くされて、這いずり回るしかない異形と成り果てても、主人公の顔だけは狂気に侵され泣き叫んでいるというという壮絶さ。ここだけ切り取れば、どこか神話か伝承の一部のような、示唆に満ちたシーンにも見えるほどに象徴的であるところが好ましい。主人公は精神的にも不安定で泣き叫びパニックになるシーンも多く、その演技にも最後は磨きがかかっていたからこそかもしれない。

 

 『ミッドサマー』という映画は、物語に意外性や落としどころがあるわけでもなく、全体的にどこか示唆に満ちていて、詩的な雰囲気があった。スウェーデンの白夜も、草原に咲く花々も、衣服や内装に施された装飾も、その詩的な雰囲気とマッチしていた。脚本に展開や結末への納得があると、いまいち舞台と合致しなかったかもしれない。それゆえに、何度も観るとそのたびに発見がある映画かもしれないと思う。

 またいつか私はいつまでも夜が来ない白夜の夢を見るだろう。または、花々に埋もれて身動きが取れない夢も見るかもしれない。そんな夢を見て目覚めた朝、私はきっとこの映画を思い出す。